第4話 最果ての酒場 完全なる安全地帯
次に目を覚ましたのは、夜。
一階から聞こえてくる賑やかな喧騒を、残された左耳が捉えたときだった。
……身体が、動く。
相変わらず触覚はないし、指先の感覚もない。
けれど、泥人形のように固まっていた身体は、不思議と私の意思に従ってゆっくりと起き上がることができた。
……色が……見える。
左目だけの視界ではあるが、灰色のノイズに覆われていた景色に、少しだけ色彩が戻っている。
窓から差し込む青く暗い月明かり。
そして、一階から漏れてくる温かいランプのオレンジ色。
……これが、スイさんの癒やしの魔法。純粋に誰かを治すためだけの魔法って、こんなにすごいんだ。
私はゆっくりとベッドを降り、感覚のない足を引きずりながら、喧騒の元――一階へと続く階段を下りた。
「ルルちゃん、こっちも注文おねがーい!」
「ルルちゃん、こっちはビール追加で!」
「はーい! ちょっと待ってねー!」
一階は、むせ返るような熱気と笑い声に包まれた、大繁盛している酒場だった。
パッチワークのエプロンドレスを着たルルが、大きなお盆を抱えて、厨房と客席の間をパタパタと小走りで往復している。
そのあまりにも無防備で平和な光景に、私は反射的に階段の影へと身を隠した。
追っ手は……? ここに王国軍の潜入は……。
私は、村を見捨てて逃げた逃亡者。王国軍に見つかれば、問答無用で接収だ。
油断はできない。私は息を殺し、無意識に『未来視』を発動して安全を確認しようと意識を集中させた。
その時。
「――大丈夫。ここは安全ですから」
「っ!?」
突然、背後から声をかけられ、私はビクッと肩を揺らした。
振り返ると、そこには昼間に私を治療してくれた魔法使い、スイさんが静かに微笑んで立っていた。
「あなたも一緒に、飲みませんか?」
「え……?」
誘われるがままに、私は感覚のない足を動かし、スイさんと一緒にフロアの隅のテーブルへと座った。
そこには、昼間ルルと一緒にいた大柄な男性――ビルさんが、すでに上機嫌でジョッキを傾けていた。
「おっ、起きたか! まあ、堅苦しいことは抜きにして飲もうぜ。ルルー! こっちビール三つだ!」
「はーい!」
ビルの大声に反応して、ルルがちょこちょこと小走りでテーブルにやってきた。
そして、私と目が合うなり、パァッと花が咲いたような笑顔を見せる。
「ビール三つだね!……あっ、魔女のお姉さん! 起き上がれるくらい良くなったんだね!」
「ま、魔女って……っ」
私は血の気が引くのを感じた。
王国において、それは大声で口にしていい言葉ではない。
誰かに聞かれれば、即座に通報されて王国軍が雪崩れ込んでくる。
慌てて周囲を見回すが、酒場の客たちはルルの言葉を聞いても、誰一人として私を気にする素振りすら見せなかった。
「よかったぁ!よくなって!いっぱい寝たからお腹空いてるでしょ?とびっきり美味しいもの作るから、ちょっと待っててね!」
ルルはあっけらかんと言い放つと、私の心配など風のように吹き飛ばして、再び早足で厨房へと去っていく。
……信じられない。私が魔女だって分かってて、どうしてこんなに普通でいられるの……?
