第9話 重なるところから
野崎灯から届いた最初の練習案内は、予想していたより事務的だった。
『日曜の屋外合わせ、見学していいそうです。十五時半開始。楠坂集会所の裏の広場、商店街側の木の下が見学場所。雨なら室内になるので見学なし。音は録らないでください』
八月の終わり、日曜日の朝。澄は自分の部屋で、レコーダーの音声ファイルに名前をつけているところだった。先月録った川の音はまだ数字のままで、聞き返すと、自転車が橋の継ぎ目を渡る二度の音のあいだに水の響きが入っている。あのとき菜々が橋の下で赤い反射を見つけたことまで思い出して、ファイル名を入力する指が止まっていた。
そこへ届いた灯の文章は、日時も場所も条件も揃っていた。迷って聞き返すところが、ほとんどない。
『ありがとう。行きたいです。十五時二十分くらいに着けば大丈夫かな』
送ると、少しして返信が来た。
『大丈夫。早すぎると椅子を運んでもらうことになるけど』
『それなら運ぶよ』
『本当に助かる。今日も足りないって言ってたから』
澄は画面を見て笑った。冗談で言ったのかどうか、途中からわからなくなった。最後に『水、持ってきて。日陰でも暑いから』と届いたので、飲み物だけは忘れないよう、机の端に水筒を置いた。
見学に行ける。
その言葉を改めて考えると、胸が落ち着かなくなった。六月に集会所で聞いた、音になりきらない篠笛。教室で灯が銀色のクリップを鳴らしながら、間隔を揃えようとしていたこと。合同練習で周りの息を見て入る、と話してくれたこと。
これまでは、ほとんど言葉か、途切れた音でしか知らなかった。
今日は、ほかの人と一緒に吹くところを聞ける。
澄は川のファイルに「橋の下・自転車と水」と名前をつけて保存した。それから、レコーダーの電源を切って鞄にしまう。今日も持っていくのは、いつもの癖だった。けれど、取り出して録音するつもりはない。楽器の音を聞くために、ちゃんと自分の耳を空けておきたかった。
*
午後の楠坂商店街は、真夏より少しだけ影が長くなっていた。
八百屋の店先には梨が並び、カレー屋の窓には「夏野菜、今週まで」と書いた紙が貼られている。古い写真館の前を通ると、新しい小ぶりの看板が入口の脇に取りつけられていた。以前のように二階から突き出すものではない。澄は一度だけそのあたりを見上げて、それから先へ歩いた。
集会所の裏へ回る細い道では、竹を運んでいる人とすれ違った。祭りの飾りに使うのか、長い竿の先に赤い紐が結んである。その人が「通れる?」と聞いたので、澄は塀に寄って道を空けた。
広場の入口には、白い紙が紐で下がっていた。
『秋祭り 屋外合わせ 見学は木陰側から』
紙の下には、手描きの矢印もある。澄はそれに従って進みかけ、途中で立ち止まった。
広場にはまだ音楽が流れていなかった。集会所の壁際に太鼓が一つ置かれ、その前には数本の色テープが地面に貼られている。木陰には折り畳み椅子が三脚。商店街側の低い柵の向こうでは、通りかかった親子が何をしているのか覗いていた。
中央で灯が椅子を二脚持っていた。
学校では見慣れた低いひとつ結びが、今日も首の近くで揺れている。薄い灰色のTシャツに紺色のパンツ。腕時計のある左手で椅子の背を押さえ、反対の手で脚を畳んでいた。
「野崎さん」
呼ぶと、灯は椅子を持ったまま身体ごと振り返った。
「雨宮さん。ちょうどよかった」
「こんにちは。……椅子?」
「うん。あと二脚、あっちからこっちに」
早すぎると運んでもらう、と言っていたのに。澄が笑うと、灯は真顔で付け足した。
「早くなくても足りなかった」
「そうなんだ。じゃあ、運ぶね」
「見学用は木の下。練習してる人の動く場所には置かないで」
「うん」
二人で椅子を運んでいると、集会所の管理をしている女性が帳面を片手に出てきた。六月に灯の部屋の鍵を預かっていた人だ。今日は祭りの準備も兼ねているらしく、首から鉛筆を下げ、腕には細い布の腕章を巻いている。
「あら、雨宮さん。また手伝いに来てくれたの?」
「今日は見学で……椅子だけ、少し」
