第11話 バルドのいない遠征
銀剣の黎明が王都を出発したのは、まだ朝霧の残る時間だった。
目的地は、北部山岳地帯にある古いダンジョン。
近頃、内部で大型魔獣の活動が確認され、周辺の鉱山道にも被害が出ている。
依頼等級はA。
本来なら、S級パーティである銀剣の黎明にとって難しい仕事ではない。
「予定どおり、三日で最深部へ到達する」
レオンは先頭を歩きながら言った。
腰には聖剣。根元に入っていた亀裂は、王都の職人が補修してある。
以前と同じ状態ではないが、実戦には問題ないと説明された。
「帰還を含めて七日ですね」
新しく雇った補助職人のユリウスが、背負い袋を揺らしながら答える。
二十三歳。職人としての資格を持ち、魔道具の基礎整備もできる。
さらに、若い治癒術師のノエルも加わっていた。
これで問題はない。レオンはそう考えていた。
バルド一人が担っていた仕事を、専門職二人へ分けたのだ。戦力は以前より上がっている。
「少し休まないか」
後ろから、重い声がした。
重戦士のマルクだった。
大盾のほかに、食料と野営道具を詰めた荷袋を背負っている。
「まだ出発して二時間だぞ」
レオンは振り返った。
「分かっている。ただ、荷物が右へ寄っている」
「詰め直せばいいでしょう」
セシリアが言う。
彼女自身も、普段より大きな魔道具箱を抱えていた。
「さっき詰め直した」
「もう一度やればいい」
「歩くたびにずれるんだ」
ユリウスが荷袋を下ろし、中身を確認する。
「保存食が片側へ寄っています。盾の重量と釣り合っていません」
「積むときに分からなかったのか」
レオンの声が鋭くなる。
「馬車では問題ありませんでした」
「ここから先は徒歩だと分かっていたはずだ」
「荷物の割り振りは出発前に、皆さんで決めたものです」
ユリウスは言い返した。
以前なら、このようなやり取りはなかった。
王都を出る前に、バルドがすべての荷物を並べていた。
誰が何を持つか。歩く順番。地形によって交換する荷物。細かく決められていた。
いつ決めていたのかは知らない。
気づけば、肩へ掛けた袋が歩きやすい重さになっていた。
「保存食を二つに分けろ」
レオンが命じる。
「ディーンが持て」
「俺は斥候だぞ」
ディーンが不満そうに言う。
「身軽でいる必要がある」
「食料一袋くらい持てるだろう」
「持てるかどうかじゃない。足音と動きの問題だ」
「なら、セシリアだ」
「魔道具箱だけで十分重いわ」
結局、マルクの盾をディーンが一時的に持ち、食料の一部をマルクの荷袋から移すことになった。
それだけで、半刻近く失った。
致命的な遅れではない。取り戻せる。レオンはそう自分へ言い聞かせた。
◇
昼を過ぎる頃、雨が降り始めた。
山の天気は変わりやすい。分かっていたことだ。
それでも、予定していた野営地へ着く頃には全員が濡れていた。
「ここで休む」
レオンが言った。
岩壁に囲まれた平地。風も弱く、外から見つかりにくい。
野営には適しているように見えた。
ディーンが周囲を見回す。
「少し低くないか」
「何がだ」
「地面だ。周囲からここへ傾いている」
レオンは足元を見る。雨水はまだ薄く流れているだけだ。
「水はけは悪くない」
「上から流れてきたら、ここに溜まる」
「岩陰だ。風へさらされるよりいい」
セシリアも外套から雨を払いながら言った。
「もう移動したくないわ」
全員が疲れている。
結局、その場へ天幕を張った。
夕食の準備は、ユリウスが担当した。
乾燥肉と豆を鍋へ入れ、携帯用の魔導炉で煮込む。
「塩を入れすぎじゃないか」
ディーンが一口食べて顔をしかめた。
「山では塩分が必要です」
「必要でも、これは多い」
「水を足します」
水を足した結果、味は薄まったが量も増えた。
豆には火が十分通っていない。
マルクは何も言わずに食べている。
セシリアは半分残した。
レオンも食欲がなかったが、無理に飲み込んだ。
「以前は、もっとまともだったな」
ディーンが呟く。
誰の料理かは言わなかった。言う必要もなかった。
バルドは食事を豪華にはしなかった。
だが、疲れている者には柔らかい物を。身体の冷えた者には香辛料を。魔力を使った者には甘い物を。いつの間にか、皿の内容が少しずつ変わっていた。
