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第12話 血に染まった白猫

 白銀幻猫は、霧の中を走っていた。白い毛は、すでに白くなかった。

 脇腹から流れた血が腹へ広がり、後脚まで赤く染めている。

 足を踏み出すたび、視界が揺れた。

 森の木々が二重に見える。それでも止まらない。

 止まれば、人間が来る。

 首に巻かれた黒い輪が、淡く光った。呪具だった。銀色の細い鎖が皮膚へ食い込み、魔力の流れを吸い上げている。

 白銀幻猫は身体を半透明にする。木々の間に、同じ姿を三つ作り出した。

 幻影は別々の方向へ走る。

 自分は岩陰へ飛び込み、短距離転移を使った。

 身体が霧へ溶ける。

 次の瞬間、数十歩離れた斜面へ現れる。

 だが、首輪が熱を持った。

 黒い光が森の上へ伸びる。位置を知らせる光。

「西へ転移した!」

 背後から男の声が響いた。

「追跡反応は消えていない!」

 幻影は役に立たない。匂いも姿も隠せる。だが、首輪そのものが人間へ居場所を伝えている。

 白銀幻猫は首輪を爪で引っかいた。

 外れない。皮膚だけが裂け、さらに血が流れた。

「囲め!」

 人間の足音が近づく。

 森の中へ、赤い光が何本も走った。

 結界杭。転移を封じる術式が地面へ広がる。

 白銀幻猫は方向を変えた。

 前方から矢が飛ぶ。身体を霧へ変えて避ける。

 一本目は通り抜けた。

 二本目も外れる。

 三本目の矢だけが、半透明の身体へ突き刺さった。

 魔力を傷つける矢。実体ではなく、存在そのものへ食い込む。

 白銀幻猫の身体が地面へ転がった。

「当てたぞ!」

「殺すな!」

 別の男の声がした。若く、よく通る声。

「生きたまま捕らえろ! 魔力核は絶対に傷つけるな!」

 白銀幻猫は立とうとした。右前脚に力が入らない。

 周囲に人間が現れる。

 剣。杖。弓。

 以前にも見た。

 自分を捕まえようとする人間は、皆同じ目をしていた。

 恐れながら、欲しがっている。

「網を使え」

 剣を持つ男が命じる。

 その腰には、折れた剣の代わりらしい新しい長剣が下がっていた。

 男の背後で、女の魔術師が杖を構える。

「また転移するわ」

「結界内だ。遠くへは行けない」

「逃がしたらどうするの」

「だから生け捕りにしろと言っている!」

 網が飛んできた。銀糸に呪文が刻まれている。

 白銀幻猫は残った力で幻影を作った。

 四匹。五匹。

 森の中へ白い影が散る。

「本体を探せ!」

 人間たちが迷う。ほんの一瞬。白銀幻猫は転移した。

 結界が身体を押し戻す。全身が引き裂かれるような痛み。

 それでも、少しだけ場所がずれた。

 網を避ける。

「セシリア!」

「分かっている!」

 女の杖へ魔力が集まる。

「強すぎる!」

 誰かが叫んだ。

 光の槍が放たれた。

 レオンが振り返る。

「待て!」

 命令は間に合わなかった。

 光が白銀幻猫の脇腹を貫いた。白い身体が宙へ浮く。血が霧の中へ散る。

 地面へ落ちる直前、白銀幻猫は最後の転移を使った。

 行き先は選べなかった。ただ、人間のいない場所を求めた。

 誰にも見つからない場所。傷ついたものが隠れられる場所。

 以前、森を渡る風の中で嗅いだことのある匂い。

 黒炎。雷。食べ物。古い木。

 そして、傷を壊さずに触れる人間の匂い。

 白銀幻猫の身体が、霧の中へ消えた。

     ◇

 朝、万物堂の前には血が落ちていた。

 最初に見つけたのはエレノアだった。

 開店前の掃除をするため扉を開き、石段の上に赤い雫があることに気づいた。

 一滴。その先に、もう一滴。

 街道ではなく、建物の脇へ続いている。

「バルドさん」

 店内へ声をかける。

 バルドは厨房から顔を出した。

「どうした」

「血です」

 ミケが先に動いた。

 床へ降り、入口の匂いを嗅ぐ。

 次の瞬間、背中の毛が逆立った。

 三本の尾が現れ、黒炎が揺らめく。

 血へ怒っているのではない。血に混じる別の匂いへ反応している。

 鉄。魔法。人間。呪具。

 ライもカウンターの下から出てきた。

 血痕へ鼻を近づける。

 耳先で青白い雷が弾けた。

「ライ?」

 エレノアが呼ぶ。

 ライは建物の横へ走った。ミケも続く。

 薪置き場の裏。

 雨除けの板と壁の間に、白いものが倒れていた。

 最初は布に見えた。

 近づくと、それが猫だと分かった。

 ミケより一回り小さい。長い白銀の毛。ただし、腹から後脚にかけて血に染まっている。身体は薄く透け、背後の壁が見えていた。

「白銀幻猫……」

 エレノアは息を呑んだ。

 公爵家の魔獣記録で読んだことがある。

 幻術と転移を操る希少種。人前へ姿を見せず、実在を疑う学者すらいる魔獣。

