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13/20

第13話 店主が倒れた日 改稿

 バルドは、ほとんど眠っていなかった。

 白銀幻猫が万物堂へ運び込まれてから三日。

 その間、彼は何度も白銀幻猫の身体へ触れ、傷の状態を確かめていた。

 脇腹の裂傷。傷ついた内臓。ひびの入った魔力核。存在を薄くする呪い。首輪から伸びた追跡術式。

 一つを直せば、別の部分へ負荷が掛かる。

 わずかに魔力を流して止める。

 数刻待ち、また状態を読む。

 その繰り返しだった。

「食事です」

 エレノアは、作業台の横へスープを置いた。

「あとで食べる」

 バルドは白銀幻猫の寝床から目を離さない。

 白銀の身体は、まだ半透明だった。

 眠っている間にも輪郭が薄くなり、ときおり毛先が霧のように消える。

「昨日も同じことを言いました」

「食べた」

「冷えたパンを半分だけです」

「十分だ」

「十分ではありません」

 バルドの頬は痩せ、目の下に濃い影ができていた。

 腕と脇腹には、白銀幻猫の治療で生じた裂傷が残っている。

 傷口そのものは深くない。だが治る前に、また別の痛みを受け取っている。

「今朝から、三回目ですよ」

 エレノアは言った。

「あと少しだけだ」

「その言葉も三回目です」

「魔力核がもう少し安定すれば休める」

「昨日も聞きました」

 バルドは答えず、白銀幻猫へ手を伸ばした。

 白猫の身体がかすかに揺れる。

 ミケが寝床の横で低く唸った。

 バルドの手を止めようとしているようにも見える。

「ミケも反対しています」

「白猫を心配しているだけだ」

「あなたも心配されているのです」

 ライも近くにいた。

 普段の定位置であるカウンターの下ではなく、白銀幻猫の寝床とバルドの間へ座っている。

 耳先の雷が、小さく明滅していた。

 バルドは二匹を見た。

「大丈夫だ」

 その言葉を、エレノアはもう信用していなかった。

     ◇

 午前中は、店を休みにした。

 入口へ休業の札を出し、修理品の受け取りだけを裏口で行う。

 住民たちは事情を知っている。誰も文句は言わなかった。

 マルタは食事を持ってきた。

 鍛冶職人は薬草と薪を置いていった。

 肉屋は味付け前の鶏肉を、猫たちの分として届けた。

 万物堂が街へ受け入れられている。

 エレノアはそう感じた。だからこそ、店主が倒れるまで働き続けることが許せなかった。

「バルドさん」

 エレノアは帳簿を閉じた。

「今日の治療は終わりです」

「まだ首輪の術式が残っている」

「明日でも構いません」

「追跡術式が動いている」

「白猫の状態を考えれば、今すぐ外せないのでしょう」

「ああ」

「なら、あなたが倒れても外せません」

 バルドは黙った。

「二階で休んでください」

「あと少し」

「駄目です」

 エレノアは寝床の前へ立った。

 バルドと白銀幻猫の間を塞ぐ。

「店員として、店主へ休憩を命じます」

「店主の方が立場は上じゃないのか」

「労働管理は私の担当です」

「いつ決まった」

「今です」

 バルドはわずかに笑った。

 その顔から、急に力が抜けた。

 身体が横へ傾く。

「バルドさん?」

 返事がない。

 エレノアは慌てて肩を支えた。

 触れた身体が異常に熱い。

「バルドさん!」

 呼びかけても目を開けない。

 ミケが立ち上がる。ライの毛が逆立つ。白銀幻猫も薄い瞼を開いた。

 エレノアはバルドを床へ寝かせ、額へ手を当てた。

 高熱だった。

 呼吸は浅く、速い。傷口からの出血は多くない。だが身体の内側で、魔力がほとんど枯れている。

 治癒術師ではないエレノアにも分かった。

「マルタさんを呼んでください!」

 誰へ言ったわけでもない。

 だが、ミケが窓辺へ飛び乗り、開いていた小窓から外へ出た。

     ◇

 街の治癒術師が来たのは、半刻後だった。

 高齢の女性で、普段は教会の診療所にいる。

 バルドの身体を調べ、傷へ薬を塗り、魔力回復の術を使った。

