第5話 二人の逃亡者 初めてのお酒
ここは王国軍の手が届かない、完全な安全地帯なのだ。
その事実に、私の張り詰めていた心が、ようやくふっと軽くなるのを感じた。
……けれど。
安堵したのも束の間、私の脳裏に冷たい疑問が浮かび上がった。
「……スイさん」
「はい。なんでしょうか」
穏やかに微笑むスイさんを見つめる。
私はまだ警戒を解ききれない、掠れた声で尋ねる。
「なぜ、私が王国軍から追われていると分かったんですか? 私が魔法使いだということも、怯えている理由も……まるで、最初からすべて知っていたみたいに」
いくらルルが私を「魔女」と呼んだとはいえ、スイさんの地図を使った説明はあまりにも的確すぎた。
逃亡者の心理を、痛いほど理解しているかのような先回りの手回し。
「スイさん……あなたは一体、何者なんですか?」
私の問いかけに、隣に座るビルさんは口を挟まず、ただ静かにジョッキのビールを煽った。
スイさんは怒ることも、誤魔化すこともなく、ただふわりと目を伏せた。
「ええ。疑問に思うのも当然ですね、ただあなたの荷物を偶然見てしまって、その中の黒い手紙をみて確信したんですよ」
そう言って、スイさんはゆったりとした動作でローブの懐に手を入れる。
そして取り出したものを、テーブルの上にそっと置いた。
「なっ……!」
残された左目が、それをはっきりと捉える。
それは古びてはいるが、王家の紋章が赤い蝋で封印された、忌まわしい黒い封筒。
あの誕生日の朝、私の平穏を理不尽に奪い去った『徴兵令』と、まったく同じものだった。
「なぜ、それを……」
「私も、あなたと同じなんですよ」
スイさんは、黒い手紙を愛おしむような、けれどどこかひどく悲しげな手つきで撫でた。
「癒やしの魔法。それが王国の目に留まり、『国家資産』として接収されそうになった……国を捨てた、ただの臆病な逃亡者です」
「スイさんも……逃亡者……」
「はい。十年前、王国軍の追跡を逃れ、命からがらこの『ラストスタンド』に辿り着いた。生き倒れた所をルルちゃんのお父さんに拾われたんです。だから……」
スイさんは顔を上げ、深い慈愛に満ちた瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「あなたがどれほどの恐怖を抱えてここまで走ってきたか、私には痛いほどよく分かるんです。アストラさん、あなたはもう、一人で怯えなくていいんですよ」
その言葉は、どんな治癒魔法よりも深く、私の心の奥底に浸透していった。
この村には、私と同じ痛みを分かち合える人がいる。
私だけが、孤独な『魔女』じゃなかったんだ。
張り詰めていた糸が完全に切れ、今度こそ心の底から安堵の息を吐き出そうとした、その時だった。
「おっまちどおさまー!!!」
厨房の方から、ルルの元気すぎる大声が響き渡った。
彼女が両手で抱えるようにして持ってきた大きなお盆には、所狭しと料理が並べられていた。
私の前にドンッと置かれたのは、黄金色に輝く大きなオムライス。
さらにテーブルの中央には、山盛りの唐揚げや、串に刺さった焼き鳥が乗った大皿まで運ばれてくる。
「今日は魔女のお姉さんの快気祝いも兼ねて、ラストスタンド特製の大盤振る舞いだよ! さあ、いっぱい食べて元気出してね!」
ルルは私の正面に座ると、両手をあごの下で組み、目をキラキラと輝かせて私を見つめてきた。
鼻腔の感覚は死んでいるから、料理の匂いはまったく分からない。
けれど、目の前に広がるご馳走の『色彩』と、湯気が立ち上る『温度』の視覚情報が、酷使して空っぽになった私の身体に強烈な「空腹」を呼び起こした。
ぐうぅ、と。
自分でも驚くほど、情けない音が鳴る。
「えへへ。お腹、すっごく空いてるでしょ? はい、スプーン!」
手渡された木のスプーンを、感覚のない指でなんとか握りしめる。
少し躊躇いながらも、私はルルの期待に満ちた眼差しに背中を押されるようにして、オムライスをすくい、ゆっくりと口に運んだ。
……味覚がない。触覚もない。
卵のふんわりとした食感も、ケチャップの酸味も、ご飯の熱ささえも、私の脳は感知してくれない。
物理的には、ただ無機質な塊を飲み込んでいるだけのはずだ。
それなのに。
空腹をなだめるように胃の腑に落ちていくそれは、ひどく温かかった。
底抜けの優しさと、この村の人々の『情』が、壊れた五感を飛び越えて、直接私の魂の奥底を満たしていくような、不思議な感覚。
「……おいしい」
掠れた声が、ぽつりと零れ落ちた。
味が分からないのに、美味しいだなんておかしい。
けれど、そうとしか表現できないほど、それは私がこれまで生きてきた中で、一番温かい食事だった。
「ほんと!? よかったぁ! アタシの特製、いっぱい食べてね!」
