第11話 灯りの下の三本目
十月の日曜日。楠坂商店街の秋祭りは、まだ明るいうちから賑やかだった。
坂を下りてくる風に、焼いた醤油の匂いと揚げ物の匂いが交互に混じる。普段は植木鉢を出している履物店の前に、今日は輪投げの台があり、新しいカレー屋は店の外で紙コップ入りの小さなスープを売っていた。八百屋のおじさんが段ボールを畳む横で、小学生が手作りの飾りを背伸びして見上げている。
店先と通りの上には提灯が渡されていた。白いもの、赤い縁のもの、子ども会が絵を描いたもの。電気はまだ点いていない。薄い秋の日を受けて、紙の表面だけが明るかった。
澄はその下を歩きながら、何度目かに鞄の持ち手を握り直した。
中には、家から譲ってもらった黒いICレコーダーがある。昨日の夜に電池を確かめ、いつもの場所へ入れてきた。祭りの音はきっと面白いと思う。それなのに今日は、まずどこから聞こうかと考えるより先に、集会所の時計が気になってしまう。
スマホには、灯から昼過ぎに届いた短いメッセージが残っていた。
『予定どおり。十七時集合。雨宮さんは時間気にせず来て』
澄は『うん。見に行くね』と返してある。
時刻は四時二十分。演奏にはまだ早い。それでも坂の先に集会所が見えると、自然に足が速くなった。
「澄、何をそんなに急いでるの」
後ろから呼ばれて振り向くと、平井菜々が人混みを縫って近づいてきた。短い前髪の下で眉を寄せ、片手に紙の筒を持っている。肩から掛けた布の鞄はいつもより膨らんでいた。
「ごめん。待ち合わせ、パン屋の前だったよね」
「そう。で、私はパン屋の前にいた。澄はパン屋を通り過ぎた」
「……お店、見えてなかったかも」
「いいよ。あそこの塩パン売り切れだったし」
菜々はあっさり言い、紙の筒を澄の前で揺らした。
「それより見て。新しい赤、持ってきた」
「えっ、あの橋の?」
「うん。まだ途中。家で見てたら、白いところを埋めたくなっちゃうから、外で見ようと思って」
菜々は筒の口を軽く叩いた。川の橋の下で見つけた、赤い救命浮環の反射。夏の展示が終わってから、菜々は何枚も線の太さを試していた。以前スマホに届いた写真では、白い紙の端に鋭い赤が浮かび、水の揺れは細い線だけで描かれていた。
「お祭りに持ってくるんだ」
「家で一人で眺めてるよりいいでしょ。あと、今日は提灯を描きたい。赤いのと白いのが並ぶと、どっちが先に目に入るか見たいんだよね」
「……写真じゃだめ?」
「写真も撮る。でも色を見てるうちに、私が先にどこ見たか忘れちゃうから、線も引いとく」
菜々は歩きながら鞄を開け、小さなスケッチ帳が入っているのを見せた。鉛筆は輪ゴムで留められている。
「澄は今日、音?」
「うん。それもあるけど、灯……野崎さんの演奏を聞きに」
「知ってる。何回も言ってたから」
「そんなに言ったっけ」
「昨日だけで二回。『最後まで吹くんだって』と『二周目からなんだって』」
澄は思わず口を閉じた。菜々は楽しそうに笑い、通りの向こうを指す。
「私も聞くよ。その前にあっちの提灯を描きたい。お母さんに団子も頼まれてるし、時間足りるかな」
「手伝おうか?」
「団子を? 三本とも食べないでくれるなら」
「食べないよ」
「今、ちょっと迷ったでしょ」
「……一本くらいならって思った」
菜々が大きく笑ったので、澄もつられて笑った。
祭りの日の商店街は、知らない場所みたいに見えるのに、店の戸の形はいつもと同じだった。写真館の入口には、六月の事故のあとに付いた小さな新しい看板がある。青い文字は二階から突き出しておらず、扉の横にきちんと収まっていた。その前を歩く人が、今日は店内に飾られた古い祭りの写真を覗き込んでいる。
澄も一瞬そちらを見たが、菜々が提灯のほうへ歩き出したので、そのまま隣についていった。
*
集会所の裏広場には、白い線に沿って客席が作られていた。
