106 花舞ノ章 九
「どうして船でなくて橋を渡るのですか?船の方が速く渡れるのに」
蓮華が天狗に尋ねる。
大津の港には、御体車が乗せられるくらいの大きな船がたくさん係留されている。
「急がば回れというじゃろう?水の上で何かがあればもう逃げ場はない。街道伝いに勢多の橋を渡るほうが確実なのじゃ」
「そういうもんですか?」
「それと、勢多橋には昔の言い伝えがあってな・・・・」
その昔、勢多橋の上に大蛇が横たわっており、皆怖くて近づけずにいたところ、ひとりの豪傑が大蛇を意に介さず踏みつけて勢多橋を渡ったそうだ。すると、大蛇が人に化け、「近江湖に巨大百足が現れて、湖の魚を食べ尽くしてしまい、腹が減って動けない」と言った。その豪傑は、「ならばその百足を退治してやろう」と、百足に矢を放ち、それを退治した。
「という言い伝えじゃな」
「ふーん・・・・」
天狗が語り終えると、蓮華は橋の上を歩きながら、指さした。
「では、あれは・・・大蛇なのですか?」
橋の上に男が横たわっている。烏帽子姿と腰の刀。武士のようだ。
人通りの多い街道だけに、いろいろな人が見ているが、皆一様に関わり合いを避けているように見える。
「・・・あれは人だろうな」
「あ、瑞奈様、気を付け・・・・」
みぎゅっ。
「あ、ごめんなさい!何か踏みました!」
「ううう・・・痛い・・・」
男が呻く。
だが、顔色は悪く、頬はこけて今にも死にそうな顔をしている。
「大丈夫なのですか?」
瑞奈が男を起こす。欄干を背にしてもたれかかる。
「・・・もう、三日、いやそれ以上、何も喰うておらんのじゃ・・・。だが、わしも誇り高き武士であるがゆえに・・・こうして我慢しておる・・・」
「そうですか。ではお達者で」
立ち去ろうとする一行。
「冷たいのう!ここまでしておいて、そのまま行くとはっ!!」
「・・・見るからに、めんどくさい奴っぽい」
「祭りでもないのに天狗の面を被っとるおっさんに言われたくないのじゃ!」
ぴきっ!
「・・・斬り捨てる・・・・」
「あーっ、ごめんなさいっ!!」
額を地面につけて謝る男。
「で、何で橋の上で寝ていたのですか?」
蓮華が聞く。
・・・ああ、かまっちゃった。
瑞奈は手を額に当てて天を仰ぐ。
「よくぞ聞いてくれた、愛らしい娘さん!」
「あらぁ」
蓮華はまんざらでもない顔。
「わしは木曽霞家当主の二郎、霞貴正の子、霞惟正と申す者!我が父亡き後、木曽霞家の一部をその領地ともらい受け・・・」
「ああ!あなたも白結丸様と同じ霞家の方なんですね!」
蓮華は惟正の手を握ると、ぶんぶん振り回す。
「ひいっ!?ひいっ!?」
惟正は腕が外れるほど振り回される。
「蓮華殿、あまり深入りするべきではありませんよ。この方にはこの方の事情がございますゆえ・・・」
瑞奈がそう言って、深くかぶった笠を少し持ち上げる。
・・・ずきゅん!!
「はい・・・そうですね。すみません」
蓮華が少し頭を下げる。
「では、失礼いたします」
瑞奈がそう言って立ち去ろうとした時だった。
「お、お待ちくだされ。ここで踏まれたも何かの縁・・・。せめてお名前をお聞かせ願いたい!」
「・・・・・・・」
嫌な予感しかしない。
そこへ。
「殿ーっ!!よかったご無事でしたか!!」
惟正の唯一の家臣、貝元康である。
「元康!貴様、魚を獲ってくると言って三日も何をしとったのじゃ!おかげでこちらは死にかけたぞ!」
「いやあ、魚を獲るついでに親切な漁師の方に出会いまして、漁を手伝う代わりに毎日飯を食わせてもらって、楽しくて楽しくて・・・・」
ぷちっ!
「それでわしのことを忘れたのじゃなぁ!!!!」
「ははは、殿のことを忘れてなどおりません!気にしなかっただけでございます!」
「なお悪いわぁ!!」
「今のうち、逃げましょう」
「・・・はい」
瑞奈と蓮華、天狗は先を急いだ。
「理由はわからんが、せっかく吹原から逃げ出せたと思ったら、こんなところで餓死するとは!吹原の牢におった方が飯は食えたわっ!!」
「落ち着いてください、殿!皆が見てますよっ!」
「はっ、元康などとじゃれ合ううちに、あのお方に逃げられてしもうた!!」
「あの方?殿、あのお方とは?」
「先ほどまでここにおられた、それはそれは美しいお方じゃ」
惟正の目が遠くを見る。
「ああ、その方なら東の方へ行かれましたよ」
「おお!でかした、元康!たまには役に立つのう!」
「殿のお役に立つためにこの元康、これまでもこれからも精進いたす所存です!」
「忘れていたくせによく言うな・・・。まあ良い。それでわしの魚は?」
「・・・・・・・・・・・・・・えへっ」
「き・さ・まぁ・・・・・!!!」
「結局何だったのでしょうね、あの方たち」
蓮華が振り向きながら言う。
「関わると碌なことにならないことだけは感じました。追いつかれないように先を急ぎましょう」
瑞奈は最後に見たあの惟正のいやらしい視線を思い出して、背筋が凍る思いがした。
「この先に、岩寺という古い寺がある。そこで軒下を借りて夜を明かそう」
天狗が東の方を指さす。
「・・・まだ日が高いし、もう少し進んだ方が・・・」
瑞奈は先に行きたくて仕方ない。
「いや、この先、ここから鈴鳴越えまではしばらく山越えが続く。まともに休めるのはここが最後じゃ。ここでしっかり仕度せねばならん」
「天狗様、よくご存じなんですね。来たことがあるのですか?」
蓮華が聞くと、天狗は髭をちょんちょんと撫でた。
「若い頃、ここまでは来たことがある。この先はわしも知らんがな」
あれは・・・・そう、わしがちょうど二十歳になった頃・・・・。
「そういえば瑞奈様、普段はずっと男装されてますね」
「え?ああ、はい。この方が動きやすいので。馬にも乗れますし」
こほん。ええと、ある女性に出会い、二人はすぐに・・・・。
「でも、瑞奈様は綺麗な単衣に髪をおろした姿はすごく素敵だと思いますよ!」
「ええ?そうですか?わたしはああいう動きにくい着物はあまり好まなくて・・・」
「でもでもぉ、瑞奈様はお綺麗なので何を着ても似合いますけど、やはり雅な衣装が一番引き立ちますよ!」
「そんなことないですよ。でしたら、機会があったら蓮華殿も着飾ってみてはいかがですか?絶対に、その想い人の方も振り向いていただけると思いますよ!」
「ええーーっ!?あの方はそんなこと、気にする方じゃないですけどぉ・・・。って、想い人ってぇ!や、ややややややめめめめてぇ、くく、くだささささささあさああさいよおぅ!!」
・・・・まあ、機会があったら話そう。
「年頃の娘たちにはついて行けん!」
思わず声に出して叫んでしまった。
「?」
「突然どうしたのですか、天狗様?」
「・・・何でもない」