「見学の人にも働いてもらってる。ごめんねえ。終わったら片づけはこっちでやるから、座って聞いてて」
女性はそう言って、色テープの位置を靴の先で確かめた。
「今日は本番の場所を想定して並ぶの。九月の配線で、この辺りに提灯が来るから。太鼓を置けるのはこの四角の中だけ。通り道は空けないといけないし、狭いもんだね」
机の上だけで見ていた配置図が、広場の地面に移ってきていた。澄がテープの端を見ると、黄色の線が集会所の入口から商店街側へ伸びている。
「ここは通る人の道なんですね」
「そう。灯ちゃんが番号の重なりを見つけてくれたところも、だいたいこの先。提灯を下げるのは来月だから、今日は演奏の位置だけ先に決めるよ」
灯は小さく頷いたが、もう腕時計を見ていた。
「すみません。私、笛、出してきます」
「はいはい。暑くなるから、水飲んでね」
灯は澄を振り返った。
「雨宮さんは、その椅子で。始まったらこっちには来られないから」
「うん。ちゃんとここで聞く」
「……そこまで姿勢よくしなくてもいいけど」
澄が思わず背筋を伸ばしていたらしい。灯は口元だけで少し笑い、集会所へ入っていった。
澄は木陰の端の椅子に腰掛けた。背もたれが熱を持っていて、身体を少し浮かせてから座り直す。風が葉を揺らすたび、頭上で蝉の声が大きくなったり小さくなったりした。
やがて、練習する人たちが広場へ出てきた。
細長い袋から笛を取り出す女性が二人。片方は灯よりずっと年上で、白い髪を短く束ねている。もう一人は仕事帰りのような襟付きのシャツ姿で、譜面を小さく折り畳んで持っていた。太鼓の前には、日焼けした腕の女性が立つ。全員が同じ服でも、同じ年齢でもない。
灯は年上の女性の隣に並んだ。薄茶色の篠笛を両手で持ち、足元の黄色いテープを確かめてから、少し後ろへ下がる。
太鼓の女性が、ばちを片方だけ軽く持ち上げた。
「じゃあ、まず去年の速さで一回。最後まで行ったら、灯ちゃんの入るところをやろう」
年上の女性が頷く。
「野崎さん、最初は聞いてて。二周目の頭で私が合図するから」
「はい」
笛が横に構えられた。
澄は手を膝の上に置いた。鞄の中でレコーダーが硬い形をしているのを感じたが、取り出さなかった。
まず太鼓が鳴った。
どん、と低い音が広場の石の上を転がるように広がり、そのすぐあとに笛が二本、少し違う高さから入り込んだ。一本はよく通る細い音で、もう一本はその下に寄り添うように響く。重なったところでは境目がわからなくなり、少しずれると、それぞれが別の場所から鳴っているのがわかった。
六月の集会所で聞いた息の音とは、まるで違った。
店のシャッターの音や雨樋の音は、その場にいれば勝手に耳へ入ってくる。今の音は、誰かが息を吸い、誰かがばちを下ろし、別々の身体が同じところへ向けて動かしている。しかも、同じ音をずっと鳴らしているわけではない。笛が細く伸びると太鼓が短く応え、太鼓が続くと笛が少し空く。
澄は曲の途中で、灯の手元を見た。
灯はまだ吹いていない。笛を構えず、隣の女性の肩と指先を見ている。そのまま小さく息を吸ったところで、年上の女性が顎を動かした。
二度目の節が始まった。
灯が笛を横に上げる。
最初の音は出なかった。澄のいる場所からでも、唇に当てた竹と、出てこなかった音との間がわかった。
次の音で、細い笛の響きが一本増えた。
弱くて、途中で少し揺れた。けれど、太鼓がそのまま進み、ほかの二本も止まらない。灯は一瞬だけ唇を離し、次のまとまりでまた吹いた。今度は短い音が続いた。
澄はいつの間にか、椅子の前のほうに座っていた。
あの音が灯のものだとわかるのは、灯を見ているからだった。目を閉じてしまえば、三本が重なるときには区別できないだろう。それが不思議で、もう一度聞いてみたかった。
曲の終わりに、太鼓が二つ続けて鳴った。
誰かが拍手をした。澄より奥に座っていた年配の女性だ。見学の席はいつの間にか少し埋まっていて、柵の外の親子もまだ足を止めていた。澄も手を叩いたが、出演者たちはすぐ次の話を始めたので、拍手は短く終わった。
