第十章 契約を結ぶということ
婚約が解消されてから五年が経った。
セシリアは二十四歳になっていた。
その間、いくつかの縁談があった。
すぐに断ったものもあれば、数度会ったあとで互いに合わないと判断した相手もいる。
父母は急かさなかった。
伯爵家の仕事を学ぶ時間が増えたセシリアは、慈善事業と文化支援の管理を任され、かつてアルフレッドと見るはずだった歌劇場の運営委員にも加わっていた。
その年の春、ひとりの子爵家嫡男との縁談が進んでいた。
エドガー・フェルナンド。
派手な男ではない。
王国法務院に勤め、契約紛争の調停を担当している。
二人が三度目に会った日、伯爵家の庭園を歩きながらエドガーが尋ねた。
「婚約前に、契約書をかなり細かく作ると伺いました」
「はい」
「私の家の法律顧問が驚いていました」
セシリアは少し笑った。
「嫌でしたか」
「逆です」
エドガーは足を止めた。
庭園の向こうでは、春の花が開いていた。
「何を守ればよいか分かるので、安心しました」
セシリアも足を止めた。
彼を見る。
「細かすぎるとは思われません?」
「細かく決めていない約束ほど、後で『そんなつもりではなかった』と言われますから」
セシリアは返事をせず、しばらく彼の顔を見ていた。
風が木々の葉を揺らした。
「私も」
やがて彼女は言った。
「そう思います」
その日の午後、二人は婚約契約の草案を一緒に読んだ。
どちらがどの社交行事へ出席するか。
家名の使用。
資産。
仕事。
互いの家族への責任。
婚姻後もセシリアが伯爵家の文化事業を続けること。
意見が違う条項もあった。
二人はその場で書き直した。
途中で茶が冷めても、急がなかった。
同じ頃。
ハーグレイヴ侯爵邸では、アーサーが新しい交易契約書を読んでいた。
隣では、後継者となった次男エドワードが待っている。
後継者として教育を受けてきたエドワードは、兄とは違う性格に育っていた。
慎重すぎるところがある。
アーサーは、それもいずれ本人が調整していけばよいと思っていた。
「父上」
「何だ」
「そこは先ほども読まれていました」
「そうか」
「はい」
アーサーは同じ条項にもう一度目を落とした。
「なら、三度目だな」
「担当官も確認済みです」
「分かっている」
エドワードが少し困った顔をする。
「そこまで細かく見なくてもよろしいのでは?」
アーサーの手が止まった。
五年前にも、似たような言葉を聞いたような気がした。
誰が言ったのかは思い出さなかった。
代わりにペンを置き、息子を見た。
「エドワード」
「はい」
「細かいことだから、当主が確認するんだ」
息子は黙った。
「大きな問題なら、誰でも気づく。領地が焼ければ報告が来る。金庫から金貨が消えれば会計係が騒ぐ。敵兵が国境へ来れば軍が動く」
アーサーは契約書に指を置いた。
「家を壊すのは、いつも大きな出来事とは限らん」
エドワードは父の手元を見た。
「一度くらい。今回だけ。相手も分かってくれる。そんな小さな言葉が積み重なることもある」
「はい」
「だから読む」
アーサーは再び契約書に目を落とした。
しばらくして最後の頁まで確認し、署名欄にペンを置く。
その日の夕刻、王都の歌劇場では新しい演目が初日を迎えていた。
二階中央のオルブライト伯爵家特別席には、セシリアと両親が座っている。
幕が上がる前、支配人が挨拶に訪れた。
「本日はありがとうございます、セシリア様」
「こちらこそ」
「久しぶりにご家族お揃いでございますね」
セシリアは隣に座る父と母を見た。
「ええ」
母が穏やかに微笑んだ。
支配人が退室すると、父が舞台に視線を向けたまま言った。
「昔も、この演目だったか」
「いいえ」
セシリアは答えた。
「あのときの作品は、もう上演されていません」
「そうか」
「ええ」
それだけの会話だった。
やがて劇場内の照明が落とされていく。
客席のざわめきが静まり、舞台幕に光が集まった。
セシリアは手元の演目表を閉じた。
五年前、この席を使われたことを知ったとき、自分から何かが奪われたように思った。
実際には、席そのものを失ったわけではなかった。
伯爵家も失われていない。
自分の人生も続いている。
失ったものの中には、取り戻せないものもある。
信用も、関係も、時間も、いったん壊れれば以前と同じ形には戻らない。
だからこそ、守る価値があるのだろう。
幕がゆっくりと上がった。
セシリアは舞台に目を向けた。
今夜、隣に誰を座らせるのか。
この席を誰のために使うのか。
誰と約束を結び、その約束をどう守るのか。
それを決める権利は、最初から彼女自身のものだった。
そして王都の反対側では、一人の侯爵が契約書に署名していた。
失われた信用を取り戻したとは、彼はまだ思っていない。
おそらく、完全に取り戻す日など来ないのだろう。
それでも構わなかった。
今日結んだ契約を、明日守る。
明日交わした約束を、その次の日も守る。
家というものが百年、二百年と続くのなら、当主一人にできることは、それほど大きくない。
だからこそ、自分の代で預かった信用を、自分の都合で使い潰してはならない。
アーサーは乾いた署名を確かめ、契約書を閉じた。
机の向こうで、後継者がそれを受け取る。
父から息子へ渡されたのは、一枚の書類だけではなかった。
言葉にする必要はなかった。
守るべきものは、そこに書かれていた。