九月の全体合わせで並べた椅子より数が多く、後ろには立って見る人のための空間が空けてある。演奏者の横は商店街へ抜ける通路で、そこには荷物を置かないことになっていた。提灯の配線は広場の端を通り、頭上の小さな電球へつながっている。
澄は白い線の内側へ入る前に、管理の女性と目が合った。
「あら、雨宮さん。来たね」
「こんにちは。準備、もうほとんど終わったんですね」
「終わったことにしたいけど、あと三つくらい残ってる。ああ、これだけ持っていってくれる? 客席の後ろの机に紙コップを置き忘れちゃって」
「はい。そこならわかります」
女性が渡した透明な袋は軽かった。澄は指さされた机へ運び、袋の口を開けて紙コップを並べた。横にいた人が「ありがとう」と言い、すぐ次の飲み物を用意し始める。
戻ると管理の女性は台帳を見ながら、配線担当の人に提灯の順番を確認していた。澄が袋を返そうとすると、女性は顔を上げ、空いた片手で受け取った。
「助かった。もう客席行っておいで。真ん中、まだ空いてるよ」
「……はい。ありがとうございます」
「六十三番もちゃんと点くからね」
「そこまで覚えられてるんですか、私」
「自分で数えに来た子は、なかなか忘れないよ」
女性は笑って仕事へ戻っていった。澄も笑いながら椅子のほうへ歩く。別に、六十三番の提灯の係になったわけではない。わかっているけれど、番号の話を聞くと少しだけ上を見たくなる。
菜々は客席の端にある低い植え込みのそばで、もうスケッチ帳を開いていた。
「澄、そこ座るの?」
「うん。真ん中のあたり。前に聞いたとき、そこがよかったから」
「じゃあ私はここ。まだ明るい間に描いて、始まるときそっち行く」
「わかった。席、取っておこうか?」
「いい。最後は立って聞くかも。描きやすいほうが大事」
菜々は鉛筆を走らせ始めた。すぐ隣の提灯ではなく、その下に落ちた薄い影を見ている。澄は声をかけず、真ん中の椅子へ向かった。
演奏者の場所は、低い板張りの舞台ではない。広場の地面に引かれた細い印が三つ。その右に太鼓が置かれている。灯の位置は、二本の笛より半歩だけ後ろだった。
まだ誰も立っていないその場所を見ていると、集会所の戸が開いた。
灯が出てきた。
紺色のシャツに動きやすそうな黒いズボン。黒髪はいつもどおり耳の下で結んであり、首筋の短い毛が風で少し揺れる。片手で細い笛袋を持ち、もう片方で腕時計を確かめていた。
澄が立ち上がろうとすると、灯は先にこちらを見つけた。
「雨宮さん、もう来てた」
「うん。少し早く着いちゃった」
「まだ始まらないよ」
「知ってる。五時集合でしょ」
「そう。私たちがね。お客さんはもっとあとでいい」
灯は近くまで歩いてきたが、白い線の外側で止まった。手元には細長い袋があり、口を閉じた指が少し白い。
「……緊張してる?」と澄が尋ねると、灯はすぐにうなずいた。
「してる。今、お茶飲んだら、蓋閉めるの三回失敗した」
「三回?」
「一回目はちゃんと閉まってると思った。二回目は斜め。三回目でやっと。お茶はこぼしてないから、まだいい」
「そうなんだ……よかった、のかな」
「よかったことにする」
灯はきっぱり言ったが、そのあと口元を少し緩めた。
「雨宮さんは、今日は何を聞きに来たの?」
「えっ?」
「笛。太鼓。それとも提灯の六十三番?」
「野崎さん、まだそれ言うの」
「今日は六十三、ちゃんと点くって聞いたから」
「私もさっき聞いた。でも、今日は笛と太鼓を聞く。前に、真ん中が好きだったし」
澄は少し考えて付け足した。
「野崎さんがここから入るのも、見たい」
灯は自分の足元から、演奏位置の細い印へ視線を動かした。
「うん。今日は、ちゃんとそこに立つ」
返事をすると、灯は笛袋を持ち直した。管理の女性に呼ばれ、そちらへ身体を向ける。
「じゃあ、あとで。始まったら真ん中、見てる余裕ないと思うから」
「いいよ。隣の人、見てて」
「そっちは見ないと困る」
