第8話 橋の下と、坂の上
水曜日の空は、菜々の希望どおり曇っていた。
「もう少し薄い雲がよかったな」
「曇り希望って言ってたのに?」
「希望はしたよ。細かいところまで指定できなかっただけ」
平井菜々は駅前から続く道を歩きながら、何度目かに空を見上げた。短い前髪の下で眉を寄せているが、足取りは軽い。肩から掛けた小さな鞄にはスマホのほか、スケッチ帳と色鉛筆が入っているという。
夏休みに入って最初の水曜日。澄と菜々は約束していた川沿いへ向かっていた。駅から少し歩くと家並みが低くなり、道路の向こうに堤防の手すりが見えてくる。晴れた日には遠くの山まで見える場所だが、今日は山の上半分が雲に隠れていた。
「撮るもの、もう決めてるの?」
「水面。あと、橋の影かな。実物を見てから考える」
「前は海だったから、今度は川?」
「そういうつもりはなかったけど、言われると水ばっかりだね。次は洗面台を描いたりして」
「菜々なら描きそう」
「そこで止めてよ。冗談なんだから」
澄は笑いながら、鞄の内側を確かめた。黒いICレコーダーはいつもの場所にある。先週土曜日に録った踏切の音と、商店街の裏道の風鈴には、まだ数字のままのファイル名がついていた。今日は音を増やすだけでなく、聞きたいものを決めて出かけてきた。
橋の袂には小さな階段があり、川沿いの遊歩道へ下りられる。自転車がすれ違うときに鳴る金属の継ぎ目の音を、以前ここで聞いたことがあった。上を走る道路とは別に、下では水が護岸の石に触れる小さな音が続いている。澄はその重なりを録ってみたかった。
階段を下りると、湿った土と草の匂いがした。水面は空を映して銀色に見えるが、ところどころ流れが細く折れ、橋脚の周りには濃い影が寄っていた。向こう岸を犬と歩く人がいて、さらに下流では作業着姿の男性が河川敷のごみを袋に集めている。
「澄、先に録っていいよ。私、橋の下見てくる」
「うん。でも、菜々が写真撮るところに私が入ったら言ってね」
「澄が入ったら撮らないってわけじゃないよ。たぶん、ちゃんと端に寄ってくれるでしょ」
「それは……一応、寄るつもり」
「ほら、信用あるじゃん」
菜々は勝手に納得し、欄干の影を踏んで先へ行った。
澄は橋脚から少し離れたところに立った。頭上を自転車が通ると、橋の継ぎ目が短く鳴る。その音に水のさざめきが重なり、反響がコンクリートの裏に残る。車が通ると低い音が長く響いてしまうので、少し待った。
レコーダーの電源を入れる。液晶を確かめてから、赤い印の薄れたボタンを押した。
最初の十秒は風の音ばかりだった。次に自転車が一台、橋へ入ってくる。かたん、と継ぎ目が鳴り、少し遅れて向こうの端でも同じような音がした。澄は腕を動かさずに聞いた。水が石に当たる音は、その間も止まらない。
十分ではなく、一分ほど録って停止した。
短く再生すると、自転車の音はよく入っていたが、水音のほうは風に隠れがちだった。少し残念だ。それでも、家で聞けば今日の橋の場所は思い出せそうだった。澄はファイルを残して、レコーダーを鞄に戻した。
「澄。こっち、ちょっと来て」
声のほうを見ると、菜々が橋脚の向こうでしゃがんでいた。スマホを低く構え、澄を手招きしている。
「何かいた?」
「いる。というか、ある」
菜々が指した先には、護岸の低い柵に取りつけられた赤い救命浮環があった。誰かがいたずらした様子もなく、白い文字の入った輪が金具に掛けられている。川面にはその赤が細く映っていたが、流れが揺れるたび、長く伸びたり途中で切れたりしていた。
「これ、赤い輪っかの形で映ると思ったんだよね。でも全然そうならない」
「……ほんとだ。細長い線みたい」
「しかも赤が一個じゃない。流れるたびに二個になったり、なくなったりする」
菜々はスマホを少し傾けて、画面の中の赤い線を追った。澄も隣にしゃがむ。川の表面を見ていると、赤い線の横で橋の影まで小さく千切れた。
「『晴れる前』の青、覚えてる?」と菜々が言った。
「もちろん」
「あれ、色を決めたらずっと同じところに塗れたでしょ。こっちは、次に見たときもう違うの」