「二回目、野崎さんの入りが少し早くなったね」と年上の女性が言った。
「最初は出ませんでした。次は出たけど、息が足りなくて」
「鳴らなかったところで慌てて最初からやり直さなかったのはいいよ。そのまま曲が進むからね」
灯は頷いた。唇を結んで、持っている笛の指穴を確かめている。
「私は、二度目の太鼓を聞いてから吹こうとしたんです。でも、それだと遅いですよね」
「聞こえたときにはもう叩いてるからね。私が構えるのを見て、それより先に吸ってみよう」
太鼓の女性がばちを膝に置き、額の汗を手の甲で拭った。
「ずっと吹く人に合わせてたら、太鼓だけ置いていかれちゃうよ。こっちも待てないから、始まる場所だけ揃えよう。途中は私の音、ちょっと頼って」
「はい。……頼ります」
「そこはもっと元気よく頼っていいよ」
周りが笑った。灯も口元を緩めたが、次の瞬間には地面のテープを見下ろしていた。
練習はそこで小休止になった。太鼓を叩いていた女性は水筒を飲みながら、夕方には商店街の店へ戻らないといけないと話している。笛の年上の女性は、譜面に鉛筆で何かを書き込み、もう一人へ見せていた。秋祭りの音は、ここに集まった人たちの空いた時間で少しずつ作られているらしかった。
澄は椅子から立ち上がって、伸びをした。思った以上に集中して聞いていて、肩が凝っている。
そこで、ひとつ試してみたくなった。
木陰の椅子は太鼓の正面にある。さっきから笛はよく聞こえるけれど、商店街に近い柵の端へ行けば、音の重なり方が変わるのではないだろうか。
管理の女性に尋ねると、黄色いテープで仕切った通路に入らなければ、柵の端まで移ってもいいという。
「ただし、そこで立ち止まると買い物の人が通れないから、内側に寄ってね」
「はい。ありがとうございます」
澄は椅子をそのままにして、許された場所まで歩いた。地面の白い石に陽が残り、木陰から出た靴の先が急に明るくなる。
笛を拭いていた灯がこちらに気づいた。
「雨宮さん、帰る?」
「ううん。ちょっと、違うところから聞いてみたくて」
「なんで?」
「さっきと違うふうに聞こえるかなって。太鼓から離れるし、壁も近いから」
灯は柵と太鼓を見比べた。
「……へえ。そういうの、見学でもやるんだ」
「好きなことだから」
「そっか。じゃあ、次のはそっちで聞いてて」
灯はそれ以上聞かず、年上の女性のところへ戻った。
澄は柵の内側に身体を寄せて立った。通りの向こうの菓子店から、紙袋を抱えた人が出てくる。買い物帰りらしい二人組が立ち止まり、「今年もやるんだね」と言いながら広場を覗いた。駅へ向かう自転車のベルが遠くで鳴り、そのあと風が葉を揺らした。
練習が再開された。
太鼓の前に立つ女性が、まずゆっくりと四つ数える。今度は灯も笛を構えている。ただし最初の節では吹かない。隣の女性の指と肩を見る目だけが動き、唇は笛に触れそうなところで止まっていた。
二度目の節が始まるより少し前、三人の肩がほとんど一緒に持ち上がった。
灯の音が、今度は最初から鳴った。
澄のいる柵の端では、太鼓より笛のほうが前へ出て聞こえた。とくに細く高い音は、ほかの二本の間をすっと抜けてくる。どの音が灯のものなのかは相変わらずわからなかったが、三人が一緒に息を吸った直後、鳴るまでのほんの短い空白だけは見えるような気がした。
続く節で、灯の音が一度途切れた。
澄は目で追った。灯は笛を少し下げ、指を戻した。隣の人を見る。太鼓が一つ鳴ると、また笛を構えて音の列へ入った。
前の自分の音を追いかけてはいない。
曲は進んでいる。その進んだ先へ、灯が自分で戻ってきた。
今度の終わりは、三本の笛が細く伸びるところに、太鼓の低い二打が重なった。音が消えると、柵の向こうから「おお」と小さな声がした。澄もつられて息を吐いた。
今のが好きだった。
最初に鳴らなかったところも含めて、さっきとは違う曲に聞こえた。
*
「それなら、秋の点灯のときは二周目から三本にしようか」