灯は小さく笑い、集会所へ戻っていった。
澄は椅子に腰を下ろした。両膝の上に手を置くと、少し汗ばんでいることに気づく。笛を吹くのは澄ではないのに、つられて緊張していたらしい。
広場にはだんだん人が増えていった。ベビーカーを押した家族が白い線の後ろを通り、屋台の人が「そこは通れるようにしてね」と声をかける。紙コップを置いた机では飲み物が配られ、子ども会の飾りが風でかすかに擦れ合っている。
菜々がスケッチ帳を閉じ、澄のほうへ来た。
「始まりそう?」
「たぶん、もう少し」
「私、立って聞く。ここだとちょうど提灯も見えるから」
菜々は椅子の一つ後ろに立った。周りでは、もう音楽を待たずに屋台へ戻る人もいる。それでいいのだろう。祭りに来た人が、全員同じことを見に来たわけではない。
やがて太鼓の女性がばちを持って現れた。前掛けの上に紺色の上着を羽織り、屋台の人と短く何か話している。続いて二人の笛の女性が出てきた。白髪を短く束ねた女性が、ほかの人の立ち位置を足元で確かめる。
最後に灯が現れた。
袋から取り出した篠笛を手にしている。二人より半歩後ろへ立つと、結んだ髪が肩をかすめた。柔らかな眉の下で目を細め、舞台の端ではなく、隣の人の肩を見ている。
最初は二本。
二周目から三本目。
澄はもうその順番を知っていた。それでも、最初の音が鳴るまでの時間は、九月の練習より長く感じた。
管理の女性が短い挨拶をした。去年から変えた通路の位置と、屋台の前では立ち止まりすぎないでほしいこと。それから、今年もこの町で祭りを開けたことへの礼。誰かが子どもを抱き上げ、後ろのほうで拍手が起こった。
太鼓の女性がばちを持ち上げる。
どん、と一つ。
二本の篠笛が、その上に音を伸ばした。
高く、細く、けれど離れていかない音だった。少し低いほうが先へ進むと、もう一本が横から追いつく。澄が座る椅子の足元まで太鼓が響き、紙提灯の影がゆっくり揺れた。
客席の後ろで子どもが何かを尋ねた。屋台では油のはぜる音が止まらない。誰かが通り抜けるために「ちょっとごめんね」と声をかけ、見物の人が道を空ける。九月の全体合わせで想像したとおり、祭りの音は笛だけにはならなかった。
それでも、不思議と聞き逃さずにいられる。
澄は手を膝に置き、笛が一息ぶん途切れるところを聞いた。白髪の女性の肩が動くと、隣の女性も少し遅れて息を吸う。その間にも太鼓は規則正しく続いていた。
ふと、頭上の提灯が点いた。
通りの奥から明かりが広がってくる。一つ、二つと数えられる速さではない。店先の白い紙が次々と内側から色づき、赤い縁がくっきり浮かぶ。近くで歓声が上がった。さっきまで明るかった空はいつの間にか青みを増し、灯りのついた提灯のほうが、空よりあたたかく見えた。
澄は一瞬だけ上を見た。
そして、すぐ正面へ戻した。
最初の節が終わろうとしていた。
灯はまだ吹いていない。半歩後ろに立ち、隣の女性の肩と太鼓の手元を交互に見ている。篠笛を口元へ持っていく前に、左手の指が一度だけ空中で動いた。
二周目の入り口。
隣の女性が短く息を吸う。灯はその動きを見て、笛を構えた。
三本目が加わった。
最初の一音は、澄にも少し硬く聞こえた。笛を一本増やしたことが目でわかるから、耳もそこを探してしまうのかもしれない。けれど次の節では、三本の音はもう離れたところにいなかった。互いの細い線が寄り合い、太鼓の上で幅を持つ。
灯は口元を引き締めている。横笛に息を入れるたび、結んだ髪が首の後ろで小さく動く。指が忙しく動くところで、ほんの一瞬だけ眉が寄った。けれど隣の女性が次の音へ移ると、灯もその先へ進んだ。
澄は、どれが灯の音かを追うのをやめた。
二本のときは少し向こうまで飛んでいった旋律が、三本になると、広場を包むように聞こえる。高い音が重なる隙間へ、太鼓の低い一打が入る。店先の客が話し、屋台の鉄板が鳴り、それら全部の間を曲が途切れずに通っていった。
