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第15話 禁忌を開ける者

 ルーは、万物堂へ残ると決めてから遠慮をしなくなった。

 傷が安定するまでは暖炉のそばで眠っていたが、今では店内の好きな場所へ現れる。

 正確には、現れたり消えたりする。

「白い猫はどこだい」

 マルタが客席を見回した。

「先ほどまで窓辺にいました」

 エレノアが答える。

「逃げたのかね」

「店内にはいると思います」

 マルタが椅子へ腰を下ろそうとした。

 座面から白銀の頭が現れる。

「うわっ!」

 完全に透明になっていたルーが、椅子の上で丸くなっていた。

 片目だけを開け、驚いたマルタを見る。

「いるなら先に言いな」

 ルーの姿が再び薄くなる。

「わざとですね」

 エレノアが言った途端、作業台の炭筆がひとりでに床へ落ちた。

 窓辺にいたミケが顔を上げる。

 炭筆を落とす役目を奪われ、不満らしい。

 ミケが作業台へ飛び乗る。

 白銀の尾だけが現れ、棚の上へ逃げた。

 ミケが追う。途中からライも加わった。

 三匹は梁、棚、机の下を駆け回る。

「店内では走らないでください!」

 エレノアの声が響く。

 ルーは姿を消し、ライはカウンターの下へ滑り込む。

 ミケだけが梁の上に残り、自分は関係ないという顔をした。

「最初に追いかけたのはミケです」

 ミケは背を向ける。

 客席から笑いが起きた。

「すっかり普通の猫だな」

 鍛冶職人が言う。

「普通の猫は消えません」

「街を焼ける猫も、雷で鎧を砕く猫も普通ではないね」

 マルタが椅子を確認して座り直す。

「どれも猫だ」

 バルドは壊れた水差しを直しながら答えた。

「その分類が一番大ざっぱなんだよ」

 ルーはやがて姿を現した。

 選んだ場所は、ミケがいつも使っている窓辺の寝床だった。

 中央へ身体を丸め、目を閉じる。

 戻ってきたミケが足を止めた。

 寝床を見る。ルーを見る。

 もう一度寝床を見る。

「先に使った方が優先です」

 エレノアが言う。

 三本の尾が不満そうに膨らむ。

「威圧しても交代しません」

 ルーは目を開けない。

 ミケは諦め、バルドの作業台へ飛び乗った。

 直しかけの水差しの上へ座る。

「そこも使う」

 バルドが言うが、動かない。

「甘やかしすぎです」

「喧嘩をしないならいい」

「仕事が止まっています」

 バルドは別の修理品へ手を伸ばした。

     ◇

 三匹が店内を走り回るため、バルドは猫用通路を増やした。

 壁沿いの棚。梁から窓辺までの橋。人間が入れない休憩場所。二階へ続く細い階段。

「増築はしない約束でした」

 エレノアは図面を見た。

「棚を増やしただけだ」

「壁の中に部屋ができています」

「使っていなかった空間だ」

「猫三匹には広すぎます」

「ルーが消えると、どこにいるか分からない」

「広くすれば、さらに分からなくなります」

 新しい小部屋へ、ミケとライが入る。

 ルーは入口で姿を消し、数秒後、最も高い棚へ現れた。

「気に入ったらしい」

「費用も帳簿へ記録します」

「材料は使っていない」

「店主の労働は無料ではありません」

 万物堂には、以前より多くの客が来ていた。

 修理を頼む者。食事をする者。三匹の猫を見たい旅人。

 王都や近隣都市から来る客も増えている。

 原因は、事実より大きくなった噂だった。

「万物堂では、災厄級魔獣が客の膝で昼寝をするらしい」

「していません」

 エレノアは旅人へ訂正した。

「触れるかどうかは猫が決めます」

「店を襲った盗賊は、猫パンチで山まで飛ばされたとか」

「通りの反対側までです」

「飛ばされたことは本当なのか」

「一名だけです」

 別の旅人が古い短剣を出した。

「壊れた神器も直ると聞いた」

 バルドが触れる。

「普通の鉄だ」

「祖父は神器だと」

「柄の中に土産物屋の刻印がある」

 旅人は黙った。

「歪みなら直せる」

「お願いします」

 神器でなくても依頼は成立した。