「疲労と魔力枯渇だね」

 治癒術師は言った。

「それだけではない。身体が、自分の傷ではない痛みを抱え込んでいる」

「能力で受け取ったものです」

「知っているよ。《不壊》のバルドだろう」

 女性はバルドの腕へ包帯を巻いた。

「昔から無茶をすると聞いていた」

「昔から?」

「冒険者の治療に関わる者なら、噂くらいは知っている。仲間の装備と身体を直して、自分は最後まで治療を受けなかったと」

 エレノアは眠るバルドを見た。

 銀剣の黎明では、誰かが彼を止めていたのだろうか。それとも、誰も止めなかったのか。

「いつ目を覚ましますか」

「今夜か、明日か。熱が下がれば問題ない」

「白銀幻猫の治療は」

「その白い猫かい」

 治癒術師は寝床へ視線を向けた。

「私には触れない方がいいだろうね。あの子は人間を警戒している」

「まだ、治療は終わっていません」

「だからといって、治す者を壊していい理由にはならない」

 女性は薬を置き、帰り支度を始めた。

「水を飲ませる。熱が上がったら冷やす。意識が戻るまで、能力は絶対に使わせないこと」

「分かりました」

「本人が何と言ってもだよ」

「それは、よく分かっています」

     ◇

 夕方。

 店内は静かだった。

 バルドは二階の寝台へ運んだ。

 エレノアは階段を上り下りし、何度も様子を確認した。

 白銀幻猫の状態も安定しているとは言えない。

 身体は薄いまま。首輪の追跡術式は、まだ微弱に光っている。

 バルドが目を覚ますまで、何も起きないことを願うしかない。

 だが、その願いは日没前に破られた。

 ミケが窓辺で低く唸った。三本の尾が現れる。

 ライも二階へ続く階段の前で身構えた。

「誰か来ます」

 エレノアは入口の小窓から外を見た。

 通りには人影がない。だが、屋根の上。

 路地。隣の空き家の陰。複数の気配がある。

 ミケが視線を動かすたび、そこから金属の反射が見えた。

 万物堂は包囲されていた。

 追跡術式が消える前に、白銀幻猫を回収しに来たのだ。

「人数は?」

 エレノアは呟く。

 正面に四人。裏手に三人。屋根に二人。少なくとも九人。

 侯爵の私兵とは装備が違う。

 革鎧。弓。捕獲網。

 魔獣ハンターだ。

 二階から、床の軋む音がした。バルドが起きたのかもしれない。

 エレノアは階段へ向かおうとした。

 ミケが前へ出て、道を塞いだ。

「バルドさんを起こさなければ」

 ミケは動かない。

「このままでは」

 黒い尾が、階段を隠すように広がる。

 金色の目が、エレノアを見た。

 今まで、バルドは二匹を守ってきた。

 追われたとき。傷ついたとき。人間に囲まれたとき。

 今度は、自分たちが守る番だ。

 ミケの態度は、そう告げているようだった。

 ライも階段の下へ座った。

 バルドのいる二階と、外の敵の間へ。

 エレノアは息を吐いた。

「分かりました」

 二匹へではなく、自分へ言う。

「起こしません」

 店を守る。白銀幻猫を守る。バルドを休ませる。

 全部、自分たちでやる。

     ◇

 エレノアは、まず裏口から外へ出た。

 床下の古い搬入口を使う。

 店を修繕した際、バルドが塞がず残していた通路だった。

 狭いが、人一人なら通れる。

 隣家の陰へ出て、住民へ声をかける。

「万物堂へ近づかないでください。魔獣ハンターが来ています」

 近くにいた肉屋が顔を強張らせた。

「衛兵を呼ぶ」

「お願いします。正面から来ないよう伝えてください」

「店に戻るのか」

「はい」

「バルドは?」

「眠っています」

 肉屋は驚いたが、それ以上聞かなかった。

「分かった。街の連中は下がらせる」

「マルタさんにも伝えてください。絶対に来ないように」

「それは難しい注文だな」

「お願いします」

 搬入口から店へ戻る。

 エレノアは帳簿の横へ、店内の簡単な見取り図を広げた。

 正面。二階。裏口。白銀幻猫の寝床。

 住民のいない今なら、客席もすべて防衛に使える。

「ミケは正面をお願いします」