「料理人を雇ったわけじゃない」
レオンが言った。
「食べられれば十分だ」
その夜、雨は強くなった。
上の斜面から流れた水が、野営地へ集まってきた。
最初に気づいたのはマルクだった。
「起きろ。浸水している」
天幕の下へ水が入り、寝具が濡れている。
魔道具箱の底も泥水に浸かっていた。
全員で荷物を持ち上げ、雨の中で高い場所へ移動した。
誰もまともに眠れなかった。
◇
二日目。
小さな問題が続いた。
セシリアの杖と、ノエルが持つ治癒用魔道具の魔力波長が干渉した。
同時に使うと、互いの術式が不安定になる。
王都では別々に確認していたため、気づかなかったらしい。
「距離を取れば使えます」
ユリウスが説明する。
「戦闘中に、毎回距離を測れと言うの?」
セシリアが苛立つ。
「調整には時間が必要です」
「今やって」
「ここでは工具が足りません」
「あなたは補助職人でしょう」
「工房ではありません」
レオンは会話を遮った。
「戦闘中はノエルを後方へ置く。セシリアは前衛寄りだ」
「私は魔術師よ」
「距離を取るためだ」
「それで敵に狙われたら?」
「俺が守る」
セシリアは何も言わなかった。
さらに、回復薬が予定より早く減った。
昨日の冷えと睡眠不足で体調を崩した者が出たためだ。
「残り十二本です」
ノエルが荷袋を確認する。
「二十本あったはずだ」
「昨日、五本使いました。今朝三本です」
「軽い疲労に使うな」
「治療しなければ、行軍速度が落ちます」
「予備は?」
「ありません」
レオンはユリウスを見る。
「なぜ予備を持ってこなかった」
「重量を減らせと言われました」
「必要な物まで減らせとは言っていない」
「出発前に、レオンさんが十二本で十分だと」
「二十本積んだだろう」
「八本は荷物調整の際に王都へ置きました」
かすかな記憶がある。
荷物が多すぎると判断し、回復薬か保存食のどちらかを減らすよう命じた。
以前は、バルドが余分な薬瓶を防具や荷袋の隙間へ分散していた。
衝撃を受けない位置。すぐ取り出せる位置。液体の重量が片側へ寄らない位置。
その配置を誰も覚えていなかった。
「次から増やせ」
レオンはそう言うしかなかった。
◇
三日目の午後、銀剣の黎明は大型魔獣と遭遇した。
山岳巨熊。体長は五メートルを超え、背中には岩のような甲殻がある。
討伐対象として報告されていた個体だ。
「予定どおりだ」
レオンは聖剣を抜いた。
「ここで仕留める」
ディーンが側面へ回る。マルクが盾を構え、セシリアが詠唱を始めた。
最初の動きは悪くなかった。
マルクが巨熊の突進を受け止める。
ディーンが脚へ刃を入れる。
レオンが正面から踏み込み、聖剣を振り下ろした。
硬い甲殻へ刃が当たる。
衝撃。手へ、嫌な振動が伝わった。
聖剣の根元に入っていた亀裂が広がる。
「まだいける」
レオンは剣を引き、二撃目を放った。
巨熊が前脚を振る。
マルクの盾へ直撃。
盾が歪み、マルクが後方へ飛ばされる。
「セシリア!」
「分かっている!」
炎の術式が完成する。
だが、ノエルが負傷したマルクへ治癒魔法を使った瞬間、二つの魔道具が干渉した。
セシリアの杖が激しく光る。
「何これ!」
炎が目標ではなく、横方向へ暴発した。
ディーンが地面へ伏せる。
火球が岩壁へ当たり、破片が降り注ぐ。
巨熊が咆哮した。
レオンは聖剣へ魔力を込める。
ここで退けば、銀剣の黎明の名に傷がつく。
「俺が決める!」
甲殻の隙間へ刃を突き込む。
巨熊が身体を捻った。
刃へ横から力が掛かる。
甲高い音がした。
聖剣が、根元から折れた。
折れた刃が地面へ回転しながら落ちる。
レオンの手には、柄と短い破片だけが残った。
「レオン!」
巨熊の前脚が迫る。
マルクが割り込み、歪んだ盾で受けた。
衝撃で二人が転がる。
「撤退!」
ディーンが叫んだ。
「まだだ!」
「武器がないだろう!」
セシリアの杖から煙が上がっている。
マルクの盾も、次の一撃には耐えられない。
ノエルが結界を張り、巨熊の進路を一瞬だけ塞ぐ。
「今しかありません!」
レオンは歯を食いしばった。
「撤退だ!」
銀剣の黎明は、負傷したマルクを支えながら岩場を離れた。
巨熊を倒すことはできなかった。
◇
安全な場所まで下がると、レオンは折れた聖剣をユリウスの前へ投げた。
