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戦ぎの淡い影 ― 平安戦御体戦記  作者: ひろくま
四章 花舞 はなまい

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134 花舞ノ章 三十七

「・・・に、逃げましょう、殿!」

元康が言うと、そこに惟正の姿はない。すでに逃げている。

「ああっ!!先に逃げるなんて!!」

元康も慌てて後を追う。

ばしゃばしゃと泥を()ねながら走る惟正を必死に追いかける。



ぐぅおおおおおおおおおおおん・・・・・・・・。



再びあの鳴き声。

「ひぃっ!?」

顔を引きつらせる惟正。

「さ、さっきより近くで鳴いていますっ!」

「こ、声を立てるな!見つかる!」

元康の頭を抑え込む。頭を低くしてその場にしゃがみこむ。

(あし)から頭を出すなよ!あの蛇に見つかる!」

「ひぃっ!?・・・・・・殿、蛇じゃなくて猿ではないかと・・・・」

後ろから元康がか細い声で言う。

「何を言う、あれは蛇じゃった。この目で見たからな!」

「いやぁ、たぶん猿ですよ・・・・」

「猿ではない!蛇じゃと言うのに!」

「じゃあ、・・・これは何ですか!?」

元康が惟正の後ろを指さす。振り向く惟正。

惟正は、背筋に凍り付くような痺れが走り、全身が硬直した。

そこには、惟正の背を軽く超えるほど巨大な顔があった。葦の隙間から覗いたその顔は、口は耳まで裂け、頬と額に深い皺を刻んでいる。薄闇の中でぎょろっとした目でこちらを見ている。

「・・・・・・猿じゃ」

「ですよね?」

「じゃが、考えろ。こんな大きな顔の猿などいるはずがないではないか」

「では、これは何ですか?」


「化け物じゃっ!!」


「ぶふぅ・・・・・・・・」

唸り声とともに、なんとも言えない腐った臓器のような生臭い息が惟正と元康にかかる。


「う、ひぃぃぃ・・・・っ!?」



その嫌な息に顔を(しか)める惟正と元康。

次の瞬間。


きしゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!


猿が吼えた。


「うぎゃあああああああ!!」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」


ばしゃばしゃばしゃ!

泥を跳ね飛ばしながら惟正を置いて逃げ出す元康。あわてて惟正が追いかける。


「ま、ま、まてぇいっ!!も、も、元康ぅ!!」


「こ、こ、こ、こっちへ来ないでくださひっ!!」


ぶしゅぅぅぅ・・・・・。

猿の鼻息が二人を煽り、沼に足を取られて顔から泥に突っ込む。


ぶしゃっ!!


「ふがっ!?」


何とか顔をあげてぶるぶると顔を振って泥を飛ばす惟正。

元康も何とか顔を上げると、泥の中で頭を抱えてうずくまる。

「な、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」


「ど、どこへ行ったのじゃ?」

惟正は後を振り返るが、そこに何かがいる気配はない。



・・・・・・・・・。

静寂があたりを覆う。



・・・・・・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。





きしゃあああああああああああああああっ!!


「うぎゃああああああああっ!?」

「ひやあああああああああああっ!!」


突如、咆哮とともに葦の隙間から現れた巨大な猿の顔に二人は抱き合って驚愕の叫びをあげた。



二人は再び一目散に走り出す。



「こっ、こらぁ!わしより早く逃げるなぁ!」

「殿さえ犠牲になれば、わたしは助かりますっ!おとなしく食べられてくださいっ!!」

「馬鹿者!家臣であれば、主のために命を捨てよっ!」

「殿こそ、この前盗賊から助けてあげた礼を今返して下さいっ!!」



ぐぅおおおおおおおおおおおん・・・・・・・・。


・・・また鳴き声!近い!


背筋が凍り付くような咆哮。あまりに響きすぎて耳が痛い。


「ひっ!?」

妙な声をあげて元康が急に立ち止まる。

「ぶひゃっ!?」

元康にぶつかって惟正は泥の中へ再び突っ込む。

「な、なんじゃっ!?急に!後ろから・・・・」

「しっ!」

元康の見つめる先。

背の高い葦のその上から、大蛇の鎌首が二人を見下ろしていた。

細く先が二股に分かれた舌をチロチロとのぞかせながら、白い鱗のような肌をヌメヌメと輝かせている。

「こ、これじゃっ!わしがさっき見たのは!!」

「喜んでいる場合ですか!後ろに化け猿、前に大蛇!もう終わりです!!逃げられません!!」

「・・・こうなればぁ!!」

意を決して、腰の刀を抜く惟正。

「殿っ!戦うのですね!」

「わしも武士である!戦わずして命をあきらめる気はない!」

「では、わたしも、覚悟を決めますっ!!」

元康も刀を抜く。

「殿、わたしは殿に仕えて幸せでした!」

「・・・元康、今生の別れのようなことを言うな!」

「いえ、言わせてください!殿のことは一生忘れません!さようなら!」

と言って走り出す元康。


・・・・え?


ひとり残された惟正。


チロチロ。大蛇の顔が目の前に・・・・。

「お、お、お、おいっ!元康ぅ!!この期に及んでまだ逃げるかっ!?」

ガタガタ震えながら刀を構える。刀が振動してかちゃかちゃと金属音を立てる。

視界いっぱいに大蛇の顔が迫る。


ぶぅぅぅぅぅ・・・・。


「な、なんじゃ!?やるのかっ!?食べてもおいしくないぞ?ん!?わ、わしは骨が固いからな!子供の頃、松の木から落ちても平気じゃったのだぞ?噛むと痛いぞ!?ほ、骨が固いぞ!?」


しゃぁーーーーーーーーーっ!!


「ひゃぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


腰が抜けて泥の中に尻餅をつく。

そのはずみで刀を泥の中に落としてしまう。

「お、お助けっ!!ひいいいいっ!!」


惟正の上から、大蛇が口をいっぱいに広げて覆いかぶさる。

「た、食べないでぇっ!!」


・・・丸吞みされる!惟正の視界が大蛇の口で覆われる。


ぐいっ!


ばくっ!!




大蛇が惟正を一飲みにしようとした瞬間、大蛇は引っ張られたように後ろへ下がり、閉じた口は空振りした。

「え!?」


しゃあぁっ!・・・しゃあぁつ!!


大蛇が惟正の方へ飛び掛かろうと口を開けて藻掻(もが)いているが、ずるずると後ろへ引き摺られていく。

遠ざかる大蛇の頭は徐々に葦の中へ消えていった。


しゃあぁつ!!・・・・・・・・・しゃあぁつ!!・・・・・。

大蛇の鳴き声だけが聞こえてくる。


「・・・助かった・・・・のか?」


惟正は泥の中から刀を拾う。


「と、ともかく逃げなければいかん!」


刀を杖代わりにして何とか立ち上がると、一目散に逃げだした。


・・・・・・何故、急に大蛇が・・・・・・だが、あの方角は、元康が逃げた方向じゃ。


「元康、冥福を祈るぞ・・・・・」

・・・やはり、今生の別れであったか・・・・・。

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