最後の確認に入る前、管理の女性が配置図を持って広場の中央へ来た。柵の端にいた澄には、女性の声がところどころしか届かなかったが、笛の人たちが少し寄って輪を作ったので、何かを決めていることはわかった。
澄は勝手に近づかず、柵の端から見ていた。
やがて女性が見学席へ向き直った。
「ごめんね、あと十分くらいかかるよ。もう少し聞いてって」
澄が頷くと、女性はまた輪に戻った。
「去年は最初から二本だったけど、今年はこの並びでいいと思う。ただ、狭いから三人目は端になるね。野崎さん、そこから隣の人の構えが見える?」
灯が指定されたテープの上へ移る。年上の女性は一歩前へ、もう一人は太鼓に近いほうへずれた。
「……隣は見えます。でも、こっちからだと太鼓が半分隠れます」
「音は聞こえるでしょ」と太鼓の女性。
「聞こえます。でも、入りは構えを見たいです」
灯ははっきり言った。言い終えてから、隣の女性の位置を指で示す。
「ここなら見えるので、私が少し後ろでもいいですか」
「後ろに下がりすぎると通り道だよ」
「じゃあ、半歩だけ」
女性が地面の線を見て頷いた。灯は足の位置を変え、もう一度隣の人を見た。
「それなら大丈夫です」
澄は、学校で掃除当番を決めたときの灯を思い出した。できる人、ではなく、誰がいつできるかを聞いた声。今日も同じように、できる条件を自分で確かめている。
でも今は、その条件がわからなくて困っているのも灯自身だった。
「じゃあ、秋の点灯の一曲、この三人で準備してみよう」と管理の女性が言った。「野崎さんは二周目から。九月の全体合わせでも同じ場所から入れたら、その形で本番にしよう。無理なら前の二人で通せるようにしておくから、変に抱え込まなくていいよ」
灯は譜面を見た。少しの間、黙っている。
「出たいです」
声は木陰にまで届いた。
「二周目からでいいです。でも、最後の音まで吹きたいです。今日、途中で抜けたところもあるから、そこを次までに直します」
太鼓の女性がばちを持ち上げ、灯の前へ軽く差し出した。
「最後まで、ね。じゃあ、途中でずれても私の音を聞いて戻ってきて。そこは止まらないから」
「はい」
「いい返事。じゃあ、その位置で一回だけ。私も店に戻らないと」
最後の通しは、短かった。
灯は最初の節を吹かず、二度目から入った。真ん中で一音がひっくり返り、本人が小さく眉を寄せるのが見えた。けれど立ち位置は変えず、次の太鼓の音で笛を持ち直す。
終わりの長い音は、三本とも途中で大きく揺れなかった。
澄は柵の端から拍手をした。木陰でも何人かが手を叩き、広場に小さな音が重なった。笛の人たちは顔を見合わせ、太鼓の女性が「今日はここまで」と言った。
秋の本番が決まったわけではない。
それでも、灯がどこに立って、どこから音を出すつもりなのかは、もう地面に線が引かれていた。
練習を終えた人たちが、道具を片づけ始めた。太鼓の女性は手早くばちを布袋に入れ、「店の冷蔵庫、ちゃんと閉めてきたかな」と独り言を言いながら集会所の中へ運んでいく。年上の笛の女性は譜面を灯に見せ、指で二箇所を示した。
澄は柵の端を離れ、椅子のある木陰へ戻った。管理の女性が黄色いテープを一枚ずつ剥がしている。靴の下に残った四角い跡が、夕方の光で少し白く見えた。
「雨宮さん」
笛を布で拭き終えた灯が、広場を横切ってきた。黒い髪を結んだところが緩み、首筋の短い毛が汗で貼りついている。片手には譜面、もう片方には細長い布袋を持っていた。
「最後まで見てた?」
「うん。途中、柵のほうで聞いてた。あっちだと太鼓が少し遠くて、笛がよく聞こえたよ」
「じゃあ聞いていい?」
「何?」
「二回目、私の音ってわかった?」
澄はすぐに頷けなかった。灯は返事を待っている。こんなとき、適当に褒めたらきっと自分でもわかる。
「見てたから、ここから野崎さんが入ったんだっていうのはわかった。でも、途中は三本が重なってて、どれが野崎さんかまでは……」
「わかんなかった?」
「うん。特に最後。あれ、私、すごく好きだった」
灯はしばらく澄を見ていた。それから譜面の端を指で弾いた。
