第6話 雄大な村 ラストスタンド
翌朝。
目を覚ました私を襲ったのは、ひどく奇妙で不快な感覚だった。
……頭が痛い? それとも、気持ち悪い?
痛覚がないはずなのに、頭の奥や胃の腑のあたりが、ぐわんぐわんと重く揺れているような気がする。
……もしかして、痛みを感じる触覚が戻ったのかな……?
私はゆっくりと体を起こし、感覚のない指先で自分の頭を押さえてみた。
……だめだ。
髪の毛の感触も、自分の頭の丸みも、指先には何も伝わってこない。
ただの錯覚、あるいは深部で起きている得体の知れないバグのようなものだ。
……魔力酔い……? 原因は分からないけど……。
ひとまず布団から出て、立ち上がる。
ふと、ベッドの近くの机の上に目を向けると、私が着ていた服が綺麗に畳んで置かれていた。
赤いシミが付いた白いブラウスに、黒いロングスカート。
そして、崖から飛び降りた時に切り裂かれ、赤黒い血の染みがこびりついた黒いローブ。
ルルが洗ってくれようとしたのだろうか。
泥はしっかり落ちているけれど、この血の汚れはどうにもならなかったらしい。
私は、そのボロボロのローブを再び身に纏い、ゆっくりと一階へと階段を下りた。
「あ、魔女のお姉さん!」
一階では、ルルがエプロン姿で、酒場で出す料理の仕込みをしていた。
私に気づくや否や、彼女は手を止めてパタパタと小走りで駆け寄ってくる。
「おはよう!体調はどう?感覚は戻った!?」
心配そうに顔を覗き込んでくるルル。
左目の視界に映る彼女の姿は、昨日よりも少しだけ輪郭がはっきりとして、色彩を帯びていた。
「だ、大丈夫だよ。感覚はないけど……手も足も動くし、目も少し良くなった気がする。……そんな顔を、していたんだね」
「ほんと!? よかったぁ……!」
ルルは心底ホッとしたように胸をなでおろすと、すぐにパァッと笑顔を咲かせた。
「朝ごはん、ちょうど今からなんだけど、魔女のお姉さんも食べるよね!?っていうか、もう二人分作っちゃったんだから!」
「え……あ、うん」
「はい、お姉さんはこっちだよ!」
ルルは素早くテーブルに木のお皿を並べると、椅子を引いて、半ば強引に私を座らせた。
目の前に置かれたのは、湯気を立てる簡単なスープと、少し硬そうなパン。
味覚も触覚もないから、スープの味も、パンの香ばしさも分からない。
それでも。
その素朴な朝の風景と、私のために用意された食事が……味なんて分からなくても、冷え切っていた私の心の奥底に、じんわりと染み渡っていく気がした。
味覚のないスープをゆっくりと飲み下しながら、私はこれからのことについて思考を巡らせていた。
ひとまず、この村――『ラストスタンド』を自分の足で散策してみたい。
王国軍が手出しできない安全な場所だという事はスイさんの説明で分かったけれど、自分の目で地形や環境を確かめないことには、完全に安心することはできなかった。
「ルルちゃん。今日、少し外に出かけてみるよ」
私がそう告げると、ルルはピタッと手を止め、一瞬だけ不安そうな顔を見せた。
私がこのままどこかへ行ってしまうとでも思ったのだろうか。
しかし、彼女はすぐにいつもの明るい笑顔に戻り、ぐっと拳を握った。
「じゃあ、アタシも一緒についていくよ! お料理の仕込みはすぐ終わるから!」
言うが早いか、ルルは自分の分のパンとスープをものすごい勢いで平らげ、「待っててね!」と嵐のように厨房へ戻っていく。
すぐに、トントン、サクッ、と小気味良い包丁の音が響き始めた。
その賑やかな音を聞きながら、私はぼんやりと故郷の村を思い出していた。
ルルのように、お節介で、やかましくて、でも温かかった村の人たち。
……私が帰っても、村に迷惑をかけるだけ、もう戻れない。
もし私が戻れば、王国軍は間違いなく私を捕らえ、見せしめとして村を火の海にするだろう。
ならば、この不干渉地帯で暮らすのが、今の私にとっても、故郷にとっても一番の選択なのだ。
少しの感傷を振り払い、私はさらに現実的な思考へとシフトする。
ここで暮らしていくと決めたのなら、いつまでもルルのお世話になりっぱなしというわけにはいかない。
生活していくための『お金』が必要だ。何か、私にもできる稼ぎ口を探さないとね……。
それに、もう一つ。
スイさんは絶対に安全だと言っていたけれど……。
あの逃亡劇で染み付いた危機感は、そう簡単に拭い去れるものではない。
刃が肌を掠め、火球が後方から迫る、トラップだらけの逃走ルートに未来視でも見えなかった王国の騎士、そして――――
……私を貫いたあの剣技、命を掛けた自分を吹き飛ばす魔法。
あんな綱渡りは二度とやりたくない。
万が一、王国軍の狂刃が盟約を破ってこの村にまで及んだ時のために。
あるいは、いざという時に誰も巻き込まずに離脱するために、最悪を想定した『逃走ルート』の確保も済ませておくべきだ。
村の地形と出入り口、身を隠せる場所……確認しておくことは山積みだね。
私は残された左目に微かな光を宿し、静かにこれからの生存戦略を組み立て始めていた。
そんな暗い思考の海に深く沈みかけていた、その時だった。
「お待たせ!終わったよー!いこう、お姉さん!」
パンッ、と小気味いい音を立てて厨房の布巾を置いたルルが、勢いよく駆け寄ってきた。
そして、感覚のない私の右手をぎゅっと両手で包み込むと、そのまま強引に引っ張るようにして酒場の外へと連れ出した。
触覚はないから、手を引かれている感覚はない。
けれど、視界がぐんと前に引っ張られ、彼女の明るい足取りに釣られるようにして、私の身体は重い木の扉の外へと飛び出していた。
――その瞬間。
私の左目に飛び込んできたのは、思わず息を呑むような絶景だった。
「…………っ!」
雲ひとつない高く澄んだ青空の下、すり鉢状の谷に沿うようにして立ち並ぶ、レンガと石造りの美しい街並み。
それを取り囲むように聳え立つのは、空を切り裂くほどに高く雄大な、そして深緑の山々だ。
はるか上空の山頂付近にはうっすらと白雪が残り、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
谷間を吹き抜ける風が、村のあちこちに掲げられた色鮮やかな旗や、石畳の小道の横で干されている洗濯物をパタパタと揺らしていた。
王国の冷たい無機質な城塞とも、私の故郷の土臭い農村とも違う。
四つの巨大な国に囲まれた深い谷底で、まるで世界から切り離されたように存在する、美しくも神秘的な箱庭のような場所。
いざという時の逃走ルート。隠れ場所。生存戦略。
先ほどまで頭を占めていたそんな泥臭い思考が、この圧倒的な景色と澄み切った空気を前にして、一瞬で吹き飛んでしまった。
「……すごい」
自然と、掠れた声が漏れ出る。
ぼうっと景色に見とれて立ち尽くす私を見て、ルルはえへへと自慢げに笑い、下から私の顔を覗き込んできた。
「気に入った?」
太陽のような、ひだまりのような笑顔。
圧倒的な自然の美しさと、目の前で微笑む少女の温かさ。
「ここがアタシ達の村、ラストスタンドだよ」