隣の席では、小さな子が膝の上で手を動かしていた。太鼓を真似しているらしい。保護者がその手をそっと支える。後ろに立った菜々はスケッチ帳を胸に抱えたまま、もう鉛筆を持っていなかった。
最後の節に入った。
灯が隣を見た。今度は確認するというより、同じ方向へ息を送るために見るような動きだった。三人の笛が長く伸び、一本が少し先に細くなる。残った音がそれを受け、太鼓が低く二つ鳴った。
曲が終わった。
一拍だけ、笛のない広場に屋台の音が戻る。
それから拍手が広がった。
澄は両手を叩いた。隣の席の人も、白い線の後ろで立っていた人も、通りかかった買い物客も。全員が手を止めたわけではないけれど、拍手は屋台の呼び声に負けず、しばらく広場に残っていた。
灯は笛を下ろして、まず隣の女性の顔を見た。女性が何か言い、灯はうなずく。それから太鼓の女性へ向き直り、頭を下げた。
澄はもう一度、拍手をした。
灯が自分の選んだ位置で、最後まで吹いた。澄の耳には三本の笛が残っている。どの一音が灯のものだったかは、やっぱり全部はわからない。
それでも、今の曲が好きだった。
*
「澄、白いのが勝った」
演奏が終わって人が動き出したころ、菜々が開口一番にそう言った。
「え?」
「提灯。明るくなる前は赤い縁ばっかり目に入ったけど、点いたら白いところのほうがきれいだった。あんなに変わると思わなかった」
菜々は閉じていたスケッチ帳を開いた。鉛筆だけで描いた提灯が三つ並び、赤い部分には小さな丸がつけてある。白い部分はほとんど描いていなかった。
「塗らないところ、前より多くなるかも。……いや、帰ってから見たら違うかな」
「さっき、途中から描いてなかったよね」
「そりゃあ笛が鳴ってたから。あれ聞きながら細い線なんて引けないよ」
菜々はそう言って、澄の顔を見た。
「野崎さん、すごかったね。澄があんなに楽しみにしてたの、わかった」
「うん。……うん、よかった」
「何その二回目のうん。感想が少なくない?」
「ちゃんと話そうとすると、長くなりそう」
「じゃあ団子食べながら聞く」
菜々は手早くスケッチ帳をしまった。澄も椅子から立ち上がり、二人で白い線の後ろへ回った。演奏者たちはまだ広場の端で道具を片づけている。太鼓を台車に固定する人の声がし、白髪の女性が笛の袋を揃えていた。灯もその中にいて、譜面を折らないよう筒状の入れ物へ戻している。
澄は声をかけず、菜々と屋台へ向かった。
焼き団子の店には短い列ができていた。たれを塗った串を網の上へ置くと、じゅっと甘い匂いが立つ。澄はそれを見ながら、さっきの音を菜々に説明しようとした。
「最初は二本だったでしょ。野崎さんが入ったとき、少しだけ音が硬くなった気がして。でも、すぐに広くなって……えっと」
「広く?」
「音が、向こうから来るんじゃなくて、こっちまである感じ」
「うん。それはちょっとわかる」
菜々は店の人に団子を四本頼んだ。三本は家へ持ち帰る分で、一本は自分のものだという。
「澄は?」
「一本買う。さっきから匂いがすごくよくて」
「一本で足りる?」
「たぶん。……お腹空いたらほかの店も見たいし」
「それ、足りないって言ってるのと同じじゃない?」
澄は笑って財布を出した。
屋台を離れるころ、菜々のスマホが鳴った。母親から、帰りにもう一つ買ってきてほしいものがあるらしい。画面を見た菜々は眉をひそめた。
「今さらお茶? 家にあると思ったんだけどな」
「一緒に買いに行こうか?」
「大丈夫。商店街の端のお店で買って帰る。私はその前に、さっきの白い提灯をもう一回見たいし」
菜々は紙袋を持ち上げた。
「澄は野崎さんと話すんでしょ」
「……うん。話せたら、だけど」
「じゃ、私は私の続きを見てくる。明日、学校で提灯の話聞いてよ」
「うん。赤の絵も、また見せてね」
「まだ完成じゃないよ。今見せたら、また塗りたくなるから」