 その幻獣が、血まみれで倒れている。

 首には黒い輪が巻かれていた。細い鎖が皮膚へ食い込み、淡い赤色に明滅している。

 ミケが低く唸る。

 黒炎が首輪へ向いた。

「ミケ、待て」

 バルドが止めた。

「焼けば、この子まで傷つく」

 ミケは炎を消さなかったが、それ以上近づかなかった。

 ライが白猫へ歩み寄る。

 エレノアは止めようとしたが、バルドが手で制した。

 ライは白猫から身体一つ分離れた位置で止まる。

 鼻を動かす。

 首輪。傷口。薄く光る身体。皮膚の下に刻まれた術式。

 ライの耳が伏せられた。

 自分と同じだと分かったのだろう。

 人間によって身体へ何かを埋め込まれている。

「生きていますか」

 エレノアが尋ねる。

 白猫の胸は動いていないように見える。

 姿も少しずつ薄くなっていた。

 バルドが膝をつく。

「触るぞ」

 返事はない。意識もないのだろう。

 手を白猫の肩へ置いた。

 触れた瞬間、バルドの表情が変わった。

     ◇

 ひどい状態だった。

 魔法の矢が脇腹から入り、内臓を傷つけている。

 傷口は小さい。だが内部では、魔力による裂傷が何本も広がっていた。

 魔力核にも亀裂が入っている。

 それだけではない。身体全体へ、存在を希薄化させる呪いが絡みついている。

 本来、白銀幻猫が持つ幻化能力を逆用したものだ。

 実体を保てなくし、最後には霧のように消滅させる。

 首輪からは追跡術式が伸びていた。逃走すれば位置を知らせ、転移を使えば魔力核へ負荷を返す。

 何度も転移したのだろう。核の亀裂は、今にも崩れそうだった。

「外せますか」

 エレノアが聞く。

「首輪だけなら外せる」

 バルドは手を離さない。

「だが、術式が身体へ食い込んでいる。無理に壊すと、魔力核まで引っ張られる」

「では、どうすれば」

「順番に直す」

 最初に出血を止める。次に内臓。その後で魔力核を安定させる。

 呪いと追跡術式を処理するのは最後だ。

「全部を一度にはできないのですか」

「修繕にも負荷がある」

 バルドは白猫の薄い身体を見る。

「今の核では、急な変化へ耐えられない。直す力そのものが、この子を壊す」

「何日かかりますか」

「最低でも三日。状態によっては、もっとだ」

 その三日を越えられるかどうか。エレノアには聞けなかった。

 バルドは両手を白猫へ当てた。

 淡い光が広がる。

 脇腹に刺さった矢の術式を分解する。

 物質の矢ではない。魔力で作られた棘が、内側へ何本も残っている。

 一つずつ無害な構造へ変える。

 裂けた血管をつなぐ。内臓の傷を塞ぐ。

 白猫の身体が痙攣した。

 同時に、バルドの脇腹へ赤い線が浮かんだ。

「バルドさん!」

 シャツが裂れ、血が滲む。

「傷が移ったのですか」

「痛みの一部だけだ」

「血が出ています」

「身体が、痛みを傷として認識したらしい」

 生き物を修繕するとき、バルドは傷に伴う感覚を受け取る。

 今回は損傷が深すぎる。痛みの情報が強く流れ込み、彼自身の身体まで反応していた。

「止めてください」

「今止めれば、出血が再開する」

「ですが、あなたが」

「俺は消えない」

 バルドは白猫を見た。

「この子は消えかけている」

 白い前脚が、さらに透ける。

 輪郭が揺らぎ、床の木目が見える。

「姿が」

 エレノアが声を失う。

 白猫の身体が薄くなる。

 頭。背中。尾。

 最後には、血の染みと黒い首輪だけが床に残った。

「死んだ……?」

「まだいる」

 バルドは何もない場所へ手を置いたままだった。

「見えません」

「構造は残っている」

 声が低くなる。

「細いが、まだつながっている」

 エレノアには何も見えない。

 ミケは姿の消えた場所を睨んでいる。ライも鼻先を近づけたまま動かない。

 二匹には、何かが分かるのかもしれない。

 バルドは魔力を流し続ける。

 見えない身体の輪郭を探し、消えかけた構造を一つずつつなぐ。

 実体を強く戻せば、魔力核が壊れる。弱すぎれば、存在そのものが消える。

 細い糸を切らないよう、少しずつ引き寄せる。

 バルドの腕へ裂傷が増えていく。

 肩。胸。太腿。白猫が受けた傷と同じ場所ではない。だが、痛みだけが形を持ち、皮膚を切り裂いていた。

「もう十分です」

 エレノアは言った。

「十分ではない」

「あなたが倒れます」

「倒れるだけなら、あとで休める」

「この店には、あなたを直せる人はいません」

 バルドは答えなかった。

 額から汗が落ちる。呼吸も乱れている。それでも手を離さない。

「なぜ、そこまで」

 エレノアの声が震えた。

 白猫とは初対面だ。名前さえ知らない。

 それでもバルドは、自分の身体を傷つけながら修繕を続けている。