「写真なら残るけど」
「写真にすると、今度は動かない。なんか、ずるいね」
菜々は言いながらも楽しそうだった。いったん撮った写真を確かめ、気に入らなかったのかもう一度構える。救命浮環そのものより、水面の端に大きく空間を取った構図だった。
「そっちも撮るの?」と澄が聞くと、菜々は頷いた。
「そう。浮環がどこにあるかもわかるように。水面だけだと、あとで自分が何撮ったか忘れそうだし」
「菜々が?」
「私でも。展示の感想は全部書いたけど、買ってきてって頼まれた洗剤は昨日忘れた」
「それは、お母さん困ったんじゃない?」
「困ってた。ちゃんと今日買って帰る」
菜々は立ち上がり、川沿いの向こうまで何枚か撮りに行った。空の写真も撮っていたが、澄が追いつくころには、護岸の影がどこまで伸びるかを調べることのほうに夢中になっていた。
橋の下で二人はしばらく別々に過ごした。澄が自分の耳で川を聞いている間、菜々は何度もしゃがんだり立ったりした。散歩の人が通ると、二人とも邪魔にならない場所へ移った。菜々はその人の赤い靴が水面には映らないことを残念がり、澄は少し笑った。
「ねえ、澄。次、これ描いてみようかな」
遊歩道のベンチに腰掛け、菜々が写真を並べて見せてきた。赤い線が一本になったもの、輪のように曲がったもの、赤がまったく消えたもの。
「赤い浮環?」
「それも。あと、揺れてるところ。見て描けないなら、写真を何枚か見比べてみる。たぶん、どれかひとつにはしないと思う」
「写真を全部一枚に?」
「まだ決めない。まず家で描いてみる。前の海みたいに、大きい紙かどうかもわかんないし」
言いながら菜々は、鞄からスケッチ帳を取り出して小さな赤い曲線を三本描いた。一本描くたびに首を傾け、最後の一本だけを消しゴムで消す。
「さっき撮ったばっかりなのに、もう描くんだね」
「忘れるから。洗剤も忘れたし」
「洗剤のこと、ずっと言ってない?」
「忘れないため。澄も帰りに言って」
菜々の前髪に風が当たり、スケッチ帳の端がめくれた。最初の頁には『晴れる前』の構図を決めるための小さな雲がいくつも描かれている。菜々はその頁を飛ばして、空いているところへ新しい赤を足した。
澄は水筒のお茶を飲んだ。菜々が何を描くのか、まだわからない。でも、わからないまま一緒に見ていられるのが心地よかった。
*
新しいパン屋は、川沿いの道を上流へ五分ほど歩いた角にあった。
大きな窓から作業台が見える、小さな店だった。レジの脇には丸い食パンと塩バターロールが並び、奥では店員が焼き上がったパンをラックへ移している。菜々は迷わず丸い食パンの前へ行った。
「これ、かわいい。丸すぎる」
「食べちゃうのに?」
「食べるためにかわいいんだよ」
澄は昼食用の野菜とチーズのパンを選んだ。菜々は結局、丸い食パンに加えて、レモンの香りがする小さな焼き菓子まで買った。店を出るころには、薄かった雲が少し厚くなり、道路に落ちる影も曖昧になっていた。
店先のベンチでパンを食べながら、菜々はスケッチ帳を膝に開いていた。食パンの袋は汚れないよう鞄の上に置いてある。
「赤の絵、展示に出す?」と澄が聞いた。
「まだそんな話じゃないよ。夏休みのうちに描けるかわかんないし、描いて嫌になったらやめるし」
「そっか。……でも、見たいな」
「できたらね。今度は『池?』って言われても、池じゃないって言える絵にしたい」
「赤い池になっちゃうかも」
「それはそれで怖いなあ」
菜々は笑って、パンを一口かじった。
食べ終えて袋を畳んだとき、澄は店の扉の横に貼られた紙に気づいた。『楠坂秋祭り 準備のお手伝い募集』とあり、今週土曜日、午前十時から正午まで集会所で提灯用の番号札を仕分けると書かれていた。連絡先も添えてある。
「あ、楠坂のお祭りだ」と菜々が言う。「もう準備してるんだね」
「九月に配線するって聞いたから、先に札をそろえるのかも」
「詳しいね。澄、去年あのお祭り行った?」
「行ったよ。夜に坂を歩いて、提灯が風で揺れるの聞いてた」
