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第14話 戻ってきてやってもいい 改稿

 銀剣の黎明が万物堂へ足を踏み入れると、店の空気が目に見えないところで張りつめた。


 窓辺にいたミケは逃げも威嚇もしなかった。ただ三本の尾を一本に重ねたまま、金色の目で来訪者たちを追っている。ライはカウンターの下へ身体を隠し、青い目だけを覗かせていた。暖炉近くの寝床では、ルーが白銀の身体を薄く透かしている。傷はまだ癒えきっていない。見知らぬ人間が四人も入ってきたことで、いつでも姿を消せるよう身構えているのだろう。


 二階から降りてきたバルドも、万全とはほど遠かった。熱はまだ完全には下がっておらず、身体の節々には白銀幻猫の治療で受け取った痛みが残っている。手すりを離した瞬間に足元が揺れたのを見て、エレノアがすぐ隣へ寄った。


「寝ていてください。話なら私が伺います」


「俺に用があるらしい」


「話すだけなら寝台でもできます」


「元仲間を寝室へ通す方が落ち着かない」


 バルドがそう答えると、エレノアは不満そうに眉を寄せたものの、それ以上は止めなかった。ただし、転びそうになればすぐ支えられる距離だけは譲らない。


 店の中央に立つレオンは、そのやり取りを昔と変わらない笑みで眺めていた。金髪に整った顔立ち、よく手入れされた外套。腰には新しい長剣が下がっている。


 かつての聖剣《アルヴァレス》ではなかった。


「ずいぶん繁盛しているようだな」


 レオンが店内を見回しながら言った。


「辺境で古道具屋を始めたと聞いたときは、どうなることかと思ったが」


「修理屋だ」


 バルドが訂正すると、レオンは軽く肩をすくめた。


「食事も出しているんだろう」


「軽食だ」


「猫もいる」


「それは見れば分かる」


 昔なら、この程度の軽口で場が少し和んだかもしれない。だが今は違った。


 レオンの視線がミケへ移り、次にカウンター下のライへ向かう。最後に、暖炉そばの寝床で身を縮めるルーへ止まった。首にはまだ黒い呪具が残っている。追跡術式はかなり弱まったものの、魔力核へ食い込んだ部分まで安全に外すには、もう少し時間が必要だった。


「その白銀幻猫は、俺たちが追っていた獲物だ」


 レオンの声を聞いた瞬間、ルーの輪郭がさらに薄くなった。


「獲物ではありません」


 間を置かず、エレノアが言った。


 レオンはそこで初めて、彼女を正面から見た。


「エレノア・アルヴェイン公爵令嬢ですね」


「現在は万物堂の店員です」


「公爵令嬢が給仕をしているという噂は本当だったか」


「本当です。ただし、ご注文がないのでしたら営業時間外の長居はご遠慮ください」


 丁寧ではあるが、歓迎している口調ではない。レオンの笑みがわずかに固まった。


「今日は客として来たわけではない」


「それは入店された時点で分かっています」


 エレノアが淡々と返したところで、バルドは客席の椅子へ腰を下ろした。立ったまま話し続ける体力は残っていない。向かいへレオンが座ったが、他の仲間たちはすぐには席につかなかった。


 魔術師のセシリアは、壁や梁へ何度も視線を走らせている。昨夜の魔獣ハンターを退けたという話を聞き、店の防御構造を探っているのだろう。重戦士のマルクだけは店ではなく、バルドの顔を見て眉を寄せた。


「ひどい顔だな」


 マルクの言葉に、バルドは肩をすくめた。


「少し寝不足だ」


「少しには見えないぞ」


「店主は休憩時間を守りません」


 横からエレノアが口を挟んだ。


「現在、改善指導中です」


 それを聞いて、斥候のディーンが小さく吹き出した。


「相変わらずだな、おっさん。誰かに止められないと休めないのかよ」


 その声音だけは昔と変わっていなかった。


 バルドは三人を順番に見た。何年も同じ焚き火を囲んだ仲間たちだった。傷を直した。装備を整えた。食事を作った。眠っている間には見張りを代わり、歩けない者がいれば背負った。


