第二話「昆布と鰹節」
翌朝、耕二が来た。
いつものようにエプロンを持っていた。でも今日は、紙袋も持っていた。中から昆布と鰹節を出した。厚削りの鰹節だった。袋を開けた瞬間、香りが厨房に広がった。
「これは」と紬が言った。
「師匠が使っていたものと同じ産地だ。羅臼昆布と、土佐の本枯れ鰹節。全部が同じとは言えんが、近いはずだ」
「覚えてたんですか」
「厨房には入れてもらえなかった。だが、仕入れの帳簿は見たことがあった」
耕二が昆布を手に取った。厚みのある、黒々とした昆布だった。表面に白い粉が吹いていた。
「この白いのは何ですか」
「旨味だ。マンニットという成分で、これが甘さになる。田中さんが言っていた最初の甘さは、たぶんここから来てる」
紬は昆布を触った。しっとりとして、重かった。
「出汁の引き方から教える。まず水出しと煮出し、両方やってみろ」
「両方ですか」
「師匠がどちらを使っていたかわからない。両方引いて、田中さんに飲んでもらう。記憶に近い方を選んでもらえばいい」
紬は鍋を二つ用意した。
「水出しは昆布を水に入れて一晩置くだけだ。だが煮出しは火加減が全部だ」
「火加減、ですか」
「昆布は六十度から七十度の間で旨味が出る。沸騰させると雑味が出る。沸騰する直前に取り出す——そこが全部だ」
「沸騰する直前って、どう見極めるんですか」
「鍋の底に小さな泡が出始めたら、もうすぐだ。昆布の周りに細かい泡が付き始めたら、取り出せ」
紬は火をつけた。昆布を入れた水が、ゆっくりと温まっていく。鍋を覗き込んで、泡が出るのを待った。
「耕二さんも、出汁を引くんですか」
「当たり前だ」
「お父さんの出汁と、耕二さんの出汁は違いますか」
「全然違う」
「どんなふうに違うんですか」
「師匠の出汁は、もっと深かった。同じ素材を使っても、引き方が違えば全然違うものになる。蕎麦と同じだ」
鍋の底に、小さな泡が出始めた。見ているうちに、昆布の周りにも細かい泡が付いてきた。
「今だ」
紬が昆布を取り出した。出汁が薄い黄金色に染まっていた。香りが、ふわりと立ち上った。昆布の、海の匂いがした。
「次は鰹節だ。火を強くして、沸騰させてから鰹節を入れる。入れたら火を止める。鰹節が沈むまで待って、こす。絶対に絞るな」
「なぜですか」
「絞ると雑味が出る。静かに、自然に落ちるのを待て」
鰹節を入れた瞬間、濃い香りが厨房に広がった。紬は思わず目を閉じた。
この香りだ、と思った。
子供の頃から、この香りが正庵の匂いだった。お父さんの店の、朝の匂いだった。
「紬」
耕二の声で目が開いた。
「鰹節が沈んできた。こせ」
紬はこし器に布巾を当てて、静かに出汁を注いだ。黄金色の液体が、布巾を通ってゆっくりと落ちていった。
「飲んでみろ」
湯呑みに出汁を注いで、一口飲んだ。
旨かった。昆布の甘さと、鰹の香りが、順番に来た。最初に甘さが来て、後から香りが追いかけてきた。
「……層がある」
「そうだ。これが一番出汁だ」
「田中さんが言ってた味、これかもしれない」
「出汁だけではまだわからない。返しと合わせて初めてつゆになる」
耕二が返しの作り方を教えてくれた。醤油と味醂と砂糖を合わせて、火にかける。煮立てすぎない。醤油の角が取れる程度に。それから寝かせる。
「どのくらい寝かせるんですか」
「最低でも三日。本当は一週間あると違う。醤油の角が丸くなって、味醂の甘さが醤油に溶け込む。寝かせるほど深みが出る」
「蕎麦の生地を休ませるのと同じですね」
耕二が少し黙った。
「……そうだな。急いでも、いいものにならない。蕎麦も、つゆも、同じだ」
醤油の香りと味醂の甘さが合わさって、厨房に広がった。火を止めて、冷ます。それから瓶に入れた。
「これを三日、最低でも三日寝かせろ」
「三日後に田中さんに飲んでもらいます」
「その間に出汁の方向を固めろ。水出しと煮出し、どちらが師匠の味に近いか、自分で飲み比べてみろ」
帰り際、耕二が言った。
「出汁は悪くなかった。その調子でやれ」
ドアが閉まった。
紬は厨房に一人残った。
水出しと煮出し、二つの出汁を並べた。色が少し違った。水出しは透明感があって、煮出しは少し濃い黄金色だった。
両方を飲み比べた。
水出しは、昆布の甘さが優しかった。すっきりとしていた。煮出しは、旨味が濃くて、後味に深みがあった。田中さんが言っていた「層がある」という感じは、煮出しの方が近い気がした。でも確信はなかった。
「お父さん」
紬は言った。
「水出しと煮出し、どっちだったの」
少し間を置いた。
「まあ、田中さんに聞くよ。三日後に」
返しの瓶が、棚の上に静かに置いてあった。急いでも、いいものにならない。
窓の外で、温泉の湯気が夜に白く立ち上っていた。
「つゆも、守ってみせるから」
(第二話 了)