唖然とする私の前に「ビルさーん!ちょーお待たせ〜!」
厨房に向かったはずのルルが、秒速で三つのビールジョッキを抱えて戻ってきた。
「ありがとな! それじゃあ、新たな出会いに乾杯!」
ビルさんが機嫌よくジョッキを掲げ、ガチン、と小気味いい音を立ててスイさんのジョッキと合わせる。
「……乾杯」
私も戸惑いながら、感覚のない手でなんとか自分のコップを持ち上げた。
重さも、冷たさも分からない。本当に持てているのかも視覚で確認するしかない。
周囲への警戒心はまだ解けない。
いつ王国軍が踏み込んでくるか分からない状況で、こんな風に呑気にしている場合ではないのだ。
落ち着かない様子で周囲を見回す私の強張った横顔を見て、隣に座るスイさんがくすりと小さく笑った。
「ふふっ。そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。ここは『ラストスタンド』……国の外なんです」
「王国の、外……?」
「ええ。あらかじめ用意しておいたのですが……これを見てください」
スイさんはローブの懐から、古い羊皮紙の地図を取り出してテーブルの上に広げた。
「ここは大陸の中央。東に『王国』、西に『帝国』、南に『共和国』。そして北には宗教国家である『聖国』があります」
スイさんの細い指が、地図上の四大国を順番になぞっていく。
そして、その四つの巨大な国境線が交わる、ぽつんと空いた空白の丸い地点を指差した。
「この『ラストスタンド』は、全ての国と隣接している飛び地のような場所です。ですが、どの国もここを侵略しようとはしませんし、物理的にできないのです」
「どうして……?」
「ここを拠点にすれば、他の三カ国へ容易に攻め込むことができるからです。だからこそ、互いに敵対している王国、帝国、共和国は、この地を『不干渉地帯』とする強固な盟約を結びました」
「不干渉地帯……」
「はい。そして北の聖国が、その約束の『見届け人』となっています。聖国自体は領土拡大に興味がないですからね。つまり、ここは政治的にも地理的にも、絶対に軍隊が手出しできない完全な安全地帯なんですよ」
スイさんの丁寧な説明に、私は残された左目で、食い入るように地図を見つめた。
王国軍の手が届かない、奇跡のような空白地帯。
こんな安全な場所があるなんて、考えてもみなかったな。
スイさんの言葉に、ジョッキを煽っていたビルさんが、ふうっと酒の匂いのする息を吐いて口を挟んだ。
「『見届け人』って言うと聞こえはいいがな。あそこの連中はマジでヤバいぜ。宗教国家でなによりも『義』を重んじるんだが……もしこの三カ国のどこかが盟約を破ってこの不干渉地帯に手を出せば、『義に反した』として、無条件で聖国の攻撃を受けることになる」
「攻撃……」
「ああ。国がひとつ滅びるまで、狂ったように兵隊と魔法が降り注ぐようなやつだ」
ビルさんの言葉に、私は思わず息を呑んだ。
王国も帝国も、大陸を二分するほどの強大な軍事国家って教えてもらった。
それを波状攻撃で焦土に変えるほどの武力が、その宗教国家にあるというのだろうか。
私の疑問を見透かしたように、スイさんが地図の『聖国』の広大な領土を指でそっとなぞる。
「聖国が四大国の一つとして数えられているのには、血塗られた理由があります。数百年前、彼らはただの一つの小さな『教会』に過ぎませんでした。しかし、彼らの教えや『義』に反抗してくる組織や国をすべて暴力で捻り潰し、自らの組織へと強制的に組み込んできたのです」
「……」
「そうやって、周辺諸国を飲み込む残虐な『国取りゲーム』に勝ち続け、今の巨大な国家へと成長した歴史があるんですよ。彼らは自ら他国を侵略することはありませんが、それはあくまで『大義名分』がないからに過ぎない」
「つまり……」
「ええ。もし王国軍があなたを追ってこの村に軍事介入すれば、それは聖国に『王国を攻め滅ぼす最高の大義名分』を与えることになります。だからこそ、王国も帝国も絶対にこの『ラストスタンド』に手を出せないんです」
スイさんの静かで冷たい解説に、私は自分の置かれている状況を完全に理解した。
ここは、巨大な爆弾同士が睨み合う中心点。
強国同士の牽制と、狂気にも似た聖国の『義』という名の暴力。
それらが複雑に絡み合い、互いの喉元に刃を突きつけ合っているからこそ生まれた、奇跡のような空白地帯。
王国軍の手が届かない、完全な安全地帯なのだ。