 ミケが入口へ移動する。

「外へ出なくて結構です。店を燃やすのも禁止です」

 尾が不満そうに揺れる。

「ライは二階と白猫を」

 ライは白銀幻猫の寝床を見る。それから階段を見る。

 どちらも守れる位置として、カウンターの上へ飛び乗った。

「そこなら両方見えますね」

 エレノアは給仕用トレイを手に取った。先日の私兵の剣を止めた、異常に頑丈な木製トレイ。

 食器棚から、修繕済みの皿も数枚出す。

 投げるつもりはない。だが、割れないなら遮蔽物にはなる。

 窓には防火性を持たせた厚手のカーテンを引く。外から内部を見せないためだ。

 修理用の縄。滑車。工具。

 バルドが直した物は、どれも普通の品より頑丈だった。

「本人がいなくても、十分おかしな店です」

 エレノアは呟いた。

 ミケの耳が動いた。

「褒めています」

     ◇

 最初の攻撃は、窓からだった。

 弓矢が三本、同時に放たれる。

 窓ガラスへ当たる直前、淡い結界が浮かんだ。

 矢が外へ弾かれる。

「正面は駄目だ!」

 外から声がする。

「裏へ回れ!」

 裏口に衝撃。

 扉が揺れる。だが、バルドが修繕した金具は外れない。

「追跡反応は中だ!」

「白銀幻猫だけ回収しろ!」

「黒い方と雷の方は相手にするな!」

 エレノアは店内中央へ机を移動した。

 脚を床の溝へはめ込む。簡単な barricade――いや、障害物になる。

 ハンターたちは正面扉へ薬品を掛け始めた。

 魔力構造を脆くする腐食剤。

 扉の表面が煙を上げる。

 ミケが唸った。

「まだです」

 エレノアは止める。

「中へ入ってから」

 ミケが振り返る。

「一人ずつ捕らえます」

 バルドなら、扉そのものを使って敵を止める。

 エレノアには建物を操る力はない。だが、店の構造は把握している。

 正面扉の右側。修理受付用の棚。左には大机。

 入口から一度に入れる人数は二人まで。

「錠を外します」

 ミケが身を低くした。

 エレノアは扉の横へ隠れ、長い棒で閂を外した。

 外から押され、扉が開く。

 二人のハンターが飛び込んできた。

 その瞬間、ミケが顔を上げる。

 黒炎は出さない。ただ、災厄級魔獣の威圧を正面から浴びせた。

 二人の動きが止まる。呼吸が詰まり、剣を持つ手が震えた。

「今です」

 ライの雷が走る。

 青白い光が、剣と捕獲具だけを打つ。

 武器が砕け、金属部品が床へ落ちた。

 エレノアは縄を引いた。

 入口脇に立てていた机が横倒しになり、二人の退路を塞ぐ。

 ハンターは慌てて後退しようとする。

 足元へトレイが滑り込む。

 靴が乗り、体勢を崩した。

 転んだ二人の上へ、修理受付の棚が倒れる。

 棚は壊れない。だが、重くて持ち上がらない。

「殺さずに捕らえました」

 エレノアは息を整えた。

 ミケが当然だという顔で尾を振る。

 外のハンターたちが叫ぶ。

「中に三人いる!」

「公爵令嬢も戦っているぞ!」

「裏から入れ!」

 裏口で激しい破裂音がした。

 魔道具で蝶番を破壊したらしい。

 扉そのものは壊れないが、枠から少し外れる。

 男が一人、隙間から身体を入れた。

 エレノアは異常に頑丈な皿を投げる。

 顔ではなく、手元。皿が捕獲網を弾き落とした。

「食器を投げるな!」

 男が怒鳴る。

「給仕用です!」

「給仕で投げるか!」

 エレノアは次の皿を構えた。

 男が身を引く。

 その隙に、ライが雷を放つ。

 網の術式だけが焼き切れた。

 ミケは正面から動かない。外の敵を威圧し、追加の侵入を止めている。

 ライは階段と白銀幻猫の間を往復しながら、入ってきた武器だけを破壊する。

 エレノアは机や椅子を動かし、敵の通路を狭めた。

 誰か一人がすべてを倒しているわけではない。それぞれが役割を持っている。

 店そのものが一つの生き物のように、侵入者を押し返していた。

 だが、屋根にいた二人が二階の窓へ回った。

「上です!」

 エレノアが叫ぶ。

 ライが階段を駆け上がる。

