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つむぎのそば番外編 〜つゆのこと〜  作者: 八雲 海
つむぎのそば 番外編 「〜つゆのこと〜」

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最終話「これだ」

翌日の昼過ぎ、田中さんが来た。


今日は三人全員で来た。いつもの二人も一緒だった。紬から電話で「今日来てほしい」と頼んでいた。


三人がカウンターに座った。


紬がつゆを湯呑みに注いで、三人の前に置いた。蕎麦じゃなくて、つゆだけを出すのは初めてだった。


「つゆだけ、飲んでみてください」


田中さんが湯呑みを持った。


一口飲んだ。


目を閉じた。


隣の二人も飲んだ。


厨房が静かになった。時計の音だけが聞こえた。紬は耕二の横で、息を殺して待った。


田中さんが目を開けた。


しばらく、湯呑みを見ていた。


それから、紬を見た。


「……これだ」


紬が固まった。


「これ、ですか」


「そうだ。正蔵さんのつゆだ。この甘さで、この後味だ」


隣の男性の目が赤くなっていた。


「懐かしいな」ともう一人が言った。声が震えていた。「正蔵さんの店に入った時の、あの感じだ」


田中さんが湯呑みをもう一度持った。また一口飲んだ。ゆっくりと、確かめるように。


「紬ちゃん」


「はい」


「正蔵さん、喜んでるよ」


紬の目から涙がこぼれた。


今日は止めなかった。


「また泣いてる」と耕二が言った。


「今日は泣いていいって言いました」


「昨日言ったか」


「今日も有効です」


田中さんたちが笑った。耕二がため息をついた。でも、その口の端が動いていた。


田中さんが言った。


「紬ちゃん、一つ聞いていいか」


「はい」


「これ、どうやって作ったんだ。正蔵さんのレシピもないのに」


紬は少し考えた。


「田中さんの記憶と、耕二さんの知識と、私の手で作りました」


田中さんが耕二を見た。耕二が視線を逸らした。


「耕二くん、ありがとうな」


「俺は教えただけだ」と耕二が言った。「紬が作った」


田中さんがもう一度湯呑みを見た。


「正蔵さんのつゆは、正蔵さんの頭の中にしかなかった。それが、三人の間に生まれたんだな」


紬はその言葉を聞いて、また泣きそうになった。こらえた。こらえきれなかった。


三人が帰った後、耕二も帰り支度を始めた。


コートを羽織りながら、耕二が言った。


「紬」


「はい」


「師匠は、つゆのことを誰にも教えなかった。俺にも教えなかった。ずっと、それが悔しかった」


紬は耕二を見た。


「でも今日わかった。教えなかったんじゃなくて、教えられなかったんだ。体に染み込んでいるものは、言葉にならない。蕎麦打ちと同じだ」


「……そうですね」


「でも、田中さんの体の中に、ちゃんと残ってた。三十年飲み続けた人間の体に、ちゃんと残ってた」


耕二がドアに向かった。


「耕二さん」と紬が呼び止めた。


「何だ」


「お父さんが耕二さんにつゆを教えなかったのは、まだ時間があると思ってたからじゃないですかね。喧嘩別れしたけど、いつか仲直りして、その時に教えようと思ってたんじゃないかな。お父さんのことだから、言葉にはしなかったと思うけど」


耕二が止まった。


背中が、少し動いた。


「……そうかもしれない」


低い声だった。


「そうだといいですね」と紬が言った。


耕二が出ていった。


ドアが閉まった。


紬は厨房に一人残った。


つゆの入った鍋を見た。明日からこれで出す。蕎麦と、つゆと、両方が揃う。


棚の木の札を見た。「蕎麦打ち 竹内」という文字が、灯りを受けていた。


「お父さん」


紬は言った。


「つゆ、できたよ。田中さんが、これだって言ってくれた。三人で辿り着いたよ。田中さんの記憶と、耕二さんの知識と、私の手で」


少し間を置いた。


「耕二さんに教えなかったのは、まだ時間があると思ってたからだよね。お父さんのことだから、きっとそうだよ」


窓の外で、温泉の湯気が夜に白く立ち上っていた。別府の街が、灯りに照らされていた。


「お父さんの味、全部守れた気がする」


その言葉を口にした瞬間、初めてその言葉が本当になったと思った。


蕎麦だけじゃなかった。つゆも、守れた。


お父さんから受け継いで、自分の手で、また紡いでいく。


それが、つむぎ庵だった。


番外編 了

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