110 花舞ノ章 十三
ほんの一瞬だったはずだ。
急に降り出した大粒の雨が、笠を叩く音で気が付いた。
宙に浮いているような不思議な感覚から、地面の冷たさが急に戻ってきた。土の匂い。
瑞奈は立ち上がると、あたりを見渡す。
明らかにさっきまでとは違う。
「ここは・・・どこ?」
さっきまで感じていた人の気配がしない。
蓮華も、天狗も辺りに見当たらない。
「・・・はぐれたのかしら?」
思い出そうとすると頭が痛い。気を失う直前に嗅いだ、甘い香の匂いがまだ漂っている。
「ともかく、二人を探さないと・・・」
幸い、杖はしっかりと握っていた。
だが、どちらへ進むべきか、まるでわからない。
「・・・考えよう。こういう時、どうすればよいか・・・」
頭がずきずきと痛む。笠を叩く雨も強くなる。
「とりあえず、上に登ろう。いつか街道に出られるかもしれない。ともかくも、今は峠を越えなくちゃ!」
安直に考えて、今は山を登ることにした。
しばらく進むと、道のようなものを見つけた。
「獣道かしら?それとも・・・?」
街道のようではない。それほど人が踏み慣らした様子はないからだ。
ともかく、雨が強くなってきている。足元も悪い。これ以上、無暗に山を登るのは危険だ。
人がいるのなら、そこで雨を凌ごう。
そう思い、道を進んだ。
雨で視界が悪く、先がよく見えない。
着物が濡れて重くなり、体に張り付いて思うように足も上がらない。
「蓮華殿と天狗殿は無事かしら・・・」
あの二人なら、たぶん大丈夫だろう。むしろ、自分の身を案じなくては・・・。
そう思ったとき、遠くに小さな庵が見えた。
板づくりの小さな小さな庵。
ぬかるんだ地面がびちゃびちゃと鳴る。近づくにつれ、足音をさせないようにそうっと摺り足で進む。
煙り出しの窓が開いている。そこから煙が出ている。
・・・・人がいる。誰かが火を焚いている。
壁に背を付けて窓を覗く。
女の後ろ姿・・・・。
女?
こんな山の中に?
しかも、ひとり・・・・・・?
腰の柄巻に手をかける。
・・・・・・妖・・・・。
「妖や盗賊が出るという噂も聞いた・・・・」
天狗の言葉が脳裏をよぎる。
落ち着け、落ち着け・・・。
・・・・ゆっくりと、ゆっくりと近づく。
その時。
頭上の木の葉にたまっていた雨水が重くなり、枝がしなって瑞奈の笠の上に流れ落ちた。
ばたばたばた!と、大きな音がする。
「!?」
しまった!
庵の中の女が振り向いて窓からこちらを見る。
「どなたっ!?」
声がした。
目が合う。
「・・・・・・・・・・!?」
女の驚いた顔。
瑞奈は自分の口から出た言葉に、自分でも信じられなかった。
・・・そんなはずが、ない。
あるわけがない。
だが、口から声が漏れた。
あの夢を見た時と同じように。
「母様・・・・・?」
そこにいた女は、夢に出てきたあの美しい母と同じ顔をしていたのだ。
「ほら、やっぱりやめておけばよかったじゃないですか!こんな雨になるなんて!!」
「ええい、うるさい!わしの燃え盛る恋心は雨などでは挫けないのじゃ!」
惟正と元康は大雨の中、泥に塗れて街道を登っていた。
「あの僧侶の言うことを聞いておけばよかったんですよ!」
「あんな怪しい坊主の言うこと、いちいち聞いておったらこっちまで怪しくなるわい!」
「だからって、雨の鈴鳴峠は危険だって言われたじゃないですか!」
「危険が怖くて恋ができるか!」
「まったく、殿といるといつも碌な目にあいません!!」
「ふん!ならば勝手にするがよかろう!!別についてこいなどと言っておらんわ!」
「あー、いいんですか!そんなこと言って!今や殿の家臣はわたしだけなのに!みーんな、堺の海で逃げちゃいましたからね!」
「それもこれも、元康、おまえがしっかりしておらんからじゃないか!」
「そんなこと、わたしのせいにしないでください!」
「いいや、お前のせいじゃ!!」
「ぬぬぬぬぬ・・・・・・」
「むむむむむ・・・・・・」
「ふん!」
「ふん!」
ふたりは睨み合った後、同時にそっぽを向く。
「わたしはもう山を降りますからね!」
「勝手にせよ!わしはこのまま登っていく!あの方に追いつくために!」
「もう知りません!!殿とは縁切りです!」
元康は、今来た道を降り始めた。
「勝手にせよ!!」
惟正は街道を進む。
辺りには誰もいない。ここに来るまで、誰もがいそいそと下を向いて速足だったのは、雨が降ることを知っていたからだったろうか。
まったく、雨が降るのを知っていたなら教えてくれてもよさそうなもんじゃ!
・・・教えてもらったな、あの気持ち悪い僧侶に。
だが、あの美しいお方が先に進むなら、このわしも!!
と、言いたいが・・・これはさすがにひどいな。
地面が泥沼で、足を取られる。思うように登れないぞ・・・。
元康の言うように、引き返した方が・・・・。
「やっぱり殿は疫病神じゃないですか!わたしの言った通りにしないからですよーだ!!」
元康の憎たらしい顔が浮かぶ。
・・・・ふん!!
こうなったら、ひとりで鈴鳴峠を越えてやろうではないか!!
「ふん!まったく、いっつもいっつも自分勝手!!吹原につかまっていた時も、わたしを犠牲にして自分だけ助かろうとして!もう知りません!!」
元康は怒りながら山を下る。
「今度という今度はこの貝元康、霞惟正に愛想が尽きましたっ!!」
大声で叫んだ時、足を泥で滑らせた。
「うわっ!?」
ごろごろと転がって、泥の中を滑り落ちる。
「いてっ!?いてっ!!」
あちこち木の根にぶつけながら、しばらく滑り降りたところで木の枝にひっかっかって止まった。
「あー、もう!!それもこれも殿のせいだっ!!」
いっそう強くなった雨が容赦なく降り注ぐ。