 それでも追放を告げられた日、誰一人としてバルドの側には立たなかった。


「話とは何だ」


 バルドが促すと、レオンは背もたれへ身体を預けた。ようやく本題へ入れることに安心したように、笑みを少し深くする。


「単刀直入に言おう。銀剣の黎明へ戻ってきてもいい」


 店内が静まり返った。


 ミケの尾が一度だけ窓台を叩いた。エレノアは何も言わず、バルドも表情を変えない。ただ続きを待った。


 レオンはそれを、拒絶ではなく交渉の余地だと受け取ったらしい。


「辺境暮らしにも飽きただろう。最初は気楽でよかったかもしれない。だが、お前の能力は鍋や椅子を直すためのものじゃない」


「鍋や椅子も直る」


「そういう話じゃない」


 レオンの声に、早くも苛立ちが混じった。


「お前はS級冒険者だった。俺たちと一緒なら、王国を救う仕事ができる」


「今も仕事はしている」


「猫の世話が?」


「必要な仕事だ」


 短く答えたバルドに、レオンはため息をついた。最初から、話せば理解すると考えていたのかもしれない。


「意地を張るな。追放の件なら、こちらも条件を改善するつもりだ」


「改善?」


「報酬の配分を増やす。個室も用意する。遠征中の雑務には別の補助職を雇う。以前のように、お前一人へ負担を集中させることはしない」


 レオンがそう言ったところで、バルドは彼の後ろに立つ若い男へ視線を向けた。


 ユリウス。バルドの代わりとして銀剣の黎明へ入った補助職人だった。


「彼はどうする」


「引き続き雇う」


 レオンが答える。


「お前だけに任せず、二人で分担すればいい。悪い条件ではないだろう」


 ユリウスは一度顔を上げたが、何か言う前に視線を落とした。


 その反応だけで、バルドには十分だった。


 レオンが欲しいのは、自分ではない。


 武器が壊れる前に整え、荷物を歩きやすく配分し、野営地を選び、疲れている仲間へ食事を作り、負傷すれば戦線へ戻す。そうした役割を一つにまとめた、便利な機能が必要なのだ。


