第3話 灰色と静寂 黄金色の温度
灰色。
左目の端に映るのは、色彩を失った、灰色のノイズに覆われた天井。
ここは……どこ?
ぼんやりとした視界の中に、鼻歌混じりに何か作業をしている少女の姿が映った。
……サリサリ、サリサリ。
少女の手元で、木を削る音が響く。
左目だけが捉える、彼女の姿。
一生懸命な、ちぐはぐな可愛さ。
あの、女の子……。
私が逃亡の最中に、最後に触れた「温度」。
彼女が削っているのは、不格好だけど温かい木の飾りみたいだ。
……身体、動かない。
起き上がろうと意識を集中させても、身体は言うことを聞かない、感覚すらない。
私の指先は、灰色のノイズの中で凍りついている。
「――あ!魔女さんっ!目が覚めたんだ!」
木の削り音が止まり、少女が振り返った。
左目だけが捉える、色彩を感知し始めた視界。
灰色の中に差し込む「黄金色の温度」。
駆け寄って、くる……。
灰色の中に、ぼんやりとの笑顔の「色」見えた気がした。
「だめだよ動いちゃ!あなたボロボロだったんだから……えっと、えっと、そうだ!水入れてくるから!」
彼女は慌ただしく、家の奥の方へ消えていった。
パタパタという足音が遠ざかり、部屋に静寂が落ちる。
私は、残された左目と左耳だけで、自分の身体と現状を把握しようと試みた。
右目は真っ暗だ。光の粒子すら感じない。
右耳は深い水底に沈んでいるように、外界の音を一切遮断している。
鼻腔をくすぐるはずの匂いも、舌の上の感覚も、何もない。
布団に包まれているはずの身体は、重さも、布の擦れる感触すらも喪失していた。
まるで、自分の意識だけが、動かない泥人形の中に閉じ込められているようだ。
……生きている。
規格外の重力反発で、崖から強引に飛び降りた、いや、体を吹き飛ばした。
あの高さから落ちて、五感のほとんどを代償にしながらも、命だけは繋ぎ止めたのだ。
問題は、ここがどこかということ。
……追っ手は……?
視界の端、ぼやけた灰色の世界で部屋を見回す。
質素な木組みの天井。
壁には見慣れない動物の毛皮や、さっき彼女が削っていたような不格好な木の飾りがかけられている。
冷たい鉄格子の牢屋でも、無機質な聖騎士団の野営テントでもない。
ここは、どこの国にも属さないような、生活の匂いが染み付いた場所だ。
星が示した、あの絶望的な未来の糸の中から手繰り寄せた、唯一の生存ルート。
私は本当に、追っ手の届かない『村』へ辿り着いたのだろうか。
「おまたせ!えっと、お水、飲めるかな……?」
再びパタパタと足音を立てて、彼女が戻ってきた。
左目だけが捉える、木でできた小さなコップを持った彼女の姿。
まだ状況は完全に飲み込めていない。
けれど、私を見つめるその灰色の瞳の奥に、敵意だけはないことだけは分かった。
「……あ、そっか。動けないんだよね。ごめんね、ちょっと失礼するね」
少女が私の背中に腕を回し、ゆっくりと上体を起こしてくれる。
触覚がないから、彼女の腕の感触も、シーツが擦れる感覚もない。
ただ、視界がふわりと持ち上がり、彼女の顔がぐっと近づいたことで、自分が抱き起こされたのだと理解した。
「ゆっくりでいいからね。飲み込める?」
左耳に届く声は、まるでお気に入りのお人形を愛でるように、ひどく優しかった。
木でできたコップの縁が、私の唇に当てられる。
傾けられたそこから、水が流れ込んでくる。
感覚がないから、それがどんな味がするのか、冷たいのか温かいのかさえ分からない。
⋯⋯味覚も触覚も本当に失ってしまったんだ。
けれど、カラカラに乾ききっていた喉の奥が、命の水を必死に飲み込もうと反射的に動いた。
「こほっ、けほっ……」
「ああっ、ごめんね!勢いよすぎたかな。大丈夫?ゆっくり、ゆっくりね」
むせてしまった私の背中を、彼女が慌てて、でも優しいリズムでトントンと叩く音がした。
何も感じない。
けれど、視界の端で上下する彼女の腕の動きと、心配そうに眉を八の字にしている表情が、私に『労わられている』という事実を教えてくれる。
「……、……」
声を出そうとして、掠れた息しか出ない。
それでも彼女は、私の意図を汲み取るように、うんうんと大げさに頷いてくれた。
「無理に喋らなくていいよ。あたしはルル。ここはただの小さな村の酒場、アタシの家だよ」
ルル。
それが、彼女の名前。
「あなた、すっごくボロボロだったんだよ。泥だらけで、傷だらけで……でも、もう大丈夫。私がいるから」
彼女――ルルは、空になったコップを横の台に置くと、両手で私の手を包み込んだ。
感覚のない私の手。
けれど、彼女のその行動に込められた「祈り」のようなものは、確かな熱を持って私の胸の奥に届いた。
ギィ、と古びた木の扉が開く音が、左耳にだけ届いた。
……誰か、来た。
左目の視界の端、ぼやけた灰色の景色の中に、大柄なシルエットがぬっと入り込んでくる。
「よう、ルル。病人の具合はどうだ?」
太く、しゃがれた男の声だった。
「あ、ビルさん!」
ルルはパッと顔を輝かせて振り返る。
「うん、今ちょうど目が覚めたところだよ。夜遅かったのにお薬、貸してくれて本当にありがとうっ!今度、私がちゃんと作って返すからね!」
「ははっ、いいってことよ。お礼は今日の夜、お前のとこの美味い酒を一杯奢ってくれりゃ十分だ」
豪快に笑うビルと呼ばれた男性の言葉に、やはりここは酒場なのだと理解する。
「それより助っ人を連れてきたぜ。入ってきな、スイ」
ビルが大きな体を避けると、その後ろから、すっと音もなく玄関をくぐる細身のシルエットが現れた。
「スイさんが……?もしかして、魔法で治療してくれるの?」
ルルの声が、弾むように高くなる。
スイと呼ばれたその人は、床を滑るような静かな足取りで、私の枕元まで近づいてきた。
残された左目が見上げたその人は、灰色の視界の中でも分かるほど、穏やかで柔らかな微笑みを浮かべていた。
「ええ。私の魔法は、癒やすことしかできませんからね」
心地よい、静謐な声だった。
スイが私の身体の上に、そっと両手をかざす。
その瞬間、灰色のノイズに覆われていた私の視界に、ふわりと淡い光の粒子が舞い散るのが見えた。
……あ。
触覚はない。
けれど、干からびた土に恵みの雨が染み込むように、私の壊れた細胞のひとつひとつへ、不思議な光の魔法が浸透していくのが分かる。
ルルの圧倒的な生命力の「温度」とはまた違う、静かで、清らかな魔力。
この村には、私のような国家資産として縛られていない、自由な魔法使いがいる。
その事実が、癒やしの光とともに、私の強張った心をゆっくりと解きほぐしていった――。