菜々は笑い、商店街の灯りの下を歩いていった。少し進んだところで振り返り、団子の紙袋を振る。澄も片手を上げた。
澄はひとりで団子を食べた。熱いたれが舌に触れ、慌てて息を吹く。笛を聞いていたときとは違う意味で、うまく息が使えなかった。
集会所のほうから人が流れてくる。さっきの曲を口ずさむ人もいたが、旋律は少し違っていた。澄の頭の中でも、もう音の順番が曖昧になっている。
録音したくなかったわけではない。
けれど今は、耳に残っているところを勝手に歌い直すより、灯が何を見ていたのかを聞いてみたかった。
団子の最後の一口を食べ終えたころ、集会所の入口から灯が出てきた。笛の袋は鞄へしまったらしく、手には小さな紙袋だけを持っている。澄を見つけると、迷わずこちらへ歩いてきた。
「雨宮さん。まだいた」
「うん。団子買ってた」
「もうないじゃん」
「食べちゃった」
「早いね」
「熱かったけど、おいしかったから」
灯は澄の空になった串を見てから、自分の紙袋を少し持ち上げた。
「私も何か食べる。終わってから急にお腹空いた」
「ずっと吹いてたもんね」
「ずっとじゃないよ。二周目から」
「……そうだった」
灯の言い方があまりにいつもどおりで、澄は笑った。灯も笑い、紙袋を鞄へしまった。たぶん店の人から渡された何かの資料なのだろう。中身を聞く前に、灯が通りの上を見上げた。
「六十三番、点いてた?」
「えっ」
「提灯。今日、ちゃんと点くって言ってたでしょ」
澄は頭上に並ぶ提灯を見た。
白い紙の中に明かりが入っている。番号は高いところに小さく書かれているらしく、ここからでは読めなかった。
「……ごめん。見てなかった」
「何見てたの?」
「野崎さんたちの演奏」
「提灯も点いたのに?」
「最初は見たよ。でも、二周目が始まりそうだったから」
灯は少しだけ目を丸くした。
それから、片方の眉を上げて笑った。
「じゃあ、六十三に勝った」
「競争してたの?」
「今決めた」
「野崎さん、そういうの後から決めるよね」
「勝てそうなときに決めたほうがいいでしょ」
澄も笑った。灯の頬は少し赤く、髪の結び目が昼より緩んでいる。声は元気だが、笛袋を持っていたほうの腕をときどきさすっていた。
「野崎さん、お疲れさま」
「うん。疲れた。でも最後まで吹けた」
「聞いてたよ。最後、三本と太鼓が一緒になったところ、すごく好きだった」
灯は澄のほうを向き、少しだけ考えた。
「私も最後は聞こえた。今までは、指とか息とかばっかり気になってたんだけど」
「うん」
「今日は隣の人が息を吸うのも、太鼓も、ちゃんと一緒に聞こえた。途中で提灯が点いたのは、あんまり覚えてない」
「そっか。野崎さんも提灯を見てないんだ」
「そういうことになるね」
二人は顔を見合わせた。
屋台から焼きとうもろこしを勧める声がした。灯はそちらをちらりと見てから、澄に尋ねる。
「雨宮さん、もう帰る?」
「まだ少し見ていこうと思ってた。野崎さんは?」
「何か食べて、駅のほうへ。明日、学校だし」
「うん。……私も駅のほう。一緒に行ってもいい?」
「いいよ。屋台、寄ってからでもいい?」
「うん。私も、あそこの焼きそば見たい」
「団子食べたのに?」
「団子と焼きそばは別だから」
「雨宮さん、それはわかる」
灯は妙に真面目な顔でうなずき、二人で屋台の列へ向かった。
*
商店街を抜けるころには、空はすっかり暗くなっていた。
提灯の下を歩く人の影が、店のガラスにいくつも映る。普段は夕方に閉まる古道具屋の戸が今日は開き、軒先の風鈴がときおり鳴っていた。澄は思わず足を緩めたが、手には買った焼きそばの容器がある。今は鞄のレコーダーに手を伸ばせない。
「今の、録りたかった?」
灯が隣から言った。
「うん。ちょっと。でも、前にあそこの風鈴は録ったことあるし、今日はいいかな」
「今日のは違う音だったかもよ」
「……そう言われると、気になる」