 以前と何も変わっていない。


 ただし今回は、その機能へ支払う金額を増やそうとしている。


「条件はそれだけか」


 バルドが尋ねると、レオンは一瞬だけ間を置いた。


「まだある」


 そして、店内の猫たちへ視線を向けた。


「万物堂は閉めろ」


 それまで黙っていたエレノアの表情が変わった。


「なぜですか」


 彼女が尋ねると、レオンは当然のことを説明するような口調で答えた。


「バルドは遠征へ戻る。これまでと同じ仕事をするなら、店を続ける時間はない」


「店員もいますし、街の方々から仕事も受けています。店主が不在でも最低限回せるよう、現在運営体制を整えているところです」


「店主がいなくて成り立つ店に意味があるのか」


「意味を決めるのは、あなたではありません」


 エレノアの返答に、レオンは眉を寄せた。そこへ反論する代わりに、窓辺のミケを指差す。


「それ以前に、ここは危険すぎる。黒炎の皇獣、雷帝種、白銀幻猫。災厄級に分類される魔獣を三体も街中へ置いている」


「ミケとライは、ここへ来てから誰も襲っていません」


「今は、だ」


 レオンが言い切ったところで、エレノアは少しだけ首を傾げた。


「それなら人間も同じです。今日まで犯罪をしていない人間が、明日も絶対に犯罪をしない保証はありません。その可能性だけを理由に拘束しますか」


「魔獣と人間を同じにするな」


「命令に逆らったという理由で魔獣を拷問する人間より、私は彼らの方を信頼しています」


 今度こそ、レオンの目から笑みが消えた。


 バルドは口を挟まなかった。エレノア自身が答えている以上、それを奪うつもりはない。


「公爵令嬢についても条件がある」


 レオンが低い声で言った。


「伺いましょう」


 エレノアも視線を逸らさない。


「侯爵家へ直接引き渡すとは言わない。王都へ連れて戻り、銀剣の黎明の保護下へ置く」


 エレノアは薄く笑った。


「その保護というものについて確認させてください。部屋の扉には鍵を掛けますか」


「安全のため、行動を制限する場合はある」


「私はそれを監禁と呼びます」


「侯爵閣下と話し合い、事情が明らかになるまでだ」


「父へ罪を着せ、私を研究施設へ送った方と話し合うのですか」


「侯爵が何をしたかは、まだ確定していない」


 レオンの言葉に、エレノアの視線がカウンターの下へ向いた。


「ライの身体を見ても、そう仰るのですか」


「それも調査すれば分かる」


 カウンターの下で、青白い雷が弾けた。


 ライは出てこなかった。ただ、身体の周囲を走る電光だけが明らかに強くなる。レオンは一瞬だけそちらへ目を向け、それから何事もなかったように言葉を続けた。


「その雷帝種と黒炎の皇獣についても、侯爵家へ預ける」


「断ります」


 エレノアは即答した。


 レオンが顔をしかめる。


「君へ聞いていない」


「私は万物堂の管理担当です。それに、ミケもライも誰かの所有物ではありません」


「なら、なおさらだ。管理者のいない危険な魔獣は国が保護すべきだろう」


「また保護ですか」


 エレノアの声が一段低くなった。


「あなた方の言う保護とは、首輪をつけ、檻へ入れ、命令へ従わせることですか」


 レオンは答えなかった。


 代わりに、寝床のルーへ視線を移す。


「白銀幻猫については話が違う。俺たちが正式な捕獲依頼を受けた対象だ。銀剣の黎明が確保すべき魔獣として返してもらう」


 その言葉を聞いたルーの白い輪郭が揺れた。寝床そのものが透けて見えるほど身体が薄くなり、その変化に気づいたミケが低く唸る。


「レオン」


 そこで初めて、バルドが会話へ戻った。


 呼ばれたレオンが彼を見る。


「何だ」


「今の話をまとめるぞ」


 バルドは椅子に座ったまま、一つずつ確かめるように言った。


「万物堂を閉める。ミケとライを侯爵家へ渡す。ルーも銀剣の黎明へ引き渡す。エレノアは王都へ連れていく。そのうえで、俺だけ以前の仕事へ戻れということだな」


「侯爵へ渡すと言っているわけじゃない。適切な場所へ移すんだ」


「俺には同じに聞こえる」


「同じではない」


「なら、違いは何だ」


 レオンが答える前に、バルドは続けた。


「誰一人、本人の意思を聞いていない」


 レオンは苛立ったように机へ手を置いた。


「魔獣の意思を一匹ずつ聞いて、それで国を守れると思うのか」


「聞かずに壊した結果がライだ」


「一部の研究施設で起きた失敗だろう」


「ルーも血まみれでここへ来た」


 レオンの表情がわずかに動いた。


「それは事故だ」


「魔法の矢で内臓が裂け、追跡首輪で魔力核まで壊れかけていた」


「俺は生け捕りにしろと命じた!」


 レオンの声が店中へ響いた。


