第三章 契約書
三年間を遡る作業には、十二日かかった。
伯爵家の家令だけではなく、会計係、馬車の管理責任者、社交関係の書状を保管する秘書、そして家の法律顧問まで加わった。
セシリア自身も席についた。
最初に出てきたのは、劇場やレストランほど目立つ話ではなかった。
アルフレッドが、伯爵家から贈られた舞踏会の招待状にリディアを同行者として記載していた。
伯爵家の馬車を迎えに出した際、予定になかったリディアまで乗せて別の場所へ送った。
慈善事業の視察をセシリアと共に行う予定だった日に欠席し、代わりにリディアを買い物へ連れていった。
侯爵家と伯爵家が共同で出資した文化事業の式典にも、二度遅刻している。
一つひとつを見るなら、小さなことだった。
だからこそ、誰も大きな問題にしなかった。
セシリア自身が望まなかったという事情もある。
「アルフレッド様にも予定がありますから」
「リディア嬢には身寄りが少ないのですから」
「私が譲れば済むことです」
過去の自分が言った言葉が、記録の横に並んでいるように思えた。
法律顧問の老紳士は、書類を一枚ずつ確認していた。
「お嬢様」
「はい」
「こちらの馬車の件ですが、伯爵家は侯爵家に使用許可を出しましたか」
「いいえ。アルフレッド様を屋敷へお送りするためでした」
「では、侯爵家以外へ向かう許可は?」
「出しておりません」
「リディア嬢を乗せる許可も?」
「ありません」
老紳士は紙の端に短い記号を書いた。
セシリアはそれを見た。
「契約違反になるのですか」
「厳密には、なり得ます」
「馬車一台で?」
法律顧問は顔を上げた。
「馬車一台だからではございません」
穏やかな声だった。
「オルブライト伯爵家が、その人物の移動を保証したことになるからです。事故が起きれば誰が責任を負うのか。途中で何か問題を起こした場合、誰の名が使われるのか。貴族家の馬車は、単なる乗り物ではございません」
セシリアは黙って聞いていた。
「劇場の席も同じです。そこに座る者について、劇場側はオルブライト家が認めた人物であると考えます。レストランの予約も、招待状も、紹介状も同様です」
「信用を貸している」
父が言った。
法律顧問が頷いた。
「その通りでございます」
父は椅子の背にもたれず、机に両腕を置いていた。
「金なら返させれば済む。だが、名前はそうはいかない」
調査が進むにつれ、侯爵夫人エレノアの関与も見えてきた。
セシリアが一度、予定変更が多すぎると遠回しに伝えた際、侯爵夫人から返事が届いている。
若い者同士なのだから、あまり堅苦しく考えないでほしい。
リディアは身分が低く、経験できることも少ないのだから、少しくらい譲ってやってほしい。
いずれ同じ家の者になるのだから、姉として大らかな気持ちを持ってほしい。
当時のセシリアは、その手紙を読んで自分が狭量なのだと思った。
今、同じ文面を父と法律顧問の前で読み返すと、別の意味が浮かんだ。
「侯爵夫人は」
セシリアは手紙を机に置いた。
「私が何かを譲れば、それで済むと思っていたのですね」
父は答えなかった。
代わりに法律顧問が、契約書の一か所を開いた。
「婚約当事者の一方が所有、管理、あるいは利用権を有する資産について、他方は当然の使用権を得るものではない」
セシリアは読んだ。
「つまり」
「将来妻になるからといって、現在すでに伯爵家のものを自由に扱えるわけではない、という当然の規定でございます」
部屋が静かになった。
セシリアは少しだけ目を伏せた。
以前、アルフレッドが何気なく言った言葉を思い出していた。
どうせ君は俺の妻になるのだから。
だから、一度くらい構わないだろう。
あれは親しさの表現だと思っていた。
今では違って聞こえる。
調査結果がまとまった日の夕方、ロバート伯爵は娘を残して家令たちを退室させた。
机の上には違反事項をまとめた十数枚の書類がある。
「セシリア」
「はい」
「まだ、やめることはできる」
彼女は父を見た。
「何をでしょう」
「侯爵家と話し合って、今後改めさせる道もある」
セシリアはすぐには答えなかった。
窓の外では陽が傾き、庭園の木々が長い影を落としていた。
「お父様は、それが良いと思われますか」
「私の考えではなく、お前の婚約だ」
「では」
セシリアは両手を膝の上に重ねた。
「最後に一度、アルフレッド様とお話をさせてください」
父は頷いた。
「それでいい」
数日後、伯爵家の応接室へアルフレッドが来た。
彼はいつものように明るく振る舞おうとしていた。
「夜会のことは本当に悪かったよ。母にも少し注意された。今度――」
「アルフレッド様」
セシリアは遮らず、彼が言葉を切ったところで呼んだ。
「一つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「もし私が、あなたとの約束を取りやめて、男性の幼馴染を舞踏会へ連れていったら、どう思われますか」
アルフレッドの表情が止まった。
「何の話だ」
「仮の話です」
「そんなことをする必要がないだろう」
「もし、したら」
彼は少し眉を寄せた。
「婚約者がいるのに、他の男と夜会へ行くのは感心しない」
セシリアはしばらく彼を見ていた。
「では、私が侯爵家の馬車を勝手に使って、その男性を観劇へ連れていったら?」
「それは……侯爵家の馬車なら困る」
「侯爵家が予約した席を、その男性と使ったら?」
「セシリア、何を言いたいんだ」
アルフレッドの声に、初めて苛立ちが混じった。
セシリアはそれを聞きながら、視線を落とさなかった。
「同じことです」
「同じじゃない」
返事は早かった。
「リディアは妹みたいなものなんだ。君だって知っているだろう」
短い沈黙があった。
セシリアは、その返事を聞くために今日の時間を設けたのだと分かった。
「そうですか」
彼女は立ち上がった。
「分かりました」
「何が分かったんだ」
「十分です」
アルフレッドも立ち上がりかけたが、セシリアは呼び鈴に手を伸ばした。
「後日、両家で正式にお話をさせていただきます」
扉が開き、執事が入ってくる。
アルフレッドは何か言おうとした。
しかしセシリアは、もう椅子に座り直してはいなかった。