「ここまで来たからだ」

「それだけですか」

「助けを求めて来たのかは分からない」

 バルドは見えない猫へ魔力を流す。

「だが、店の前で倒れた」

 それで十分だと言うように。

 やがて、空気の中に白い輪郭が戻り始めた。

 最初に耳。次に顔。胴体。まだ半透明だが、形が見える。

 胸がかすかに上下した。

「戻った……」

 エレノアは息を吐いた。

 白猫は生きている。

 脇腹の出血も止まっていた。

 首輪は残っている。魔力核の亀裂も、呪いも消えていない。

 それでも、今すぐ消える状態からは抜け出した。

「今日は、ここまでだ」

 バルドが手を離す。

 その瞬間、身体が大きく傾いた。

「バルドさん!」

 エレノアが肩を支える。

 大柄な身体は重い。

 なんとか床へ倒れるのを防ぎ、壁際へ座らせる。

 顔色が悪い。呼吸も浅い。

「少し休めば戻る」

「少しとは、どれくらいですか」

「分からない」

「それは少しとは言いません」

 エレノアは傷へ布を当てた。

 バルド自身は《万物修繕》を自分へ使えない。少なくとも、他者へ使うほど正確には働かないらしい。

 治癒薬と包帯で処置するしかない。

「白猫の寝床を」

 バルドが言う。

「あなたが先です」

「床が冷たい」

「動かないでください」

 エレノアは毛布を重ね、暖炉の近くへ低い寝床を作った。

 ただし、火へ近すぎず、入口からも見えにくい位置。

 白猫の身体には直接触れない。下へ薄い板を差し込み、毛布ごとゆっくり移動させる。

 ライのときに学んだやり方だった。

 白猫を寝床へ置くと、ミケがその横へ座った。

 三本の尾を身体へ巻きつける。

 警戒するように入口を見る。

「ミケ、守ってくれるのですか」

 返事はない。だが、動く気もないらしい。

 ライも近づいた。

 普段なら、エレノアの足元かカウンターの下で眠る。

 今夜は白猫から少し離れた場所へ身体を丸めた。

 耳先の雷が、穏やかに明滅している。

 二匹とも、この白猫が自分たちと同じだと理解しているのかもしれない。

 人間に傷つけられた。身体を道具にされた。それでも、ここまで逃げてきた。

「名前は、まだ分かりませんね」

 エレノアが言う。

 バルドは壁へもたれたまま、白猫を見た。

「起きてから聞けばいい」

「話せるのですか」

「ミケとライにも聞いていない」

「では、また見た目で決めるつもりですか」

「白いから、シロ」

 エレノアはすぐに首を横へ振った。

「却下します」

「まだ決めていない」

「考えただけでも却下です」

 バルドはわずかに笑った。それから目を閉じる。

 眠ったのではない。力が抜けたように意識を失った。

「バルドさん?」

 呼吸はある。

 エレノアは胸を撫で下ろした。

 だが、安心はできない。白猫の治療には、まだ数日かかる。そのたびに、バルドが同じ負担を受ければどうなるのか。

 暖炉の火が小さく揺れる。

 血に染まった白猫。その横を守る黒猫。少し離れて眠る灰色の仔猫。

 そして、壁際で動けなくなった男。

 万物堂はまた一つ、直すには時間のかかる命を抱え込んだ。

     ◇

 北部山岳地帯。

 銀剣の黎明は、霧の中で白銀幻猫の痕跡を探していた。

「血はここで途切れている」

 ディーンが地面へ触れる。

「死体はない。転移したんだ」

「結界内で、あれだけの傷を負って?」

 セシリアが杖を握りしめる。

「あなたが強い魔法を使うからよ」

 治癒術師ノエルが言った。

「逃げる前に止めなければ、捕まえられなかったでしょう」

「魔力核を傷つけるなと言われていた」

 レオンの声が低くなる。

「核へは当てていないわ」

「確認できない以上、同じだ」

 レオンは首輪と対になった追跡具を取り出した。

 赤い針が震えている。

 先ほどまでは山中を指していた。今は南。遠く離れた方角へ向いている。

「転移距離がおかしい」

 ユリウスが言った。

「通常の白銀幻猫では、ここまで飛べません」

「追い詰められて力を使ったんだろう」

 追跡具の針が、一度大きく回った。

 やがて、ある方向で止まる。

 レオンは地図を広げた。

 山岳地帯の南。辺境都市リュネール。

 針はそこを指していた。

「反応が止まりました」

 使者として同行していた侯爵家の術師が言う。

「首輪はまだ作動しています。対象はリュネールにいます」

 レオンは地図を見つめた。

 リュネール。

 万物堂。災厄級魔獣を二匹も拾った男。

 白銀幻猫まで、同じ場所へ逃げ込んだ。

「また、あの男か」

 レオンは低く呟いた。

 追跡具の赤い針は、動かなかった。


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