ルルの満面の笑みが、左目の視界でぼやけていく。
おかしいな。左目も、未来視の代償で視力を失いかけているのだろうか。
ポタ、ポタと。
自分の膝の上に、透明な水滴が落ちていくのを見て。
私はようやく、自分が声を殺して涙を流していることに気がついた。
私が声もなく涙を流している間も、ルルは気にする素振りも見せず、ただニコニコと笑いながら私の空いたお皿に次々とおかずを乗せてくれた。
それからしばらくして。
豪快に笑っていたビルさんがテーブルに突っ伏して高いびきをかき始め、他のお客さんたちも三々五々に夜の闇の中へ帰り始めていた頃だった。
「……もしかして」
他のお客さんも居なくった時、隣に座っていたスイさんが、ふと優しい声で私に尋ねた。
「あなた、味覚がないんですか?」
「え……っ」
私は驚いて、左目だけでスイさんを見つめ返した。
心配をかけまいと、普通に食事を楽しんでいるように振る舞っていたはずなのに。
「ごめんなさい。癒やしの魔法使いとしての職業柄、少し気になってしまって。熱いスープを飲んでも、熱がる素振りすら見せなかったものですから」
「……」
隠しても仕方がない。
私はゆっくりと頷き、自分の今の状態を呟くように話し始めた。
「私自身も、こんなに魔法を酷使したのは初めてだったんです。普段は簡単な魔法を少しだけ使う程度だったんですが、追っ手から逃げるために少し先の未来を見る魔法を何度も使っていたら、だんだん五感が鈍くなって……最後には、色が消えて、音も聞こえなくなりました」
「五感を代償にする魔法……」
スイさんは痛ましそうに目を伏せると、「少し、試してみましょう」と自分のジョッキをテーブルに置いた。
そして、私の頭と胸のあたりに、再び淡い光を放つ両手をかざす。
温かいお湯に浸かっているような、心地よい感覚。
けれど、光が収まっても、私の右目にも、右耳にも、指先にも……何も変化は訪れなかった。
「……やっぱり、ダメですか」
スイさんは静かに首を振った。
「肉体の傷は治せても、失われた感覚までは戻せないようです。おそらく、過剰な魔法の負荷が、あなたの感覚を脳に伝える『センサー』の役割を焼き切ってしまったのかもしれません」
「焼き切った……」
「ええ。ですが、魔力の枯渇による一時的な遮断の可能性もあります。ひとまずは安静にして、様子を見るべきですね」
絶望的な宣告。それでも、なぜか不思議と取り乱すことはなかった。
味は分からなくても、ルルのご飯はあんなにも「美味しかった」のだから。
「はーい、そろそろ閉店だよー!」
厨房を片付け終えたルルが、エプロンを外しながらパタパタとこちらへやってきた。
「魔女のお姉さん、今日はアタシの家に泊まっていかない?アタシ、お外の世界のお話がすっごく聞いてみたいんだー!」
目を輝かせて提案してくるルル。
それが、「行くあてのない怪我人を放っておけない」という彼女なりの不器用で真っ直ぐな気遣いなのだと、今の私には痛いほどよく分かった。
「……ありがとう。でも、さすがにこれ以上迷惑はかけられ……」
遠慮して立ち上がろうとした、その瞬間。
ぐらりと視界が揺れ、私はテーブルに手をついて崩れ落ちそうになった。
「おっと。危ないですよ」
スイさんが素早く私の身体を支えてくれる。
「あ、れ……? 身体が、思うように……」
重力魔法の反動とも違う、頭の芯がぼんやりと麻痺するような感覚。
そこで私は、テーブルの上に置かれた『三つの空のジョッキ』を見て、ハッとした。
そういえば、今日?は私の『二十歳の誕生日』。
人生で初めて口にしたお酒だったのだ。
味覚がないから苦味も分からず、水のようにぐいぐいと飲み干してしまっていたせいで、自分がひどく酔っ払っていることに全く気づいていなかった。
「ふふっ。お酒のペースが早すぎましたね。いい飲みっぷりでした、二階へ運びましょう」
「アタシも手伝うー!」
スイさんの細い腕と、ルルの小さな肩に両脇を抱えられ、私はなすがままに二階の居住スペースへと運ばれた。
不思議と、嫌な気分ではなかった。
「では、私はこれで。また明日、様子を見に来ますね」
私をベッドに寝かせると、スイさんはふわりと微笑んで部屋を出て行った。
「アタシ、下のお店片付けちゃうから、魔女のお姉さんは先にベッドに入っててね! 怪我は治っても、まだボロボロなんだから!」
ルルは有無を言わさぬ勢いで私に布団を被せると、首元までしっかりとシーツを引き上げた。
「だめだよ、絶対に起き上がっちゃ! ゆっくり休んでね、おやすみなさい!」
嵐のように言い残し、ルルはパタパタと足音を立てて一階へと戻っていく。
強引に寝かせられたベッドの中。
触覚はないはずなのに、布団の温かさだけが、ひどく心地よく私を包み込んでいた――。