「提灯って音するの?」
「紙が擦れるのと、吊ってる紐がちょっと。屋台の音に隠れてたけど」
「私は焼きとうもろこししか覚えてない」
澄は紙をもう一度読んだ。誰でも手伝えるとは書いてあるが、人数によって作業を分けるので事前に連絡を、と小さく付け足されている。
「……私、行ってみようかな」
「土曜日?」
「うん。お祭りって、始まった日の音しか聞いたことないから。どうやって用意してるのか見たい」
「澄らしい理由だね」
菜々はスマホで掲示を撮り、澄にも見えるように画面を傾けた。
「私は土曜日、美術室に行く。描く前に学校の絵具、少し確認したいんだ。先生が来る日だから」
「そっか。じゃあ、今度赤い絵が進んだら教えて」
「うん。その代わり、澄は土曜行ったら提灯の数、数えてきて」
「どうして?」
「私が思ってるより多そうだから。百個あったらすごいなって」
「たぶん、もっとありそう」
「じゃあ、数えがいがあるね」
菜々は平気な顔で言った。澄は笑いながら、掲示の連絡先をスマホに控えた。水曜日の午後はまだ時間がある。帰宅したら、自分で電話してみようと思った。
帰り道、菜々が駅前のドラッグストアに寄り、洗剤を買うのを見届けた。二人で袋を持って店を出ると、菜々は「これで今日いちばん大事な用事が済んだ」と胸を張った。
「川の写真より?」
「お母さんにとっては、ってこと。私には川も大事」
その言い方がおかしくて、澄はまた笑った。
*
土曜日の楠坂集会所には、紙と糊の匂いが満ちていた。
澄は電話で教えられたとおり、十時少し前に集会所へ着いた。入口で靴を脱ぎ、受付の紙に名前を書く。中では長机が三つ並べられ、白い番号札と細い紐、それを束ねるための封筒が山になっていた。
「雨宮さんね。電話くれた子。助かるよ」
前にも見かけた管理の女性が、台帳に目を落として言った。鍵や椅子の出し入れをいつも引き受けている人だ。今日は首から細いタオルを掛け、机の上に広げた配置図を片手で押さえていた。
「お手伝い、初めてなんですけど」
「最初からできる子はいないよ。番号を順番に入れてくれればいい。難しいのはあとでこっちがやるから」
澄は頷いた。壁際では地域の子どもたちが色紙を折っている。誰かが折り方を間違え、もう一人が見本を取りに走った。奥の部屋からは、古い扇風機が首を振る音が聞こえてきた。
作業を説明してもらい、澄は手前の机についた。薄い番号札を十枚ずつ重ね、間に紙を挟んで封筒へ入れる。東側の通りと坂上では番号の範囲が違うので、仕分ける前に配置図と照らすことになっていた。
最初の束を数え終えたところで、隣の机から声がした。
「雨宮さん?」
顔を上げると、灯が立っていた。
耳の下で結んだ黒髪の先が、首筋に触れている。半袖のTシャツに動きやすそうな濃い色のパンツで、腕にはいつもの時計があった。片手には赤ペン、もう片方には提灯の並びを記した紙を持っている。
「……おはよう、野崎さん」
「おはよう。今日、手伝いの日だったんだ」
「うん。水曜日に募集を見て、電話したの」
「そっか。こっちは番号直すのがまだ残ってて」
灯は持っている紙を示した。去年の番号と今年の仮の位置を書き分けた表らしい。以前、書き間違いを見つけたと聞いた仕事の続きなのだろう。
「雨宮さん、それ、十枚ずつ?」
「うん。まだ一束しかできてないけど」
「その束、最後が四十九なら次は五十。東側は六十までで、坂上は別の封筒」
「……わかった。ありがとう」
灯はそれだけ言って隣の机へ戻った。澄も番号札へ視線を戻す。
予想していなかったわけではなかった。この場所で祭りの準備をしている灯に、いつか会うことはあると思っていた。でも実際に姿を見ると、指先が少し落ち着かない。先週の広場で交わした話が、まだ二人の間にある。
四十九まで入れた封筒を閉じてから、澄は新しい束を取った。
「五十、五十一、五十二……」
番号を声に出さずに追い、順番に並べる。紙は少し湿気を吸っていて、二枚重ねて取ると簡単には離れなかった。澄は角を軽くずらし、指の腹で一枚ずつ送った。