 店を襲えば山まで飛ばされる。

 どんな呪いも解ける。

 猫へ認められれば幸運になる。

 食事をすれば病気が治る。

 噂は広がり続けた。

 エレノアは店内へ注意書きを掛けた。

 万物堂は神殿ではありません。

 猫に御利益はありません。

 治療は必ず成功するものではありません。

 ルーが透明になったまま板の上へ乗る。

 注意書きが壁から外れた。

「外さないでください」

 街の宿は満室になり、市場や食堂も久しぶりに賑わっていた。

 閉じていた土産物屋まで、三匹を模した木彫りを売り始めた。

 街が活気を取り戻すことは喜ばしい。だが、注目が増えるほど、侯爵から狙われる危険も高まる。

 エレノアは浮かれる住民たちを見ながら、胸の奥に不安を覚えていた。

     ◇

 その夜、エレノアは荷物を整理していた。

 研究施設から持ち出せた物は少ない。

 母の首飾り。家の印章。数枚の書類。薄い革張りの手帳。

 手帳は亡くなった母から渡された物だった。

 雨に濡れた表紙の内側が剥がれ、隙間から折り畳まれた羊皮紙が見えている。

 エレノアは慎重に取り出した。

 古い王国語で記されている。

 最初の一文を読み、息を止めた。

 アルヴェインは獣を従える者にあらず。

 声なき声を聞き、人と獣の間に立つ者なり。

 古代、人間の領域がまだ狭かった頃。

 山や森には、強大な魔獣が守護者として暮らしていた。

 中でも猫型魔獣は土地の魔力と深く結びつき、人間から恐れられていた。

 人間はその力を欲した。捕らえ、従わせようとした。

 争いが起き、多くの命が失われた。

 その間へ立ったのが、アルヴェイン家の祖先だった。

 命令するのではない。契約で縛るのでもない。

 魔獣の感情を受け取り、人間へ伝える。

 人間の事情も、魔獣へ届ける。

 支配者ではなく、聞き手。

 それが、アルヴェイン家の役割だった。

 母の筆跡で追記がある。

 我らの血は、獣を命令へ従わせるためにあるのではない。

 怒り、悲しみ、恐れを受け取るためにある。

 この力を支配へ用いれば、古き盟約は破られる。

「聞き手……」

 エレノアは呟いた。

 研究施設でライを見つけた夜。

 声を聞いたわけではなかった。それでも地下の奥に、苦しんでいる存在がいると分かった。

 押し寄せてきた恐怖と痛みを辿り、ライの檻へたどり着いた。

 扉の外に、ライが立っていた。エレノアの声を聞き、部屋へ入ってくる。

 灰色の仔猫は机の上の羊皮紙を見た。

 エレノアは手を伸ばさず、胸へ触れる感覚に意識を向けた。

 眠い。知らない紙の匂い。

 エレノアが沈んでいることへの小さな不安。

「ライ?」

 言葉ではない。だが、自分のものではない感情が、かすかに流れ込んできた。

 ライが机の脚へ身体を寄せる。

「大丈夫です」

 不安が少し薄れたように感じる。

 そこへバルドが夜食を持って現れた。

「まだ起きていたのか」

「これを見てください」

 エレノアは羊皮紙の内容を説明した。

「アルヴェイン家は、魔獣を制御する家系ではありませんでした」

「聞くための力か」

「はい。完全な会話ではなく、感情を受け取る程度だと思います」

「それでライを見つけた」

「おそらく」

 バルドは足元のライを見る。

「今は何か聞こえるか」

「眠いそうです」

 ライが大きな欠伸をした。

「それと、夜食が気になっています」

 バルドの手には鶏肉の皿がある。

「それは見れば分かる」

「そうですね」

 エレノアは笑った。

 だが、羊皮紙の最後の一文で表情を戻した。

 聞き手が絶え、獣を縛る者が封を破るとき、古き守護者は怒りとともに目覚める。

「古き守護者とは、特定の魔獣でしょうか」

「侯爵が探している遺物と関係があるかもしれない」

 魔獣を従わせる古代の遺物。獣を縛る者。

 偶然とは思えなかった。

     ◇

 北部山岳地帯の奥。

 銀剣の黎明は、侯爵の地図に記された古代遺跡へ到着していた。

 巨大な石扉には、猫の瞳を模した紋章が刻まれている。

「本当に入るのか」

 ディーンが尋ねた。

