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第二章 伯爵家の名前

王都には、王立劇場とは別に、貴族や富裕な商人たちが支援する古い歌劇場があった。


 オルブライト伯爵家は三代前からその後援者であり、二階中央には伯爵家専用の特別席が設けられている。


 セシリアは数か月前、その席でアルフレッドと新作歌劇を見る約束をしていた。


 夜会の件があったあとも、その予定は変更されていなかった。


 むしろアルフレッドからは、翌日に簡単な謝罪の手紙が届いている。


 リディアが困っていたので放っておけなかった。君なら事情を理解してくれると思った。夜会の埋め合わせは必ずする。


 便箋を読み終えたセシリアは、返事を書かなかった。


 その三日後、劇場から伯爵家へ礼状が届いた。


 家令が父の書斎へ持ってきたその手紙には、前夜に特別席を利用したことへの礼が記されていた。


 セシリアは利用していない。


 父も母も行っていない。


 確認すると、アルフレッドとリディアが入場していた。


 アルフレッドは、自分が婚約者であることを説明し、オルブライト伯爵家の特別席を使用した。


 劇場側は拒まなかった。


 拒めるはずもない。


 侯爵家の嫡男であり、伯爵令嬢の婚約者である青年が、伯爵家名義で予約された席へ女性を伴って現れたのである。劇場側から見れば、伯爵家の了解を得ていると考えるのが自然だった。


 さらに数日後、別のことも判明した。


 婚約成立三周年を祝う食事のため、伯爵家が予約していたレストランの個室へも、アルフレッドはリディアを連れていっていた。


 代金は伯爵家に請求されている。


「支払いを拒否しますか」


 家令が尋ねた。


 父の書斎には、セシリアとロバート伯爵、それに長年オルブライト家へ仕える家令の三人だけがいた。


「いや」


 伯爵は答えた。


「払う」


 家令はわずかに眉を動かしたが、何も言わなかった。


 セシリアは父を見た。


「理由を伺っても?」


「店に落ち度がないからだ。伯爵家名義の予約で侯爵家の嫡男が現れた。店側が信用したことを責めるわけにはいかない」


 そう言ってから、伯爵は机の上の請求書に指を置いた。


「だから支払ったうえで、侯爵家へ正式に返還を求める」


 セシリアはその紙を見つめた。


 金額そのものは、伯爵家にとって大きな負担ではない。


 問題はそこではないことを、もう彼女にも理解できていた。


「私たちが、リディア嬢を招待したように見えますね」


 家令が静かに頷いた。


「左様でございます。劇場においても同様でございます。先方の記録上、リディア嬢はオルブライト伯爵家の賓客として扱われました」


 セシリアはしばらく口を閉ざした。


 夜会をすっぽかされたときには、自分が軽んじられたのだと思った。


 劇場の特別席を使われたと知ったときには、さらに腹立たしい行為だと思った。


 しかし、違った。


「これは……」


 彼女はゆっくりと言葉を選んだ。


「私とアルフレッド様が喧嘩をしている、という話ではありませんね」


「ああ」


 父は答えた。


「もう、その段階ではない」


 机の上には、一冊の革表紙の書類が置かれていた。


 昨日セシリアが求めた、婚約契約書だった。


 父がそれを娘の前に押し出す。


「読んでみなさい」


 セシリアは両手で受け取り、最初の頁を開いた。


 十六歳の頃にも説明を受けていたはずだった。


 だが当時の彼女にとって、婚約とはいずれ結婚するという約束であり、それ以上ではなかった。


 紙面には違うものが書かれていた。


 両家の責任。


 費用。


 社交上の義務。


 名前と紋章の使用。


 贈答品の管理。


 婚姻準備。


 解消条件。


 違約時の責任。


 何枚も頁をめくっていくうちに、セシリアの指が止まった。


「この条項は」


 父は内容を見る前に答えた。


「他家の名義、資産、特権を、書面による同意なしに第三者に供与してはならない」


 セシリアは劇場から届いた礼状に目を向けた。


「特別席も?」


「当然入る」


「レストランの予約も?」


「店が伯爵家の信用を前提として席を提供したのならな」


 窓から午後の光が差していた。


 書斎の時計が時刻を刻んでいたが、誰もすぐには次の言葉を口にしなかった。


 やがてセシリアが契約書を閉じた。


「調べてください」


 父が娘を見る。


「何をだ」


「これまで三年間、私が『仕方がない』と思って済ませてきたことを、全部です」


 セシリアは背筋を伸ばした。


「それが本当に、私だけが我慢すれば済むことだったのかどうか」


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