第10話 一曲ぶんの場所
「六十三、ここで合ってます?」
澄が指さした柱のそばには、白い養生テープで小さな四角が作ってあった。提灯の配置番号と配線位置を確かめるための印だ。集会所の管理をしている女性は、首から下げた鉛筆をつかみ、折り畳み式の台帳をめくった。
「そこは六十二。六十三は、ほら、こっち側の植え込みの前」
「でも、こっちの紙には六十三って」
「あら、本当だ。去年の図面を見ながら貼ったね、これ」
女性は澄が持っている紙と足元を見比べ、しばらく考えてから、テープを貼り直す人を呼んだ。
「ごめん、六十三はこっち。通路を挟んで向かいに置くと、配線の人が困るからね」
「前にも、その番号が二つあったんですよね」と澄が言うと、女性は笑った。
「そうそう。灯ちゃんが見つけてくれたやつ。直したつもりが、古い紙がまだ一枚生き残ってた。祭りの準備って、去年の亡霊があちこちにいるのよ」
九月の半ば、土曜日。楠坂集会所の裏の広場には、午後の早いうちから人が集まっていた。
提灯の配線を確かめる人、露店用の机を運ぶ人、子ども会の飾りを紐に通す人。普段はボールの跳ねる音がする場所に、今日は段ボールを開ける音と大人たちの相談が重なっている。日差しはまだ強いけれど、八月のように地面から熱が戻ってこない。集会所の壁には、来月の秋祭りを知らせる紙が貼られていた。
澄は本来、笛の全体合わせを聞きに来た。
ただ、開始まで少し時間があり、前に札を仕分けたときの管理の女性と目が合ったら、気づけば図面を一枚渡されていた。頼まれたのは、印が通路へはみ出していないかを確かめることだけ。提灯の配置や配線を決めるのは、澄の仕事ではない。
女性は台帳の端に修正を書き込んでから、澄へ紙を返した。
「助かった。雨宮さん、これでおしまい。練習を聞きに来たんでしょ」
「はい。あの、ほかに間違ってそうな番号があったら」
「それはこっちで見る。雨宮さんが全部引き受けなくていいよ」
最後の言い方がおかしくて、澄は少し笑った。女性は冗談めかして肩をすくめたが、すぐ別の人に呼ばれ、台帳を抱えて向こうへ歩いていった。
澄は図面を返して、鞄の持ち手を直した。中には黒い小型のICレコーダーが入っている。今日も出番はない。録音をしない約束は、八月の屋外練習と同じだ。
広場の奥では、野崎灯が薄い青のシャツの袖を折っていた。黒髪は耳の下でひとつに結び、首筋に短い毛が少し跳ねている。左腕の時計を見たあと、地面に貼られた細いテープを足の先で確かめた。
灯の右には、白い髪を短く束ねた年上の女性。左には襟付きシャツの女性がいる。笛はまだ袋の中で、三人とも演奏者というより場所を測る人に見えた。
「野崎さん」
澄が柵の内側から呼ぶと、灯は身体ごとこちらを向いた。
「雨宮さん。そこ、また数字を数えてるの?」
「うん。ちょっとだけ。六十三が、また違うところにあって」
「また?」
「古い図面が残ってたんだって」
灯は顔をしかめ、すぐに吹き出すのをこらえるように口元を押さえた。
「六十三、しつこいね」
「私も、さすがに覚えたよ」
「じゃあ当日も頼もうかな。六十三番の係」
「そんな係あるの?」
「今作った」
澄が笑うと、灯も少しだけ笑った。八月の練習のあと、スマホで交わしたやり取りは、当日の集合時刻と場所について二往復だけだった。灯は「見に来てほしい」と言ってくれたけれど、だからといって学校で急に一緒に行動するようになったわけではない。九月に入ってからも、教室では授業の話をしたり、購買のパンが早く売り切れると聞いて灯が腕時計を確かめたり、その程度だった。
澄は今日、灯が本番に出られるかどうかを決める練習だと知っている。だから、どんな顔で来ればいいか少し考えていた。
けれど、六十三番の話をしていたら、用意していた言葉はどこかへ行ってしまった。
「私、どこで聞くのがいいかな。前は柵の端にいたけど」
「好きなところでいいよ。ただ、今日は屋台の位置も見るから、客席は向こうの白い線の内側」
灯が指した先には、折り畳み椅子が六脚並んでいた。いつもの木陰ではなく、広場をほぼ正面から見る位置だ。白い線と演奏者の立つ場所のあいだは空けられ、その横が商店街へ抜ける通路になっている。
「雨宮さんなら、どこで聞く?」と灯が尋ねた。
「……今日は真ん中がいいかな。笛も太鼓も、ちゃんと一緒に聞きたいから」
「じゃあ、真ん中。私がいる側じゃなくていいの?」