「そのために来た」

 レオンは答えた。

「侯爵は封印を解除すれば、遺物が手に入ると言った」

「なぜ封印されたかは聞いていない」

「古代人が恐れただけだ」

 マルクが石扉を見る。

「白銀幻猫の捕獲も失敗した。万物堂でも退けられた。次は正体不明の遺物か」

「負けていない」

「剣を落としただろう」

 ディーンが言う。

 レオンの顔が歪む。

「何が言いたい」

「侯爵の依頼を断ろう」

「今さら?」

「今なら、依頼を失敗しただけで済む」

「成功すれば、すべて戻る」

「何がだ」

「装備。名声。銀剣の黎明の評価」

「バルドに見返したいだけだろう」

「違う」

「違わない」

 ディーンは石扉から離れた。

「俺は降りる」

 マルクも頷く。

「俺もだ。侯爵は何も説明していない」

 セシリアは答えられず、杖を握っている。

 レオンの胸へ焦りが広がった。

 ここで引けば、銀剣の黎明は終わる。侯爵の支援も失う。

 バルドには、自分たちだけでは何もできなかったと思われる。

「俺一人でも行く」

 レオンは侯爵から渡された鍵を、石扉の紋章へ差し込んだ。

「待て!」

 鍵を回す。

 石扉の奥で、重い音が響いた。

     ◇

 ヴァレント侯爵邸では、遺跡の反応が観測されていた。

「封印装置が起動しました」

 術師が報告する。

「解除までどれほど掛かる」

「最深部へ到達できれば、半日ほどです」

「何人必要だ」

「一人いれば」

「なら問題ない」

 侯爵にとって、銀剣の黎明は英雄ではなかった。

 人気のある看板。危険な場所へ送り込める駒。封印を開けるための鍵。

「レオン・ガルディアは執着が強い」

 侯爵は淡く光る魔力計器を見た。

「英雄になれると言えば、どこへでも行く」

「遺物を制御できる保証はありません」

「アルヴェインの血がある」

「公爵令嬢は万物堂にいます」

「いずれ取り戻す」

 侯爵は机の中の黒い首輪へ触れた。

「聞き手の血を、支配者の血へ変える。成功すれば、王国はすべての魔獣を兵器にできる」

     ◇

 遺跡の最深部。

 円形の広間の中央に、巨大な猫が眠っていた。

 伏せていても、二階建ての建物ほど大きい。

 石のように固まった毛。重なり合う無数の尾。

 首には巨大な首輪があり、そこから伸びた鎖が壁と床へつながれていた。

「これが遺物か」

 レオンが呟く。

「違う」

 セシリアの声が震える。

「生きている」

 巨大な胸が、わずかに上下していた。

 広間の奥には封印装置がある。

 中央には、レオンの鍵と同じ形の窪み。

「触るな」

 ディーンが言う。

「これは支配する装置じゃない。封じている装置だ」

「何も持たずに帰れば、俺たちは終わる」

「開ければ、本当に終わるかもしれない」

「俺は終わらない」

 レオンは鍵を取り出した。

 三匹の魔獣を前に剣を落とした自分。バルドに拒まれた自分。

 その瞬間を消すには、成功するしかない。

「やめろ、レオン!」

 鍵を差し込む。回す。

 広間へ低い音が響いた。

 壁につながれた鎖が一本ずつ緩む。

 巨大な猫の身体へ亀裂が走る。石の下から、暗い灰色の毛が現れた。

 瞼が開く。燃えるような赤い目。

 広間が、長い怒りで満たされた。

     ◇

 遠く離れた万物堂。

 窓辺で眠っていたミケが、突然目を開いた。

 ライが跳ね起き、全身へ雷を走らせる。

 透明になっていたルーも、白銀の姿を現した。

 三匹は同時に北を見た。

 エレノアは胸を押さえ、寝台から起き上がる。

 流れ込んできた。痛み。怒り。裏切り。長すぎる孤独。

「封印が……」

 万物堂の床が震えた。

 バルドが一階へ下りてくる。

「何かが目覚めた」

 地の底から、低い鳴き声が響く。

 遠く離れているはずなのに、街の窓ガラスが震えた。

 ミケが牙をむく。ライの雷が床を走る。ルーの姿が幾重にも揺らぐ。

 古き守護者が、長い眠りから目を覚ました。


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