 壁際にいたセシリアが顔をそむける。その反応を見て、バルドは誰が最後の魔法を撃ったのか理解した。


「命令したなら、責任はないのか」


 静かに尋ねると、レオンは唇を噛んだ。


「俺は止めた」


「止められなかった」


「だから何だ!」


 レオンが椅子を蹴るように立ち上がった。ここへ来たときの穏やかな笑みは、もうどこにも残っていない。


「完璧でなければ英雄じゃないとでも言うのか!」


「そんなことは言っていない」


「だったら戻れ!」


 レオンは両手を机へついた。


「お前がいれば、こんなことにはならなかった!」


 ディーンが目を閉じた。マルクは拳を握りしめ、セシリアも杖から目を逸らしている。


 それでもレオンは止まらなかった。


「聖剣は折れた。セシリアの杖は暴発した。補給は崩れた。野営地ひとつまともに決められなかった。誰も全体を見ていない」


 吐き出すたび、怒りより別のものが混じり始める。


 焦りだった。


「お前なら気づいた。剣の亀裂も、魔道具の干渉も、荷物の偏りも。お前なら全部直せた」


 レオンはバルドを睨んだ。


「俺たちが英雄になれたのは、お前が俺たちを選んだからだろう!」


 バルドは黙って聞いていた。


「だったら最後まで責任を取れ!」


 その一言で、ようやく腑に落ちた。


 レオンはバルドを追い出した。だが、バルドに支えられていた事実までは捨てられなかった。


 自分たちが困れば、また手を伸ばしてくれると思っていた。離れた後も、バルドという機能だけは銀剣の黎明のために残り続けると、どこかで信じていたのだ。


「俺が選んだから、英雄になったのか」


 バルドが尋ねる。


「そうだ」


 レオンは迷わなかった。


「違う。戦ったのは、お前たちだ」


「綺麗事を言うな!」


「俺は支えただけだ」


「その支えが必要なんだ!」


 その言葉を聞いた瞬間、バルドの胸に古い痛みが戻った。


 セレスを救えなかった日。


 何を直せばいいかは分かっていた。骨も内臓も魔力核も、壊れた場所はすべて見えていた。それでもセレスは、生きることを望まなかった。


 直せなかった。


 その後、バルドは銀剣の黎明へ入った。


 壊れる前に直した。誰かが困る前に動いた。必要とされた。自分がいなければ困ると言われるたび、救えなかった一匹のことを考えずに済んだ。


 銀剣の黎明がバルドへ依存していたように、バルドもまた、彼らから依存されることを必要としていたのかもしれない。


「俺にも責任はある」


 バルドが言うと、レオンの表情がわずかに緩んだ。


「なら――」


「お前たちが俺へ頼るのを、止めなかった責任だ」


 続く言葉を聞き、レオンの顔が固まる。


「必要とされれば、自分が正しいと思えた。だから俺は、できることを全部やった。お前たちが自分でやる機会まで奪って、壊れる寸前まで支え続けた」


「何を言っている」


「だが、もう戻らない」


 バルドは椅子から立ち上がった。


 足元が揺れ、エレノアが反射的に腕を伸ばす。バルドは大丈夫だと小さく手で示した。無理をしているのは自覚している。それでも、ここだけは自分で立って言いたかった。


「俺はもう、何を直すかを自分で決めた」


 レオンは信じられないものを見るように彼を見た。


「鍋と椅子を選ぶのか」


「それを必要とする人がいる」


「俺たちより猫を選ぶのか」


「比べる話じゃない」


「逃げるのか!」


「今までと同じ生き方を続けないだけだ」


 レオンの右手が腰の剣へ伸びた。


 抜こうとしたわけではない。怒りを抑えるため、無意識に柄を握っただけなのだろう。


 だが、その動きをルーは見逃さなかった。


 白銀の身体が一瞬で消えた。


「ルー!」


 エレノアが寝床へ振り返る。


 毛布の上には誰もいない。治療途中の黒い首輪だけが残されていた。


 レオンが鼻で笑った。


「逃げたか」


 追跡術式からほぼ解放された今、ルーならどこへでも行ける。人間の目から消え、そのまま森へ戻ることもできる。


「それが本人の選択だ」


 レオンは勝ち誇ったように続けた。


「危険を感じて、この店を捨てたんだろう」


 バルドは答えなかった。


 代わりに、足元の空気が揺れた。


 薄い霧が床板の上へ集まり、最初に白い尾が現れる。次に胴体。最後に、銀色の瞳を持つ顔。


 ルーは店から逃げたのではなかった。


 バルドの足元へ転移していた。


 まだ傷の残る身体で立ち、銀剣の黎明へ向き直る。


「自分で戻ってきましたね」


 エレノアが静かに言った。


 それを合図にしたわけでもないのに、ミケが窓辺から降りた。重なっていた尾が三本へ分かれ、黒炎が揺らめく。カウンターの下からはライも姿を現し、灰色の小さな身体へ青白い雷をまとわせた。