「うん。野崎さんだけ聞きたいわけじゃないし」
灯が眉を上げた。
「それは、知ってる」
「……言い方が変だった?」
「いや。ちょうどいい」
灯は自分の立ち位置へ戻りかけて、ひとつ思い出したように振り返った。
「今日、最後のところまで吹くから」
「うん。聞いてる」
「途中、私の音がわからなくてもいいよ」
「それも、前に聞いたから大丈夫」
「じゃ、始める前に水飲んでくる」
灯は集会所の入口へ早足で向かった。澄も客席の真ん中へ移り、背もたれのない椅子に腰掛けた。足元には細い影が一本、舞台代わりの広場から伸びている。
*
今日の全体合わせは、笛だけの練習ではなかった。
最初に管理の女性が広場の端へ人を集め、手にした配置図を開いた。提灯に電気を通す作業は来週だが、点灯時に通路を塞がないか、演奏が屋台の呼び込みと重なっても進められるか、今日はそこも確認するらしい。
「本番で止められないのは音楽だけじゃないからね。お客さんが通る道も、屋台の人が動く道もある。去年は子ども会の荷物を置く場所がなくなったでしょ」
「私らが机を一つ多く出したからねえ」と、屋台の準備をしていた女性が言った。「今年は図面のとおりにするよ。たぶん」
「その『たぶん』が怖いんだけど」
周りで笑いが起きた。澄もつられて笑ったが、すぐに白い線の先を見た。
笛の三人が横に並ぶ場所と太鼓の位置が、前の練習より狭く感じる。演奏者の後ろには紙で作った提灯の形が何枚か吊られ、その高さを確認するための棒も立っていた。細い布の目印を付けた仮のものだが、本番ではその向こうに灯りが並ぶ。
太鼓の女性がばちを手にした。仕事帰りなのか、膝の辺りに紺色の前掛けを巻いている。
「最初の一周は二本。二周目から三本。今度は途中で私が速さを変えないようにするけど、呼び込みの声が出ても続けるよ」
「よろしくお願いします」と灯が言う。
「そんなかしこまらなくてもいいって。私が先に間違えたら、そのときは笑って」
「終わってからなら」
「厳しいねえ」
白髪の女性が笛を持ち上げると、灯も息を吸った。ただし、最初の節では構えない。二人が吹き始めた音を、灯は少し後ろの位置で聞いている。
太鼓が入った。低い音が椅子の脚を通して、澄の足の裏まで届く。二本の篠笛が高く伸び、片方の音がふっと短くなると、もう片方がその間を埋めた。
前に聞いた曲だ。
けれど今日は、音だけが広場にあるのではない。紙提灯を結び直す人の声や、折り畳み机を運ぶ足音が、少し離れたところで続いている。実際の祭りの日は、これよりずっと賑やかになるだろう。
澄は椅子の上で手を膝にそろえ、全体の響きを聞いた。
二周目が近づくと、灯の右隣の女性が笛をわずかに引いた。吸うための短い隙間ができる。灯はそれより早く肩を動かし、笛を横に構えた。
三本目の音が入った。
目を向けた瞬間、澄にはそれがわかった。細い高音の中に、少し粗い響きが混ざる。灯が音を立てた、と思うより先に、三本の音が太鼓の上でひとつになった。
澄はそのまま聞き続けた。
途中で屋台の女性が、呼び込みを想定して声を出した。「焼きとうもろこし、こちらでーす」。まだ何も焼いていないので、近くの人が笑う。それでも太鼓は止まらず、笛も続く。灯の指が一度遅れ、そこだけ音の輪郭がゆらいだ。灯は眉を寄せたが、身体を前へ押し出さず、次の節の頭を待つ。
その間も、二本の笛は鳴っていた。
灯は隣の女性の息を見て、また音に入った。
最後は三本の長い音が並んだ。一本が少し先に細くなり、残りの二本が続き、太鼓が低く二つ打って終わる。
澄は拍手をした。
自分の両隣でも、見学に来た人が手を叩いている。後ろで机を運んでいた人まで、手を止めて拍手していた。
灯は笛を下ろし、いつものように自分の唇をぎゅっと結んだ。笑っていない。年上の女性が何か言うと、灯はうなずき、手元の指を動かして確かめている。
澄はそこへ行かなかった。
今は演奏した人たちが、自分の音について話している時間だ。客席にいる澄には、ちゃんと聞けたところがある。真ん中の席だと、三本が一緒になった瞬間の響きが、柵の端よりずっと豊かだった。
そのことを、あとで話せばいい。
進行の女性が笛の三人を集め、配置図の上に指を置いた。太鼓の女性もそこへ加わった。澄の席から言葉のすべては聞こえなかったが、「通り道」「二周目」「最後」といった言葉が風に乗って届く。
やがて、白髪の女性が灯を見た。
