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第五章 知らなかった当主

侯爵邸へ戻ったアーサーは、その日の夕食を取らなかった。


 妻にも息子にも声をかけず、執務室へ入ると家令を呼んだ。


「過去三年、オルブライト伯爵家から届いた書状をすべて持ってこい」


 家令は一瞬ためらった。


「すべてでございますか」


「すべてだ」


 半刻ほどして、机の上に書状が積まれた。


 伯爵本人から届いたものは少ない。


 だが家令名義、夫人付き秘書名義、セシリア本人からの丁寧な問い合わせなど、思っていた以上の量がある。


 その多くに、侯爵家側の返書も残っていた。


 アーサーは一通ずつ読んだ。


 アルフレッド様が先日の予定をご欠席された件について。


 共同慈善事業へのご出席について再確認したく。


 当家の馬車が予定外の用途に使用された件について。


 歌劇場特別席について確認をお願いしたく。


 返書には、妻の指示によって作成された文章が並んでいる。


 若い二人の行き違いでございます。


 事情は当方で確認いたします。


 アルフレッドには注意しておきます。


 リディアは侯爵家で保護している娘であり、悪意ある行為ではございません。


 大事にはなさらぬようお願い申し上げます。


 アーサーは一通読み終えるごとに、紙を机に置いた。


 夜が深くなった。


 蝋燭が何度か取り替えられた。


 家令は部屋の端に立ったまま、求められない限り何も話さなかった。


「なぜ」


 やがてアーサーが口を開いた。


「これを私に上げなかった」


 家令はすぐには答えなかった。


「奥様から、家政および社交に関する事柄は御前へ上げぬよう指示されておりました」


「私がそう命じたのか」


「閣下は以前、『屋敷内と社交については夫人に任せる』と」


 アーサーの手が止まった。


「それは……」


 言葉が続かなかった。


 確かに言った。


 何度も言っている。


 領地から上がる報告、王宮での政務、北部街道の修繕、租税制度の見直し。毎日処理しなければならない仕事は山ほどあり、妻が社交と家政を滞りなく取り仕切っていることを、むしろありがたいと思っていた。


 細かい話はエレノアに任せる。


 そう言ったのは自分だった。


「だが」


 アーサーは一通の書状を持ち上げた。


「これは他家からの正式な抗議だ」


「はい」


「それでも家政なのか」


 家令は答えなかった。


 その沈黙は、答えより明確だった。


 アーサーは椅子の背に深く体を預けた。


 天井を見上げる。


 しばらくしてから、机の上の侯爵家の印章に目を向けた。


「返書には、これを使ったのか」


「はい」


「私の許可なしに?」


「家政に関する書状については、奥様に使用権限がございました」


 それも自分が認めた。


 記憶がある。


「つまり」


 アーサーはゆっくりと言った。


「外から見れば、妻が返したのではない」


 家令が目を伏せた。


「侯爵家が返したことになります」


 長い沈黙が落ちた。


 窓の外はもう完全な闇だった。


 アーサーはその夜、妻を呼ばなかった。


 息子も呼ばなかった。


 翌朝、領地へ出す予定だった書類を副官に預け、王宮にも病欠ではなく「家務上の緊急事態」として休暇を申し出た。


 それから、侯爵家内部の調査を命じた。


 婚約に関することだけではない。


 家政、財務、印章、紹介状、推薦状、馬車、別邸、寄付、使用人の雇用。


 妻と息子に委ねていたすべてを対象とした。


 三日目に、妻が執務室へ来た。


「あなた」


 エレノアは扉を閉めてから、机の前まで歩いた。


「まるで犯罪者でも調べるような真似は、おやめください」


 アーサーは書類から顔を上げた。


「座れ」


「私は――」


「座ってくれ」


 妻は口を閉じ、椅子に座った。


 長年連れ添ってきた相手だった。


 政治的な結婚ではあったが、不仲だったわけではない。息子が生まれ、領地へ赴けば共に住民へ顔を見せ、王都では侯爵夫人として申し分なく振る舞ってきた。


 アーサーは机の上から一通の書状を取った。


「伯爵家から馬車について問い合わせが来たとき、なぜ私に報告しなかった」


「だから申し上げたでしょう。若い者の――」


「その言葉はもういい」


 声を荒らげたわけではなかった。


 それでもエレノアは言葉を止めた。


「なぜだ」


「大した問題ではないと思ったのです」


「誰が判断した」


「私です」


「何の権限で」


「私は侯爵夫人です」


 エレノアはそこで初めて強く言った。


「家のことをあなたが私に任せたのでしょう」


 アーサーは返事をしなかった。


 それは事実だった。


「では聞く」


 少しして彼は言った。


「伯爵家の馬車をリディアに使わせる権限まで、私がお前に与えたか」


 エレノアの表情が動いた。


「直接使わせたわけではありません。アルフレッドが――」


「伯爵家の特別席をリディアに使わせる権限は?」


「それもアルフレッドが」


「それを知ったあと、伯爵家に謝罪したか」


 妻は黙った。


「返還を申し出たか」


 答えはなかった。


「それとも、セシリア嬢に譲れと伝えたのか」


 エレノアの視線がわずかに下がった。


「リディアは、何も持っていない子です」


「だから?」


「セシリアさんは伯爵令嬢でしょう。劇場にも何度でも行ける。良い店にも行ける。舞踏会にも招かれる。リディアには、そんな機会はほとんどないのです」


 アーサーは妻を見ていた。


「それで?」


「少しくらい、分けてあげてもいいではありませんか」


 その言葉のあと、部屋は静かになった。


 アーサーはすぐには何も言わなかった。


 机に置かれた両手をゆっくり組み直した。


「エレノア」


「はい」


「情をかけるなら、自分のものを差し出せ」


 妻が顔を上げた。


「何を」


「お前の宝石でも、私の金でも、侯爵家の席でもいい。リディアを劇場へ連れていきたいなら、侯爵家が席を買えばいい。食事をさせたいなら、侯爵家が予約し、侯爵家が払えばいい」


 彼は一度息をついた。


「他人から預かったものを差し出すことを、慈悲とは言わん」


 エレノアは口を開いたまま、しばらく言葉を出せなかった。


 アーサーは視線を書類に戻した。


「今日はもういい」


「あなた」


「まだ調査は終わっていない」


 妻は動かなかった。


「私を疑っているのですか」


 アーサーは顔を上げなかった。


「自分を疑っている」


 それだけ答えた。


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