 黒。灰色。白銀。


 三匹が、バルドの前へ並んだ。


 万物堂の空気が一変する。


 ミケの黒炎が周囲の光を飲み、ライの雷が店内の金属を細かく震わせる。ルーの身体が揺らいだかと思うと、壁にも梁にも天井にも白銀の幻影が現れた。


 銀剣の黎明の誰も武器を抜けなかった。


 セシリアの指から杖が滑りかける。マルクは大盾へ手を伸ばした姿勢のまま固まり、ディーンだけは最初から武器へ触れていない。


 レオンは腰の剣を握り続けていた。


「俺たちはS級だ」


 掠れた声が出る。


「魔獣三匹に脅されて、退けるか」


 だが、その手は震えていた。


 新しい剣の柄から指が外れ、鞘ごと床へ落ちる。


 重い音が響いた。


 ミケが一歩進む。


 それだけで、レオンの身体が反射的に半歩下がった。


「ミケ」


 バルドが呼ぶ。


 黒猫は止まった。


「十分だ」


 三本の尾を覆っていた黒炎が弱まる。ライも雷を収め、壁と天井を埋めていたルーの幻影が一匹ずつ消えた。


 店内に残ったのは、三匹の猫だった。


「帰ってくれ」


 バルドは元仲間たちへ言った。


「俺は、お前たちと戦うつもりはない」


 レオンが顔を歪める。


「情けをかけるのか」


「違う」


 バルドは首を振った。


「俺を必要とすることと、俺を大事にすることは違う」


 レオンの顔から、わずかに血の気が引いた。


「俺たちは、お前を必要としている」


「それは分かった」


「なら――」


「大事にしていたなら、追放を決めた日に俺の話を聞いたはずだ」


 今度こそ、誰も言葉を返さなかった。


 セシリアが視線を伏せる。マルクはしばらく拳を握っていたが、やがて力を抜き、バルドへ小さく頭を下げた。


「すまなかった」


 レオンが鋭く振り返る。


「マルク」


「俺は、あの日何も言わなかった」


 マルクはレオンではなく、バルドを見ていた。


「戻ってくれとは言えない。俺には、その資格がない」


 ディーンも壁から背を離した。


「俺もだ。あの日、見ないふりをした」


 セシリアだけは何も言わなかった。


 ただ、ルーの脇腹に残る傷を見て、強く唇を噛んでいる。


 あの傷を作った魔法を放ったのは、おそらく彼女だった。


 レオンだけが、その場から動かなかった。


「話は終わりだ」


 バルドが言った。


 エレノアは黙って入口へ歩き、扉を大きく開けた。


「本日の面談は終了です」


 拒絶の余地がない声音だった。


 銀剣の黎明は、一人ずつ外へ出ていった。マルク、ディーン、セシリア、ユリウス。最後まで残ったレオンは、床へ落ちた剣を拾いながらバルドを睨んだ。


「後悔するぞ」


「そうかもしれないな」


「俺たちは、また英雄になる」


「ああ」


「お前が間違っていたと証明する」


 バルドは少しだけ考えた。


「俺が間違っていたことと、お前が英雄になれるかどうかは、別の話だ」


 レオンは答えず、店を出た。


 エレノアが扉を閉じる。


 張りつめていた空気がようやくほどけた途端、バルドの膝から力が抜けた。


「バルドさん!」


 倒れる前に、エレノアが腕をつかむ。


「だから療養中だと言ったのです」


「少し立っただけだ」


「その『少し』の定義を、私は信用しません」


「厳しいな」


「当然です」


 エレノアに支えられながら椅子へ戻ると、ルーがすぐ足元へ寄ってきた。


 逃げない。


 姿も消さない。


 白い身体をバルドの脚へ押しつけ、そのまま尾を足首へ巻きつけた。


「まだ、ここにいるのか」


 バルドが尋ねる。


 ルーは一度だけ顔を上げた。


 昨日、自分で選んだ名前を呼ばれるのを待つように。


「ルー」


 呼ぶと、白い耳が動いた。


 それから何事もなかったように、バルドの足元へ身体を丸める。


「残る気のようですね」


 エレノアが言った。


「ああ」


 ミケは窓辺へ戻り、ライもカウンターの下へ入っていく。ルーだけはバルドの足元から動かなかった。


 銀剣の黎明は帰った。


 万物堂には、今日も三匹の猫が残った。


     ◇


 銀剣の黎明を乗せた馬車は、リュネールの南門を出たところで止められた。


 街道脇に、一台の黒塗りの馬車が待っている。


 ヴァレント侯爵家の紋章。


 そこから降りてきた使者は、レオンたちの顔を見るだけで結果を察したらしい。


「交渉は失敗しましたか」


 レオンは答えなかった。


 使者は気にした様子もなく、続ける。


「白銀幻猫も回収できなかったようですね」


「黙れ」


 低い声にも、使者は表情を変えない。


「それでは、次の依頼をご用意しています」


 差し出されたのは、一枚の地図だった。


 北部山岳地帯。


 白銀幻猫を追った森より、さらに奥。人の道が途切れた先に、赤い印が記されている。


「古代遺跡か」


 レオンが尋ねる。


「はい。内部に、古代王国が使用していた支配術式の中枢器が残されている可能性があります」


「服従の首輪か」


「その程度の物ではありません」


 使者は声を落とした。


「魔獣の意思そのものへ干渉し、命令へ従わせるための中枢装置です。正常に機能すれば、災厄級であっても制御できると記録されています」


 レオンの脳裏に、先ほどの光景が蘇った。


 黒炎の皇獣。


 雷帝種。


 白銀幻猫。


 三匹が並んだだけで、銀剣の黎明は剣を抜くことすらできなかった。


 もし、あの力が自分へ従えば。


 聖剣がなくてもいい。


 バルドがいなくてもいい。


 誰にも否定できない力があれば、自分たちは再び王国最強の英雄になれる。


「依頼内容は」


 レオンが尋ねる。


「遺物の回収です」


 使者は満足そうに笑った。


「成功すれば、侯爵閣下はレオン・ガルディア殿を、王国最高位の冒険者として正式に推挙なさるでしょう」


 背後でディーンが小さく息を吐いた。


「レオン。今はやめた方がいい」


 レオンは振り返らない。


「白銀幻猫の件も失敗したばかりだ。何があるか分からない遺跡へ、このまま入るのか」


「だから行く」


「何?」


「失敗したからだ」


 レオンは使者の持つ地図を奪うように受け取った。


 紙が指の間で歪む。


「受ける」


 マルクが何か言いかけたが、レオンは聞かなかった。


 万物堂の扉が閉じた瞬間。


 バルドの足元へ三匹の魔獣が並んだ瞬間。


 自分の手から剣が落ちた瞬間。


 全部を消すには、次に勝つしかない。


「今度こそ」


 レオンは北部山岳地帯に記された印を睨んだ。


「俺が証明する」


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