「野崎さん、今の、もう一回最初からやりたい?」
灯は少し考えてから、首を横に振った。
「全部じゃなくていいです。真ん中の、音が遅れたところだけ」
「そこね。今は呼び込みの声が聞こえたあと、そっちを気にしたでしょ」
「はい。太鼓が聞こえなくなった気がして」
「消えてないよ。隣を見れば戻れる。その次の節は、ちゃんと合ってた」
灯は笛を持ち直した。
「今度は呼び込みがあっても、隣を見ます」
「うん。でも、目だけじゃなくて、聞くのも忘れずにね」
白髪の女性が笑うと、灯も少し笑った。
短い部分だけを確かめて、練習は終わった。三人の笛が一度そろって入り、太鼓が最後の合図を打つ。長い一曲をやり直すためではなく、どこに戻るかを確認するための音だった。
*
全体合わせのあとは、演奏の人だけでなく、運営の人たちも集会所の入口へ寄った。
澄は椅子を畳まず、そのまま座っていた。片づけを始める人もいるが、演奏者の横の通路だけは空けられている。今日は手を出していいところと、出さないほうがいいところがよくわかる。
管理の女性が台帳を開く。
「じゃあ、点灯の一曲はこの形で。最初二本、二周目から野崎さんが加わる。太鼓は今日の速さ。場所は今の印で確定していい?」
屋台の女性が通路の幅をもう一度見て、うなずいた。
「買い物の人が二人並んでも通れる。うちは机を線から出さないようにする」
「提灯の線も、この高さなら笛の人の邪魔にならない」と、配線を担当する男性が言った。「ただ、当日はこの後ろに脚立を置かないから。準備が終わったら片づける」
白髪の女性は灯のほうを向いた。
「野崎さん、今日の入り方で行ける?」
灯は腕時計を見ずに答えた。
「はい。二周目から、最後まで吹きます。途中で外したら、次の節で戻ります」
「音が出ないところがあっても?」
「……あります。でも、曲を止めないようにします。止まるほうが、困るので」
太鼓の女性が、持っていたばちで自分の掌を軽く叩いた。
「それでいい。こっちは止めないよ」
管理の女性は灯の名前が書かれた欄へ、はっきりと丸をつけた。
「じゃあ、出演決定。祭り当日は十七時にここへ集合。点灯前に立ち位置を一回確かめるけど、今日みたいな長い通しはしない。屋台が始まっちゃうからね」
灯は、返事をするまでほんの少し間があった。
「はい。よろしくお願いします」
深く頭を下げた拍子に、黒いひとつ結びが肩の前へ落ちた。
「よし、決まったねえ」
太鼓の女性は両手を腰に当て、もう店のことが気になるらしく時計を見た。白髪の女性は灯の肩を軽く叩き、譜面の折り目を伸ばしている。管理の女性は丸をつけた欄の下に、当日の集合時刻を念のためもう一度書いた。
誰も大げさに騒がなかった。
それが澄には、少し意外だった。
ずっと目標にしてきた秋祭りへの参加が、台帳の中でひとつの予定になった。祭りを動かす人たちにとっては、椅子の数や電線の位置と同じように、決めておくべき大事なことなのだろう。
けれど、灯にとって同じ重さではないはずだった。
澄は椅子から立ち上がりかけて、また座った。駆け寄って何か言うのは違う気がした。灯はまだ年上の女性と譜面を見ている。そこで確かめることが終わってからでいい。
代わりに、澄はもう一度広場を見た。
灯が立っていた印は、ほかの二人の印より半歩だけ後ろにある。通路へは出ず、それでも隣の人が見える位置。八月の屋外練習で灯が自分から頼んで決めた場所だ。
その場所が、今日ようやく本番用になった。
*
「雨宮さん。何してるの?」
声をかけられ、澄は顔を上げた。灯が鞄を肩に掛けて立っていた。篠笛の細長い袋は鞄の横に収めてある。
「あ、えっと、白い線を見てた」
「また番号?」
「ううん。野崎さんの立つところ」
灯は広場のほうを振り返った。
「半歩後ろのとこ?」
「そう。あそこ、決まったんだなって」
「うん。私が頼んだ場所だから」
灯はそれから、少し間を置いて言った。
「決まったよ。出られる」
澄は笑った。
「聞こえてた。おめでとう、野崎さん」
「ありがとう」
灯は答えたが、すぐ自分の笛袋を一度持ち上げた。
「本番まで、ちゃんと鳴るかはまだわかんないけど」
「うん。今日も途中で、ちょっと……」
「外した?」
「……聞こえた」
「聞こえたかあ」
灯は悔しそうな顔をした。けれど、澄が言い訳を探す前に、片方の眉を上げた。
「じゃあ、最後は?」