 一人目が窓を割って侵入した。

 バルドの寝室ではない。だが、廊下を進めばすぐそこだ。

 ライが雷を放とうとする。

 男は絶縁布を広げた。

「対策済みだ!」

 電撃が布に吸われる。

 もう一人が階段へ向けて矢を放つ。

 ライは避けたが、二階から降りられなくなった。

 ミケは正面を離れられない。

 エレノアが階段へ向かおうとしたとき、白銀幻猫の寝床が淡く光った。

 白い身体が立ち上がる。

 まだ半透明。

 脚も震えている。

「白猫、動かないでください」

 白銀幻猫はエレノアを見なかった。

 二階へ視線を向ける。

 次の瞬間、店内に白い影が増えた。

 一匹。三匹。十匹。

 半透明の白猫が階段と廊下へ溢れる。

「何だ!」

 二階の男たちが混乱する。

 どれが本物か分からない。

 白猫の幻影は、壁を抜け、床を走り、男たちの視界を覆った。

 ライがその隙に距離を詰める。

 絶縁布をくわえ、床へ引きずり落とす。

 次の雷が武器へ直撃した。

 二人の剣と弓が砕ける。

「……」

 エレノアが寝床を見る。

 本物の白銀幻猫は、そこにいた。

 立つだけで精一杯。だが、自分の意思で幻影を作っている。

 バルドを守るために。

     ◇

 二階の扉が開いた。

 バルドが壁へ手をつきながら現れる。

「何をしている」

 顔は赤く、足元もふらついている。

「寝ていてください!」

 エレノアが叫ぶ。

「敵が」

「見れば分かります!」

 バルドは階段を下りようとする。

「建物へ触れれば、すぐ終わる」

「駄目です」

「もう起きた」

「起きられることと、戦えることは違います」

 バルドは手すりへ魔力を流そうとした。

 エレノアは階段を上り、その腕を押し戻した。

「エレノア」

「あなたがいなければ何もできない場所にするおつもりですか」

 バルドの動きが止まる。

「店も、私も、猫たちも。全部あなたが守らなければならないのですか」

「そういうつもりでは」

「では、今は任せてください」

 一階では、ミケが侵入者を押さえている。ライが武器を壊している。白銀幻猫が幻影を保っている。

 外では衛兵たちの声が近づいていた。

「あなたは、治す人です」

 エレノアは続ける。

「ですが、治す人が壊れたら、誰が困ると思っているのですか」

 バルドは店内を見た。

 自分がいなくても、守られている。

 完璧ではない。危険もある。それでも、誰も彼を呼び起こさなかった。

「……分かった」

 初めて、バルドが素直に手を下ろした。

「では、部屋へ戻ってください」

「階段の上で見ている」

「戻ってください」

「それくらいは」

「熱があります」

「分かった」

 エレノアは彼を寝室まで押し戻した。

     ◇

 衛兵が到着すると、残ったハンターたちは逃げた。

 店内へ侵入した者たちは武器を失い、棚や机の下から動けない状態で捕らえられた。死者はいない。大きな怪我人もいない。万物堂の損害は、裏口の蝶番と二階の窓だけだった。

 そして、あれだけ飛び交った食器は一枚も割れていなかった。

「本当に店の食器なのか」

 衛兵隊長が床から皿を拾い上げ、表と裏を確かめる。

「そのはずです」

 エレノアは答えた。

「投擲武器に見えるんだが」

「給仕用です」

「給仕で客に皿を投げる店があるか!」

 棚の下から、捕らえられたハンターが叫んだ。

「あなたは客ではありません」

 エレノアが淡々と返すと、男は何か言いかけて黙った。

 衛兵隊長も追及するのを諦めたらしい。部下へ捕縛した者たちを連行するよう指示し、壊れた裏口を一度だけ振り返ってから帰っていった。

 ようやく店内が静かになる。

 ミケは入口に座り、逃げた者たちの方角をしばらく見張っていた。ライは階段の途中へ伏せ、耳先の雷を消している。

 白銀幻猫は寝床へ戻っていた。

 力を使い果たしたらしく、身体の輪郭はまだ薄い。それでも呼吸は穏やかだった。先ほどまで万物堂を埋め尽くしていた無数の幻影が嘘だったように、小さな白い身体だけが毛布の上に残っている。

