第三話「記憶の味」
三日後、田中さんに来てもらった。
寝かせた返しと煮出しの出汁を合わせたつゆを出した。水出しも別に用意して、両方飲み比べてもらった。
田中さんが両方を静かに飲んだ。
「煮出しの方が近い」
やはりそうだった。紬も同じように感じていた。
「でも」と田中さんが続けた。「まだ何かが足りない気がする。甘さなのか、深みなのか、うまく言えないけど」
それから毎日、田中さんが来た。
紬が少しずつ調整したつゆを、田中さんが飲む。感想を言う。紬がまた調整する。その繰り返しだった。
醤油の量を変えた。味醂の比率を変えた。砂糖を足した。足しすぎた。引いた。昆布を長く浸けた。短くした。鰹節の量を変えた。
毎日、田中さんの言葉が少しずつ変わった。
「まだ違う」
「少し近づいた」
「甘さはこれくらいかな。でも後味が」
「出汁は合ってきてる。返しだな」
蕎麦打ちの時と同じ道を、今度はつゆで歩いていた。
五日目、耕二が紬のつゆを飲んで言った。
「返しの寝かせが足りない。もう二日待て」
「でも田中さんに毎日飲んでもらってるから」
「今日のは昨日より遠くなってる。焦ると狂う。一つずつ固めろ。返しが完成してから、比率を合わせる。両方を同時に動かすな」
紬は手を止めた。
確かに、昨日より今日の方が田中さんの反応が薄かった。近づこうとして、かえって遠ざかっていた。
「……わかりました。二日待ちます」
「その間に出汁だけ飲み比べてもらえ。出汁の方向を固めてから、返しと合わせる」
翌日、田中さんに出汁だけを飲んでもらった。
昆布と本枯れ鰹節だけの出汁を。
田中さんが飲んで、しばらく考えた。
「正蔵さんの出汁、もう一種類何か使ってた気がするんだよな。この出汁は香りはいいんだけど、後味にもう一押しが足りない。コクというか、じんわり残る感じが」
「もう一種類、ですか」
「なんだったかな。正蔵さんに聞いたことがあったんだけど、忘れてしまって」
紬は耕二を見た。耕二が少し考えている顔をしていた。
「……宗田鰹かもしれない」と耕二が言った。「本枯れ節だけだと、香りは立つがコクが出にくい。宗田鰹を少し混ぜると、深みとコクが出る。飲み終わった後にじんわり残る感じになる」
「そうかもしれない」と田中さんが目を細めた。「そういう感じだった気がする。正蔵さんが何か混ぜてるって、なんとなく思ってたんだよ」
宗田鰹。
紬はメモに書いた。
翌日、宗田鰹を仕入れた。本枯れ鰹節の出汁に、宗田鰹の出汁を少し合わせた。
田中さんに飲んでもらった。
一口飲んだ瞬間、田中さんの表情が変わった。
「……これだ。このコクだ」
「出汁は合いましたか」
「出汁は合った。あとは返しだな」
二日後、返しを開けた。
瓶の口を緩めた瞬間、香りが違った。醤油の角が取れて、丸くなっていた。味醂の甘さが醤油に深く溶け込んでいた。五日目とは明らかに違った。
紬は出汁と返しを合わせた。
比率は出汁八に返し二。でも今日は返しをほんの少しだけ増やした。田中さんが甘さと深みが足りないと言っていたから。ほんの少しだけ。
湯呑みに注いだ。
一口飲んだ。
手が止まった。
層があった。
最初に甘さが来た。自然な、押しつけがましくない甘さだった。それから出汁の香りが追いかけてきた。昆布の旨味と、本枯れの香りと、宗田鰹のコクが、順番に来た。飲み終わった後、じんわりと何かが残った。
「耕二さん」
耕二が紬の顔を見た。
「飲んでみてください」
耕二が湯呑みを手に取った。一口飲んだ。
止まった。
もう一口飲んだ。
長い沈黙だった。
「……師匠のつゆに、近い」
声が、少し低くなっていた。
「近い、ですか」
「ああ。この層だ。この感じだ」
紬の目が潤んだ。
「泣くな」と耕二が言った。
「田中さんに飲んでもらってから泣きます」
「昨日言ったか」
「今日も有効です」
耕二がため息をついた。でもその口の端が、わずかに動いていた。
「……明日、田中さんに来てもらえ」
(第三話 了)