「じゃあ、聞いてく?」
灯は足を止めた。澄が歩き続けるかどうか、返事を待っている。
澄は少し迷ってから、焼きそばの容器を持ち直した。
「ううん。もう一度鳴るのを待つと、たぶん十分くらい動けなくなるから。今日は野崎さんと歩く」
「十分で済む?」
「……前は十分近く待った」
「聞いたことある。三つの風鈴のやつ」
「覚えてたんだ」
「最後の小さい音、もう一回って言ったの私だし」
灯はそう言って、少し先へ歩き出した。澄も並ぶ。背後で風鈴が短く鳴ったが、振り返らなかった。
写真館の前を通るとき、二人の歩幅が少し遅くなった。
入口脇の新しい看板は、祭りの明かりを受けて青く光っている。二階の外壁にはもう何も突き出していない。店のガラスには昔の秋祭りの写真が飾られ、提灯を下げた坂道を、今よりずっと小さな子どもたちが走っていた。
灯がガラスの前で立ち止まる。
「これ、いつの写真だろう」
「えっと……下に日付ある。二十年以上前だって」
「へえ。今と店の並び、だいぶ違うね」
「うん。でも、この坂の形は同じ」
灯は写真から入口脇の新しい看板へ目を移した。澄もつられて見る。
六月の雨の日、青い金属板が落ちた場所は、今では人が普通に歩いている。誰かが立ち止まって写真を覗き込み、その横を家族連れが通り抜けていく。
「私、ここ通るとき、まだ上を見ちゃう」と灯が言った。
澄は灯の横顔を見た。灯はガラスに映る提灯を眺めながら、言葉を続けた。
「看板、もうないのに。今日もさっき一回見た」
「……私も、たまに見るよ」
「そう」
灯はうなずいた。それ以上、あの雨の日の話を続けようとはしなかった。
澄は少しだけ迷ったあと、ガラスの中の古い写真を指さした。
「あっちの写真、笛の人が写ってる」
「どこ?」
「ほら、右の端。柱の横」
灯は顔を近づけた。
「あ、本当だ。二人いる。……服、今の私たちと全然違うね」
「どんな曲だったのかな」
「わかんない。写真じゃ聞けないし」
「そうだね」
灯は笑い、ガラスから離れた。
「でも、今日のは聞けたでしょ」
「うん。聞けた」
澄ははっきり答えた。
澄は、灯の手元を見た。さっきまで篠笛を支えていた指が、今は鞄の持ち手を引っかけている。写真の中の笛の音は聞けない。けれど今日の最後の長い音なら、澄はちゃんと覚えていた。
「雨宮さん?」
灯に呼ばれ、澄は顔を上げた。
「どうしたの。急に黙って」
「あ、ごめん。今日の曲、まだ頭の中で鳴ってて」
「もうだいぶ違う曲になってない?」
「たぶん。最後のところだけは、ちゃんと覚えてると思う」
「今度会ったら、年上の人に教えてもらったほうがいいね。私もうまく歌えないし」
「野崎さんが吹いた曲なのに?」
「笛で吹くのと口で歌うのは、別」
その言い方がおかしくて、澄は笑った。
写真館を離れ、二人は駅へ続く道を歩いた。祭りの灯りは坂の途中で少しずつ遠くなり、代わりに駅前の店の明かりが見えてくる。信号待ちの人たちの足元で、落ち葉がからからと転がった。
分かれ道に差しかかったところで、灯が腕時計を見た。
「明日、一時間目から小テストだっけ」
「……数学。そういえば」
「忘れてた?」
「一応、範囲は見たよ。先週のうちに」
「一応、って言うときは怪しいね」
「うん。家に帰ってからもう一回見る」
「私も。今日は吹くほうの順番ばっかり覚えてたから」
灯は片手を上げた。いつもの、誰かを呼び止めるときとは違う、軽い動きだった。
「じゃあ、また明日。雨宮さん」
澄も手を上げた。
「また明日、野崎さん」
灯は自分の帰る道へ曲がった。澄も駅前へ向かう。
後ろからは、祭りの太鼓がまだ遠く聞こえていた。澄の足元では乾いた落ち葉が一枚鳴り、角を曲がった向こうから、別の誰かの靴音が近づいてくる。
澄は鞄の中のレコーダーを確かめず、そのまま歩いた。
明日の教室にはきっと、また違う音がある。