 エレノアは、その前へしゃがんだ。

「あなたも、無茶をしましたね」

 白銀幻猫の耳がわずかに動く。

「バルドさんと似ています」

 今度は尾が不満そうに揺れた。

「そこは嫌なのですね」

 エレノアは少し笑った。

 この猫が万物堂へ運び込まれたときは、助けられるだけの存在だった。人間を恐れ、触れられることを拒み、消えかけた身体で寝床の奥へ縮こまっていた。

 だが今日、自分から立ち上がった。

 逃げるためではない。

 この店と、二階で眠る男を守るために。

「そういえば」

 エレノアは思い出した。

「まだ名前がありませんでしたね」

 白銀幻猫が片目を開く。

 少し離れたところで、ミケもこちらを見た。

「バルドさんは、白いからシロでいいと言っていましたが」

 白銀幻猫の耳がぺたりと伏せる。

「安心してください。却下してあります」

 耳が戻った。

 どうやら、本人も同意見らしい。

 エレノアはしばらく考えた。

 白い毛並みではなく、この猫自身を表す名前。

 先ほど店いっぱいに広がった幻影を思い出す。半透明の白猫たちは、暗くなりかけた店内を淡く照らしながら駆けていた。白というより、月明かりに近かった。

「ルーナ、というのは少し長いですね」

 白猫が首を傾げる。

「では、ルー」

 エレノアは言った。

「ルー、ではどうですか」

 白銀幻猫はしばらく彼女を見つめていた。

 やがて、寝床から前脚を一本だけ伸ばした。

 その肉球が、エレノアの指先へ軽く触れる。

「……気に入った、ということでよろしいですか?」

 返事の代わりに、白い尾が一度だけ動いた。

 ミケが鼻を鳴らし、ライも階段から降りてくる。

「決まりですね」

 エレノアは立ち上がった。

「今日から、あなたはルーです」

 二階から、小さな物音がした。

 いつの間にか扉のところまで出てきていたバルドが、壁へ寄りかかっている。

「シロの方が分かりやすい」

「寝ていてください」

「名前の話を」

「却下です」

「まだ何も言っていない」

「言いました」

 エレノアが階段を指差すと、バルドは諦めたように寝室へ戻っていった。

 ルーが、その背中を見送る。

 そして初めて、自分から寝床の中央へ身体を横たえた。

 もう逃げるために隅へ寄る必要はない。

 ここにいていいのだと、少しだけ理解したように見えた。

     ◇

 翌朝。

 バルドの熱は少し下がっていたが、まだ起き上がることは禁止している。

 エレノアが薬と水を二階へ運び、店へ戻ってくると、ルーは昨夜と同じ寝床で眠っていた。輪郭はまだところどころ透けているものの、昨日より明らかに身体の色が濃くなっている。

 ミケは窓辺。ライはカウンターの下。

 ようやく静かな朝になった――はずだった。

 店の前に馬車が止まった。

 一台ではない。

 窓から見えた車体には、銀と青の紋章が刻まれている。

 王都の冒険者なら、誰でも知っている印だった。

 銀剣の黎明。

 エレノアは給仕用トレイを作業台へ置いた。

 ミケが窓辺で目を細め、ライがカウンターの下から顔を出す。ルーも目を覚まし、見知らぬ気配を察したのか、身体をわずかに薄くした。

 扉が叩かれた。

 エレノアは入口を開ける。

 先頭に立っていたのは、金髪の若い剣士だった。かつての折れた聖剣ではなく、新しい剣を腰へ下げている。

 その後ろには魔術師、斥候、重戦士。

 彼らは店内を見回した。

 窓辺のミケ。カウンター下のライ。そして奥の寝床で警戒するルー。

 最後に、階段の上へ視線を向ける。

「バルドはいるか」

「療養中です」

「なら、待たせてもらう」

 男は穏やかに笑った。

 だが、目は笑っていない。

 二階から床の軋む音がした。

「バルドさん、起きないでください!」

 エレノアが振り返るより先に、壁へ手をついたバルドが階段の上へ姿を現した。

「レオンか」

「久しぶりだな、バルド」

 レオンは笑顔のまま、奥のルーへ視線を移した。

「話をしよう」


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