「三本が重なって、すごくよかった。今日は正面だったから、太鼓も一緒に聞こえて。途中で別々に鳴ってるのに、最後はまとまって聞こえた」
「私の音、わかった?」
「……今日はね、入るときはわかった。でも最後はまた、どれかわからなかった」
「そっか」
灯は足元の印を見たあと、少し笑った。
「それ、前より嬉しいかも」
澄は返す言葉が見つからず、ただうなずいた。
灯は腕時計を見た。
「私、集会所の中に譜面返してくる。雨宮さんは?」
「ちょっと、椅子を片づけてから帰ろうかな。頼まれてないけど、さっき座った分くらいは」
「それなら、私も一脚持つ」
「野崎さんは今、譜面返すんじゃ」
「そのあと。別に急いでない」
二人が椅子を持ち上げたところで、管理の女性が通りかかった。
「その椅子はそこに置いておいて。もうすぐ配線の打ち合わせがあるから、また座るの」
澄と灯は、同時に手を止めた。
「……片づけなくてよかったみたい」
「うん。危なかった。せっかく並べたのに」
灯は椅子をそっと戻した。金具がかちんと鳴り、澄も同じように置き直す。
管理の女性は二人を見て笑った。
「気持ちだけもらっとくよ。灯ちゃん、今日はお疲れさま。来月、よろしくね」
「はい」
「雨宮さんも、当日は気楽に見においで。あ、六十三番の確認だけは私がやるから」
「お願いします」
澄が真面目に答えると、灯が隣で吹き出した。
「雨宮さん、六十三から解放されたね」
「野崎さんもでしょ」
「私はもう見つけたから」
「……それ、ずるくない?」
灯は笑いながら集会所へ入っていった。澄はその後ろ姿を見送ってから、椅子に掛けていた自分の鞄を肩へ戻した。
スマホが短く震えた。菜々から写真が届いている。赤い線を描いた紙の横に、今度は白い余白が広く残してあった。
『やっぱり赤は強いままにする。橋の下が暗かったから、あそこだけ光ってたんだと思う』
澄は写真を拡大した。以前より水面の揺れが細く、赤い線が一本ずつ離れている。
『こっち、私は好き。白いところが広いのもいいね』
送るとすぐに『それならよし。乾いたらまた見る』と返ってきた。菜々は菜々で、今日は美術室にいるらしい。
澄は送った「好き」の二文字をもう一度見て、少し笑った。菜々があの赤を残したかったのなら、色が乾いたあとも見てみたい。画面を閉じると、広場では配線を担当する人が白い印をもう一つ足していた。
集会所から灯が戻ってきた。空になった譜面入れを畳み、鞄の横を確かめている。
「雨宮さん、まだいた」
「うん。菜々から絵の写真が来てたから」
「前に言ってた赤いやつ?」
「そう。前より線が細くなってて、でも赤はそのままなんだって」
「へえ。できたら見たい」
「うん。本人に聞いてみるね」
灯は頷いた。
出入口の向こうでは、運営の人たちが机を囲み、次の段取りを相談している。広場には椅子が残り、白い線もまだ剥がされていない。さっきの演奏が終わったあとも、祭りの準備は続いていた。
「雨宮さん」と灯が言った。「本番、どこから聞くか決めてる?」
「真ん中。野崎さんが言ってくれたし、今日もあそこがよかったから」
「じゃあ、来月そこにいなかったら、私は勝手に真ん中へ向けて吹く」
「えっ、それは……誰もいなかったらどうするの?」
「お客さんはいるでしょ。雨宮さんがいなくても」
灯は当たり前のように言い、すぐに付け足した。
「でも、来てくれたら嬉しい」
澄は少しだけ目を見開いた。それから笑って答えた。
「行くよ。私もあの曲、もう一度聞きたいから」
「うん。じゃあ、最後まで吹く」
灯は鞄の肩紐を直し、広場の白い線へ一度だけ視線を向けた。
そこには、まだ三本目の立ち位置が残っていた。
遠くで商店街の店じまいの音がした。重たいシャッターが途中で一度引っかかり、それからゆっくり下りていく。澄はその音を聞きながら、来月の夕方、この場所に灯りと人の声が重なるところを思い浮かべた。
灯が先に出口へ向かい、澄は足を速めて隣に並んだ。曲がり角へ続く道の先から、パン屋のベルが聞こえてきた。
「野崎さん、帰りは商店街?」
「うん。パン買って帰る。今日、お昼軽かったから」
「私も、ちょっとお腹空いたかも」
「じゃあ、寄る?」
「……うん。チーズパン、まだあるかな」
「なかったら別の買えばいいじゃん」
「そうなんだけど、今、食べたいと思っちゃったから」
「雨宮さん、パンにはわりと決断早いね」
灯が笑い、澄も笑った。
二人は並んで、坂へ続く道を下りていった。




