第四章 契約解除
両家の会談は、十日後に行われた。
場所はオルブライト伯爵邸の大会議室だった。
出席したのは、ロバート伯爵夫妻、セシリア、ハーグレイヴ侯爵夫妻、アルフレッド、双方の家令、そして法律顧問である。
通常の婚約解消であれば、ここまで人数を揃える必要はない。
しかし今回は両家の資産と名義の無断使用が含まれていた。
ハーグレイヴ侯爵アーサーは、会議が始まる前からほとんど口を開かなかった。
五十歳を少し超えた、背の高い男だった。王国財政を扱う委員会にも名を連ね、北部に広い領地を持つ大貴族として知られている。
その隣では、侯爵夫人エレノアが硬い表情で座っていた。
アルフレッドだけが、まだ事態の大きさを理解しきれていないように見えた。
ロバート伯爵が最初に書類を差し出した。
「本日は婚約契約の履行状況について確認したうえで、当家の決定をお伝えします」
侯爵が頷いた。
「伺おう」
そこから一時間近く、記録が読み上げられた。
夜会。
観劇。
レストラン。
馬車。
招待状。
式典。
共同事業。
アルフレッドは最初のうちは反論していた。
「それは予定が重なっただけです」
「劇場の件は、セシリアも別に構わないと思っていると」
「リディアは家族同然なのですから」
しかし、法律顧問が契約条項と照らし合わせるたびに、言葉は少なくなった。
侯爵夫人が途中で口を挟んだ。
「ですが、伯爵様。これは少し大げさではございませんか」
ロバート伯爵は彼女を見た。
「どの点がでしょう」
「若い二人の間には、いろいろございます。アルフレッドも悪気があったわけではありませんし、リディアも身寄りのない娘です。セシリアさんなら事情を理解してくださると――」
「夫人」
伯爵の声は穏やかだった。
そのため、夫人は言葉を止めた。
「これは若い男女の喧嘩ではありません」
机の上の契約書に手を置く。
「二つの貴族家が締結した契約の話です」
夫人の唇がわずかに動いた。
「しかし」
「悪意がなければ、他家の資産を自由に使ってよいという条文がございますか」
返事はなかった。
伯爵は法律顧問に目を向けた。
老紳士が一枚の書類を読み上げる。
婚約契約第七条、第十一条、第十四条、第二十三条。
履行義務。
名義利用。
第三者への便宜供与。
信用を損なう行為。
そして、重大な違反が反復された場合の契約解除規定。
「以上に基づき」
伯爵は言った。
「オルブライト伯爵家は、本日をもってセシリアとアルフレッド殿の婚約契約を解除します」
アルフレッドが椅子から身を乗り出した。
「待ってください」
それまで黙っていた侯爵が、息子に視線を向けた。
アルフレッドは一瞬父を見たが、すぐにセシリアへ向き直った。
「セシリア。僕とリディアの間には何もない」
「存じております」
答えが早かったため、アルフレッドは言葉を失った。
「私はその点を問題にしておりません」
「なら」
「あなたがリディア嬢を愛しているかどうかと、契約を守らなかったことは別の問題です」
セシリアは机の上の書類を見た。
「もしお二人が恋愛関係になく、妹のような関係だというのでしたら、その点について私は何も申し上げません」
「だったら、なぜ婚約を」
「契約を守らない方とは結婚できないからです」
部屋が静かになった。
侯爵夫人は息子とセシリアを交互に見た。
侯爵だけは、机の上の書類に目を落としていた。
伯爵家が請求したものは、契約に定められた違約金、婚姻準備に使われた費用の一部、無断使用された資産についての返還金、そしてセシリア個人への慰謝料だった。
金額は大きい。
しかし侯爵家が支払えない額ではない。
伯爵家側の法律顧問は、追加的な懲罰金を一切求めなかった。
「以上です」
説明を終えたあと、セシリアが言った。
「契約に定められたものだけ頂きます。それ以上は必要ございません」
侯爵はそこで初めて顔を上げた。
セシリアを見る。
何かを言いかけ、やめた。
代わりに息子に向き直った。
「アルフレッド」
「はい」
「お前は、この資料を事前に見たのか」
「いいえ」
「母上から、伯爵家から苦情が来ていると聞いたことは?」
アルフレッドは母を見た。
「……ありません」
侯爵の視線がゆっくりと夫人に移った。
夫人はわずかに顔を強張らせた。
「あなた。私はただ、若い者たちの問題ですから、私のところで――」
「伯爵家から、正式な書面が来ていたのか」
今度の問いは短かった。
夫人は答えなかった。
その沈黙を、侯爵は長く見ていた。
そしてロバート伯爵に向き直った。
「本日の件、承知した」
伯爵は何も答えず、軽く頭を下げた。
「請求についても、契約通り処理する」
「ありがとうございます」
「それから」
侯爵は一度言葉を止めた。
「今回のことは、改めて調べる」
伯爵は静かに答えた。
「それは侯爵家の問題です」
その言葉には、非難も助言もなかった。
ただ境界が引かれていた。




