135 花舞ノ章 三十八
瑞奈たち一行は、荒井浜の関所を避けて遠江湖を北へ迂回することにした。
一日余分にかかる道のりだが、関所で役人に紫雲を見つけられることは避けたい。
もし足止めになれば、一日どころか数日の拘束になるかもしれない。
「それに、ここにもそう書いてあるのじゃ」
天狗が”遠州濱辺遊覧紀行初見案内書”を開く。
荒井浜の関所は入るに堅く、出るに堅い。北の稲輪湖を抜けて湖沿いに進むべし。
「今日来た変な二人組もそう言っておったのじゃよ」
囲炉裏に薪をくべながら、老婆が言う。
薪が燃え、黒い煙が立ち煤の匂いがする。
「今日来た変な二人組?」
瑞奈が嫌そうな顔で言う。”二人組”という言葉に”変な”がついた時点であの二人しか考えられない。
「そうじゃ。なんとか、これ・・・とか、言うておったが忘れてしもうた。川から水を運んでもろうたのじゃ」
「へぇ。最初は自分が飢えて死にそうだったのに、人助けしてるなんて」
蓮華は驚きの顔。
三人は、北へ向かう途中で老婆の住む小屋を見つけ、一晩の宿を借りることにした。
礼に、蓮華が桑名から持ってきた野菜で汁を作る。
「久しぶりに人と飯を食うた。この辺りはめったに人が来んからのう・・・」
「御老婆はなぜこのような山の中でおひとりで暮らしておいでなのですか?」
瑞奈が膝の上に乗って丸くなっている狐白丸を撫でながら言う。狐白丸は心地よさそうに目を閉じている。
「わしゃあ、もともとこの北の稲輪湖の沼で葦を刈っておったのじゃ。それを今橋まで売りに行っておった。じゃがのう、一年ほど前から稲輪湖に鵺が住み着いてしもうてなぁ・・・。それからこの辺りに近づくものがとんといなくなってしもうた」
「鵺?」
「ああ、鵺じゃ。猿という者もおるし、虎という者もおる。空を飛んでいたという者もおるし、大蛇だったと言う者もおってな。じゃが、正体はわからん。退治に行ったものはみな亡骸となって帰ってくる」
「そんな化け物が住み着いておるのか?それではここもあぶなかろう?」
天狗の面の男が言う”化け物”とはいかに?・・・と瑞奈は余計なことを考えていた。
「鵺は葦を喰うようなのじゃ。この先に行くなら、片方だけ葉のある葦があるところは気をつけなされ。鵺が食べた跡じゃ」
「でも、人を襲う妖怪なら退治するべきですね。お婆さんも葦が採りに行けないでは困るでしょう」
蓮華が天狗に言う。
「そうじゃな。でも、空を飛ぶと言っておったが・・・見たものがおるのか?」
天狗が老婆に言うと、老婆は首を横に振った。
「わからん。ただの噂じゃ」
その時だった。
どんどん、どんどん!
戸を叩く音がした。
「なんじゃ、こんな夜分に・・・」
老婆が都の方へ行くと、声がした。
「わ、わしじゃ!今日、水を運んで世話してやった者じゃ!わしを一晩泊めさせてやろうぞ!」
「はいはい。今夜は賑やかだねぇ」
そう言って老婆が戸を開ける。
「あ」
「あ」
全員が固まった。
現れたのは霞惟正だ。
「は、瑞奈殿!このような場所でお会いできるとは!これこそ掃き溜めに鶴!」
「・・・わたしは・・・別に・・・・」
今日一番の嫌そうな顔。
「お主、なぜそのように泥だらけなのじゃ?」
天狗が聞くと、惟正はふんぞり返って立つ。
「よくぞ聞いてくれた!これこそが我が武勲の証!鵺と戦っておったのじゃ!」
「え?」
三人は顔を見合わす。
「で、退治したのですか?」
「・・・お、おうとも!わが手にかかれば鵺と言えども・・・・」
急に下を向く惟正。
「・・・嘘ですね?」
瑞奈も眉間にしわを寄せて、目を鋭くさせる。
「・・・すまぬ。嘘じゃ。・・・何とかここまで逃げてきたのじゃ」
「で、あなたひとりですか?一緒だった家臣の方はどうされたのですか?」
「元康か・・・。あいつは・・・別に・・・」
いい澱む惟正。
「どうされたのかと聞いているのです!!」
瑞奈が急に大きい声を出したので、驚いた惟正は背筋を正す。
「あいつが、わしを置いて逃げようとしたので、鵺はあいつを追っていった・・・。その間に何とかわしは逃げてきたのじゃ・・・」
話しながら徐々に俯いていく惟正。
瑞奈はそれを聞いて目を吊り上げて、いっそう深く眉間にしわを寄せた。
「・・・先ほど、鵺は葦を食べると聞きました。人を食べないのなら、今すぐ行けば間に合うかもしれません!助けに行きましょう!あなた、案内なさい!」
惟正の方をきっ、と睨む。
「わ、わしが!?たった今、命からがら逃げてきたというのに!?」
抱いていた狐白丸を蓮華に預けると、すたすたと惟正の方へ詰め寄る。
「あなた、武士ではないのですかっ!?武士でもないわたしたちが命懸けで化け物を退治しようと言っているのです!!あなたに武士としての誇り、刀を持つ者としての心はないのですかっ!?たった一人の家臣を犠牲にしておめおめと生き延びる武士に、何の価値などあるのですかっ!!人を守るのが武士の務めではないのですかっ!!」
「・・・・・・」
惟正は瑞奈の迫力に声が出ない。
「もうよろしい。あなたは囲炉裏の傍で一生震えていなさい」
そう言うと、瑞奈は薪を一つ手に持ち、囲炉裏の火をつけると松明にした。
「天狗殿、行きましょう」
「ああ」
瑞奈と天狗が外へ出る。
蓮華がうなだれる惟正の肩に手を置く。
「あなたが山賊につかまった時、元康様はわたしたちの前で、頭を地面にこすりつけてあなたを助けてくださいとおっしゃいました。武士の方が、わたしたちのような身分の者に、そこまでしてみせたのですよ?このままでよいのですか?」
「・・・・・・・!!」
しばしの沈黙の後、惟正は泥と涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で蓮華を見上げる。
「・・・うっ!?」
顔を覆う蓮華。
惟正は立ち上がると、小屋の外へ走り出る。
「待ってくれ!」
「夜が明けてからでもよかろうに・・・・」
老婆はそう言ったが、それでは手遅れかもしれない。
瑞奈と天狗の前に立つ。
「この霞惟正、一生のお願いがある!」
そう言うと、両膝を折り、両手を地面につける。
「わが家臣、貝元康を・・・鵺から救ってくだされっ!!」
そう言って額を土に擦りつけた。