「私は自分の音しか気にならなかった。ずっと、変な音になったらどうしようって」
「そうなんだ」
「最後は、途中よりちゃんと吹けたと思う。でも、外で聞くと三本まとめて聞こえるんだね」
「うん。笛だけじゃなくて太鼓も一緒になるから、途中でちょっと違う音がしても、次に戻ってきたときのほうが大きく聞こえる」
言いながら、澄は少し手を動かした。何かの幅を示そうとして、両手が中途半端なところで止まる。
「……ごめん、説明が変だね」
「いや。たぶん、わかる」
灯は譜面を見下ろし、二周目の始まりを指で押さえた。
「私はここから入る。今日、決めた」
「うん。聞こえたよ」
「九月の合わせでちゃんとできたら、秋もその位置。だから、最初からずっと吹いてなくてもいいんだって」
灯は少し笑った。
「六月は、一音でも出れば勝ちだと思ってたんだけどね」
「……今は?」
「一音だけ出ても、隣の人は先に行っちゃうから」
澄も笑った。灯はそれから、指で示していた場所の横に小さく印をつけた。譜面の端には鉛筆の線がいくつも増えている。
「最後までやりたいって、言ってよかった」
その言葉は澄への感想というより、手元を見ながら確かめるような声だった。澄は頷くだけにした。
集会所のほうで、椅子を畳む音が続けて鳴った。ばたん、がしゃ、と二脚分。管理の女性が振り返る。
「あれ、見学の椅子、まだこっちにあった。ごめん、手が足りないね」
澄が椅子を持ち上げると、灯がすぐ隣の一脚を畳んだ。
「雨宮さん、もう帰っていいんだよ。見学で来たんでしょ」
「うん。でも、これ運んだら終わるから」
「じゃあ、私はそっちの二脚。雨宮さんは一脚で」
「一脚でいいの?」
「私、今日、吹くほうでも働いたから」
「それなら、私が二脚じゃない?」
灯は少し考える顔をした。
「……じゃあ、一脚ずつにしよう。重いのを変に持って、落とすのも嫌だし」
「そうだね。それがいいかも」
二人で椅子を集会所の軒下へ運ぶ。先ほどまで篠笛の高い音が飛んでいた広場に、今は椅子の金具の音と、荷物を片づける人たちの声がしていた。
澄が最後の椅子を壁に寄せると、スマホが鞄の中で震えた。菜々から写真が一枚来ている。橋の下の赤い反射を描こうとして、紙に引いた線が思ったより太くなったらしい。
『赤が元気すぎる。水面じゃなくて祭りの旗になりそう』
澄は写真を見て、思わず笑った。色が乾いたらどうなるか見てみたい、と返事を打ちかけ、いったん画面を閉じる。
灯は譜面を布袋と一緒に鞄へ入れていた。今日は一度も澄のほうから笛の話を急かさなかったし、灯も見てほしいところを自分で決めていた。澄は、聞きに来た客として最後にひとつだけ尋ねた。
「野崎さん。秋の点灯のとき、私も聞きに来ていい?」
灯は鞄の口を閉じてから、こちらを向いた。
「お祭りなんだから、来ればいいよ」
「そっか。そうだよね」
「でも、もし私が出るって決まったら、ちゃんと知らせる。見に来てほしいから」
澄は少し驚き、それから頷いた。
「うん。楽しみにしてる」
「まだ九月の合わせがあるけどね」
「そこは、うん。わかってる」
灯は片方の眉を上げた。
「今の『楽しみ』は、言ってもいいやつだよ。私が見に来てほしいって言ったんだから」
「……そうなんだ」
「そう。そこは間違えないで」
灯が笑ったので、澄もつられて笑った。
広場の向こうで、最後の色テープが剥がされた。夕方の風が集会所の窓を小さく鳴らし、そのあとを商店街の買い物客の声が通り過ぎていく。
音を出す人たちが帰れば、ここもいつもの場所に戻る。澄は少し前まで笛が三本並んでいたあたりを見た。何も置かれていない地面の上に、二周目から入る灯の立ち位置を、まだはっきり思い出せた。
「雨宮さん、椅子、そこに置いたら入口ふさがる」
「あっ。ごめん」
「もう一歩、壁側」
「うん。……ここ?」
「そう。そこなら大丈夫」
澄が椅子を寄せ直すと、金具がかちんと小さく鳴った。灯は満足そうに頷き、自分の笛の入った鞄を持ち上げた。




