第六章 信用の値段
違約金は、期限通りに支払われた。
侯爵家の財政がそれによって傾くことはなかった。
アーサーは当初、少なくとも金銭的な処理だけは早く終えられたと考えた。
その考えが甘かったことを知ったのは、一か月ほど後である。
北部領で新しい製粉施設を建設するため、侯爵家は王都の大商会に資材を発注した。
長年取引のある商会だった。
これまでなら契約成立時に一割、納入後に残額を払う条件が当然のように認められていた。
今回は違った。
「前金を三割?」
アーサーは契約書を見た。
商会の代表は丁寧に頭を下げた。
「申し訳ございません」
「理由を聞いてもいいか」
「原材料価格が不安定でございますので」
それだけだった。
アーサーも、その場では追及しなかった。
しかし二週間後、別の商会でも同様の条件を提示された。
さらに銀行からは、領地開発の融資に際して保証人を追加するよう求められた。
共同事業を予定していた伯爵家の一つからは、契約締結前に侯爵家内部の決裁手続きを文書で提出してほしいという依頼が来た。
以前ならなかったことだった。
「これは」
執務室でアーサーが言うと、新しく調査責任者に任命した老家令が答えた。
「おそらく、例の件が影響しております」
「婚約破棄が?」
「婚約破棄ではございません」
家令は慎重に言葉を選んだ。
「契約違反の経緯が、でございます」
アーサーは黙った。
「伯爵家は、何も言い触らしてはいないようです」
「分かっている」
ロバート伯爵がそのようなことをする男ではないことは知っていた。
しかし、多くの人間が関わった。
劇場。
レストラン。
夜会。
侯爵家と伯爵家の法務担当。
婚約解消の届出を受理した王室の役人。
何も話さなくとも、社交界とは事実の輪郭だけで十分に噂を作る場所だった。
「侯爵家は契約を軽く扱う」
アーサーは机の上の契約書を見た。
「そう思われているということか」
家令は否定しなかった。
王宮でも変化があった。
外交使節団との交易協定を検討する委員会に、アーサーは長年参加していた。
会議そのものから外されたわけではない。
しかし、ある日の休憩中、同僚の公爵が冗談めかして言った。
「アーサー。今度の契約書には夫人の確認も要るのかね」
周囲にいた数人が笑いかけ、途中でやめた。
公爵自身も、すぐに表情を変えた。
「すまん」
「いや」
アーサーは答えた。
「当然の冗談だ」
その日の帰り道、馬車の中で彼は窓の外を見ていた。
王都の店々が流れていく。
長年、侯爵という地位は盤石なものだと思っていた。
もちろん領地経営を怠れば崩れる。
王命に逆らえば処罰される。
借金を重ねれば家は傾く。
だが、日々積み上げてきた信用そのものに値段があるとは、これほど明確には考えたことがなかった。
誰も取引を拒絶しない。
誰も侯爵家を敵視しない。
ただ、前金が一割から三割になる。
保証人が一人増える。
契約書が十頁から十五頁になる。
確認作業に一週間余計にかかる。
その一つひとつが、侯爵家が失った信用の価格だった。
金庫から直接金貨が消えていくわけではない。
しかし確実に、すべてが以前より高くつく。
その夜、アーサーは息子を呼んだ。
アルフレッドは調査期間中、社交を控えるよう命じられていた。
以前より少し痩せたように見えた。
「座れ」
「はい」
アーサーは一冊の契約書を息子の前に置いた。
「読め」
「これは?」
「オルブライト家との婚約契約だ」
アルフレッドの表情が硬くなる。
「もう終わった話では」
「読め」
息子は黙って頁を開いた。
しばらく紙をめくる音だけが続いた。
「読み終えたか」
「はい」
「お前が破った条項を説明しろ」
アルフレッドは困ったように父を見た。
「全部ですか」
「分かるものだけでいい」
長い沈黙のあと、息子は数か所を挙げた。
予定の不履行。
名義の無断使用。
馬車。
劇場。
説明自体は間違っていない。
「では」
アーサーは尋ねた。
「なぜ、それを破った」
「そのときは、契約違反だと思っていませんでした」
「なぜだ」
「リディアが困っていたからです」
アーサーは何も言わず、息子を見ていた。
「セシリアなら分かってくれると思いました。実際、以前は何度も――」
「何度も譲ったから、これからも譲ると思ったのか」
アルフレッドは口を閉じた。
「僕は」
しばらくして言った。
「セシリアを傷つけようとしたわけではありません」
アーサーは目を伏せた。
「まだ、そこなのか」
「え?」
「まだ、女の気持ちの話をしているのか」
アルフレッドの眉が寄った。
「違うのですか」
父は返事をせず、契約書を息子側へ押した。
「もう一度読め」
「父上」
「今度は、セシリア嬢の名前を忘れて読め」
息子は動かなかった。
「ここに書かれているのは、恋愛の約束ではない。侯爵家と伯爵家が、何を相手に保証するかだ」
アーサーは息子の目を見た。
「お前は将来、この家を継ぐ予定だった」
過去形を使ったことに、アルフレッドは気づいたようだった。
「領民との契約、商会との契約、他家との契約、王家との約束。相手を好きか嫌いかなど関係ない」
「父上」
「今日は帰れ」
「待ってください」
「帰れ」
アルフレッドはしばらく立ち上がらなかった。
やがて契約書を机に置き、椅子から離れた。
扉が閉まったあとも、アーサーは長く同じ場所に座っていた。




