第1話 「父の出汁」
つむぎ庵を開けて、一ヶ月が経った。
蕎麦は、少しずつ安定してきた。毎朝七時に厨房に立って、水回しから茹でまで、全部丁寧にやる。その日の粉の状態を指先で読んで、水の量を決める。こねて、休ませて、伸ばして、切る。トントントンと音が揃う日は、大体うまくいく。
田中さんたちは相変わらず週に二、三回来てくれた。新しい顔も少しずつ増えた。つむぎ庵という名前が、別府の街に静かに馴染んできていた。
耕二は週に一度くらい、昼時を少し外した時間にカウンターに座った。蕎麦を食べて、お茶を飲んで、帰る。それだけだった。でも紬には、それで十分だった。耕二が帰り際に何も言わない日はまあまあで、「悪くない」と言う日は本当に良かった日だった。
そういう日々が続いていたある水曜日、田中さんが一人で来た。
いつもは三人セットなのに、今日は一人だった。珍しかった。カウンターに座って、せいろを頼んだ。
紬が蕎麦を出すと、田中さんはいつもより少し時間をかけて食べた。食べ終わって、田中さんが湯桶のそば湯を湯呑みに注いだ。ゆっくりと飲んだ。それからもう一度飲んだ。何かを確かめるように。
「紬ちゃん」
「はい」
「少しいいかな」
紬は厨房から出て、田中さんの隣に座った。田中さんが湯呑みを両手で持ったまま、少し黙っていた。何かを言おうとして、言い方を探しているような間だった。
「蕎麦はな、正蔵さんに近づいてきてると思う」
「ありがとうございます」
「でも」
田中さんが湯呑みを見た。
「つゆが、まだ違うな」
紬は黙った。
「責めてるんじゃないよ。ただ、正直に言った方がいいと思って」
「……どう違うんですか」
田中さんが少し考えた。
「正蔵さんのつゆはな、最初に甘さが来て、後から出汁の香りが追いかけてくる感じがした。なんというか、層があった。でも今のつゆは、全部が一緒に来る。悪くないんだよ。でも、正蔵さんのとは違う」
層がある。
紬はその言葉を頭の中で繰り返した。
「お父さんのつゆのレシピ、知らないんですよ」と紬は言った。「蕎麦と同じで、全部頭の中に入ってたから」
「そうか」と田中さんが言った。「そうだよな」
しばらく二人で黙っていた。
「田中さん、お父さんのつゆの味、覚えてますか」
田中さんが少し笑った。
「三十年飲んでたからな。体は覚えてると思う。でも言葉にできるかどうかは、わからない」
「言葉じゃなくていいです。一緒に作ってもらえませんか」
田中さんが紬を見た。目が細くなった。
「俺に作れるかな」
「田中さんの記憶が頼りです。私には、それしかない」
田中さんが湯呑みを置いた。
「……やってみるか」
その夜、紬は耕二に電話した。
「つゆのことで相談があるんですが」
「何があった」
「田中さんに、お父さんのつゆと違うって言われて」
電話口で耕二が黙った。
「お父さんのつゆのレシピ、知ってますか」
「……知らない」
「知らないんですか」
「蕎麦は教えてもらった。でもつゆは、師匠が全部一人でやってた。厨房に入れてもらえなかった」
紬は思わず手が止まった。耕二でも知らなかった。お父さんはつゆだけは、誰にも教えなかった。
「田中さんの記憶を頼りに再現しようと思って」
「田中さんが覚えてるか」
「三十年飲んでたって言ってたので」
耕二が少し黙った。
「……出汁の引き方は教えてやる。返しの作り方も。ただ、正解がわからない以上、田中さんの記憶だけが頼りだ」
「はい」
「難しいぞ。蕎麦より難しいかもしれない。蕎麦は打てば形が見える。でもつゆは、飲んでみるまでわからない」
「やります」
耕二がため息をついた。
「……わかった。明日、出汁の引き方から教える」
電話を切って、紬は厨房に入った。
今使っているつゆは、市販の返しと出汁を合わせた簡単なものだった。開店準備で手一杯で、つゆまで手が回らなかった。田中さんの言葉で初めて、そこにちゃんと向き合う気になった。
蕎麦だけじゃない。つゆも、お父さんの味がある。
棚の上の木の札を見た。「蕎麦打ち 竹内」という文字が、灯りを受けていた。
「お父さん」
紬は言った。
「つゆのこと、何も知らなかった。蕎麦ばかりで、つゆのことを考えてなかった」
少し間を置いた。
「田中さんは層があるって言ってた。最初に甘さが来て、後から出汁の香りが追いかけてくるって」
窓の外で、温泉の湯気が夜に白く立ち上っていた。
「つゆも、守らないといけないね。蕎麦だけじゃなかった」
(第一話 了)




