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第九章 建て直す家

侯爵家の改革は、その冬から始まった。


 最初に変えたのは印章だった。


 侯爵家の大印章を使用できる者を当主と家令の二名に限定し、夫人用、後継者用、各部署用に別の印を作った。


 どの印章で何を承認できるのか、文書として定めた。


 次に、苦情と契約の管理制度を作った。


 他家や商会から届いた正式な抗議は、内容の大小を問わず、七日以内に当主または代行者に報告する。


 契約内容を変更する場合、相手方の書面同意を必須とする。


 例外を認めた場合は、誰が、なぜ、どの権限で認めたのかを記録する。


 古参の使用人たちは戸惑った。


「そこまで記録する必要がございますか」


 ある日、家令補佐が尋ねた。


 アーサーは一枚の申請書を確認しながら答えた。


「必要かどうかを後の人間が判断できるように、記録するんだ」


「以前は、口頭で十分だったこともございます」


「以前はな」


 それ以上は言わなかった。


 侯爵家の改革を、すべての者が歓迎したわけではない。


 手続きが増えた。


 決裁が遅くなった。


 長年の慣習で認められていた融通が利かなくなった。


 古参の家臣の中には、


「侯爵閣下は一度の婚約破棄で臆病になられた」


 と陰で言う者もいた。


 アーサーの耳にも入った。


 それでも制度を戻さなかった。


 ただし、規則を増やし続ければよいわけでもないことを、半年ほどで理解した。


 すべてを当主に上げれば、今度は決裁が滞る。


 そこで金額、責任範囲、他家への影響によって権限を分けた。


 各部署に裁量を与え、その境界だけを明確にする。


 善意による例外を禁止したのではない。


 例外を認める責任者を決めた。


 困窮した使用人を救済したいなら、正式な救済基金から出す。


 知人を別邸へ泊めたいなら、侯爵家の賓客として記録する。


 誰かに馬を貸す必要があるなら、管理責任者が代替手段を確保したうえで認める。


 アーサーはようやく、自分がこれまで「家を統治していた」のではなく、「大きな問題が起きない範囲で動いている家を眺めていた」だけなのではないかと考えるようになった。


 翌年の春。


 以前、前金三割を求めてきた商会と再び契約することになった。


 条件書には、今回も前金三割と書かれていた。


 アーサーは異議を申し立てなかった。


 二年目。


 同じ商会との契約で、前金は二割になった。


 三年目。


 一割五分。


 わずかな変化だった。


 だがアーサーはその数字を見て、しばらく書類から目を離さなかった。


「何か問題がございますか」


 家令が尋ねた。


「いや」


 アーサーは契約書に署名した。


「少し戻っただけだ」


 オルブライト伯爵家との関係は、長く途絶えたままだった。


 社交の場で会えば挨拶はする。


 王宮で同じ会議に出ることもある。


 それだけだった。


 アーサーは一度も婚約の復活を求めなかった。


 セシリアに直接謝罪を申し出ることさえ控えた。


 謝罪は婚約解除時に侯爵家として正式に行っている。


 それ以上近づくことは、相手に許しを求める行為になると思ったからだった。


 三年目の秋、転機が訪れた。


 北部街道の橋が洪水で流され、複数の領地を結ぶ物流路が断たれた。


 復旧には、ハーグレイヴ侯爵領とオルブライト伯爵領の共同工事が必要だった。


 アーサーは担当官に命じた。


「先方へ計画案を送れ」


「閣下のお名前で?」


「侯爵家名義でいい」


「伯爵様へ直接お話しにならなくても?」


 アーサーは少し考えた。


「まずは正式な手続きを踏む」


 数日後、オルブライト伯爵家から返事が来た。


 共同工事について協議に応じる。


 それだけだった。


 翌週、両家の担当者が集まった。


 さらに翌月、アーサーとロバート伯爵自身が同じ会議室の席に着いた。


 三年ぶりだった。


「久しぶりだな」


 ロバート伯爵が言った。


「ああ」


 アーサーは答えた。


 それ以上の挨拶はなかった。


 二人は橋の設計図を広げ、費用負担、工期、維持管理について話し合った。


 感情に触れる話は一つも出ない。


 二時間後、契約案がまとまった。


 ロバート伯爵が書類を閉じる。


「以前より細かくなったな」


 アーサーは一瞬、相手の顔を見た。


「足りないか」


「いや」


 伯爵は首を横に振った。


「これでいい」


 その言葉の意味を、アーサーは尋ねなかった。


 両家は契約を結んだ。


 工事は予定通り進み、翌年春には橋が完成した。


 誰も「関係が修復した」とは言わなかった。


 ただ、その翌年にも小さな共同事業が一つ行われた。


 その次の年には、商会を介した取引が再開した。


 信用は、謝罪によって元に戻るものではなかった。


 新しい約束を一つ結び、それを守る。


 次も守る。


 また次も守る。


 それを何度も繰り返した先に、以前とは違う形で積み上がっていくものだった。


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