「直したと言ったな」
若い職人は地面へ膝をつき、刃を確認する。
「応急補修はしました」
「実戦で折れた」
「だから、完全には直せないと説明しました」
「神話級装備を扱えると言っただろう」
「整備はできます。ですが、これは」
ユリウスは断面へ指を添えた。
「何年も前から、内部に損傷が蓄積しています」
「何年も?」
「刃の表面ではなく、魔力を通す骨格部分です。毎日の微調整で崩壊を防いでいた形跡があります」
レオンは黙る。
「誰かが、亀裂が生じるたびに内部構造をつなぎ直していた。だから今まで使えたんです」
「バルドか」
ディーンが言った。
「たぶん、そうです」
ユリウスは折れた刃を見た。
「普通なら、とっくに壊れていました」
「言い訳するな!」
レオンが怒鳴る。
「お前は、そのバルドの代わりとして雇われた!」
ユリウスの顔が強張る。
「俺は、一人の代わりに雇われたとは聞いていません」
「同じことだ」
「同じではありません」
若い職人は立ち上がった。
「武器、防具、魔道具、荷物、食事、野営地、補給計画。全部を一人で担当していた人間の代わりを、職人一人に求めないでください」
誰も口を挟まなかった。
雨上がりの山に、沈黙が落ちる。
「バルドを呼び戻した方がいい」
ディーンが言った。
レオンは彼を見る。
「何?」
「今なら、まだ話はできるかもしれない」
「必要ない」
「聖剣は折れた。セシリアの杖も危ない。マルクの盾も使えない」
「王都で新しい装備を用意する」
「また金を使うのか」
「スポンサーがいる」
「ずっと出してくれるとは限らない」
レオンはディーンを睨んだ。
「お前まで、あの男がいなければ何もできないと言うのか」
「そうは言っていない」
「同じだ」
レオンの頭に、万物堂の報告が浮かんだ。
辺境の修理店。災厄級魔獣。公爵令嬢。
連日、客が押し寄せているという噂。
自分たちは山中で撤退した。
その一方で、バルドは店を成功させている。
追放されたはずの男が。必要とされなくなったはずの男が。
「バルドはもう冒険者ではない」
レオンは言った。
「猫を集めて飯を出しているだけだ」
「なら、なぜそんなに気にする」
ディーンの言葉に、レオンの表情が固まった。
「気にしていない」
折れた聖剣を拾う。
「王都へ戻る」
◇
銀剣の黎明が王都へ帰還した翌日、ヴァレント侯爵の使者が訪れた。
会議室には、折れた聖剣と破損した装備が並んでいる。
使者はそれらへ一度視線を向けたが、何も言わなかった。
「侯爵閣下より、新たな依頼です」
机へ依頼書が置かれる。
北部山岳地帯に出現した、白銀幻猫の捕獲。
白銀の毛を持ち、幻術と短距離転移を使う希少魔獣。
捕獲例はほとんどない。
「報酬は?」
レオンが尋ねた。
使者が金額を示す。
通常のA級依頼の十倍。さらに、成功した場合は新たな神話級装備一式を提供するとある。
「聖剣もか」
「侯爵閣下が、王家の宝物庫へ働きかけるとのことです」
レオンは折れたアルヴァレスを見た。
この任務を成功させれば、すべてを取り戻せる。
名声。装備。銀剣の黎明が、バルドなしでも成立すると証明できる。
「受ける」
レオンは即答した。
「白銀幻猫を捕らえる」
「生死は問いません」
使者が付け加える。
「ただし、魔力核を傷つけないように」
「素材として必要なのか」
「詳しい用途は伺っておりません」
使者は依頼書を閉じた。
帰りかけてから、思い出したように振り返る。
「そういえば、北部の古代遺跡で興味深い品が見つかったそうです」
「何だ」
「《服従の首輪》と呼ばれる魔道具です」
使者は穏やかに笑った。
「装着した魔獣の意思を封じ、命令へ従わせる。災厄級魔獣さえ支配できるとか」
レオンの頭に、一匹の黒猫が浮かんだ。
三つの尾。黒炎。万物堂の窓辺に座る、黒炎の皇獣。
「本物なのか」
「まだ検証中です」
「どこにある」
「侯爵閣下が保管されています」
使者は一礼し、部屋を出ていった。
レオンは依頼書へ視線を戻す。
白銀幻猫。魔力核。服従の首輪。そして、バルドの万物堂。
折れた聖剣の断面が、机の上で鈍く光っていた。
「今度こそ成功させる」
レオンは誰に言うでもなく呟いた。
「俺たちは、あの男がいなくてもS級だ」