しばらくすると、管理の女性が机を回ってきた。
「東側、どこまでできた?」
「いま五十七です。あと三枚で終わります」
「早いね。じゃあ、そのあと坂上もお願い。九月に配線が決まってからまとめて付けるから、今は番号だけ間違えないように」
澄が頷いたところで、隣の机から灯が顔を上げた。
「こっち、配置図の六十三が二つあります。片方、去年の数字を消し忘れてる」
「また? どの通り?」
「坂上の西側です。消したほうにも小さい字が残ってるから、読み違えそう」
「じゃあ、今日のうちに直しとこう」
管理の女性は赤ペンを受け取り、灯と一緒に表を確かめ始めた。灯は説明しながら、自分の指先で該当する線をまっすぐなぞっている。澄のほうへ一度も振り向かない。
それは少し寂しくもあり、安心でもあった。灯は澄に会ったこととは関係なく、朝からやるべき仕事を進めている。澄にも、まだ五十八から六十までの三枚が残っていた。
坂上の束を作り始めるころ、子どもたちの机から声が上がった。
「この紙、裏が白い! 間違えた!」
「白いほうにも描けば?」
「それだと表と裏で違うんだもん!」
小さな口論になりかけて、近くの大人が「見本のとおりでなくてもいいのは、こっちの飾りだけね」と仕分け直していた。子どもたちは納得すると、すぐ別の色紙の取り合いを始めた。
澄は思わず顔を上げ、それから自分の机へ戻った。封筒の口を折ると紙がぱり、と鳴る。隣では灯の赤ペンが表をなぞり、紙の上で短い音を立てている。
以前なら、録ってみたいと思っただろう。
今日も思った。ただ、手は鞄へ伸びなかった。録音のためではなく、自分で申し込んだ作業をしている。いま一番気になるのは、坂上の番号を間違えずに全部入れられるかどうかだった。
十一時半を過ぎると、封筒の山はずいぶん低くなった。灯の表も書き直しが終わり、二人は管理の女性に頼まれて、使い終わった紙箱を集会所の外の物置へ運ぶことになった。
箱は見た目より軽かったが、澄が二つ重ねると前が見えづらい。灯が横から覗き込み、「下の箱の角、出てる」と教えた。
「あ、ほんとだ。持ち直すね」
「一個ずつでもいいよ」
「うん。でも、これだけなら運べそう」
「じゃあ私は扉開ける」
灯は先に出て、物置の扉を押さえた。澄は箱を運び込み、棚の下に並べた。直射日光を避けた奥には、去年使った飾りや紐を巻いた板が収められている。外に出ると、集会所の庭の砂利が白く光っていた。
「今日は暑いね」
「うん。箱の中、もっと暑かった」
「箱の中?」
「持ってるとき、顔の前が紙でいっぱいだったから」
灯は一瞬真顔になってから、口元を緩めた。
「それ、暑さの理由になってる?」
「……あんまりなってないかも」
「でしょうね」
庭の端には水道があり、子どもたちが使った筆を洗うためのバケツが置いてあった。二人はその脇の低いベンチまで歩いた。建物の軒が日を遮っている。
澄は水筒を取り出し、残りのお茶を飲んだ。灯も自分の水筒を開けたが、すぐには口をつけず、ボトルの縁を指先でなぞっていた。
「雨宮さん」
「……うん」
「先週の話、まだ答えは出てない」
澄は水筒の蓋を閉めた。
「うん。聞いてる」
「私には確かめようがないし、今すぐ信じろって言われても無理。でも、雨宮さんが本気で話してたことは、わかった」
「……うん」
灯はそこでお茶を一口飲み、庭のほうを見た。子どもたちがまた色紙の束を持って、入口へ駆けていく。
「それで、ひとつ聞きたいんだけど」
「何?」
「雨宮さん、私の笛のこと、今も気になる?」
澄は灯を見た。質問の意味を考えているうちに、灯が水筒を膝に置いた。
「事故の話とは別に。練習で何やってるかとか、秋に出られるかとか」
「……気になるよ。合同練習で、人の息を見て入るって話も、もっと聞きたいと思ってた。自分で音を出すの、私にはできないから」
「できないって、やったことないでしょ」
「うん。だから、どうしてできるようになるのかなって」
灯が唇を結んだ。しばらく澄を見てから、ほんの少しだけ肩を下ろした。
「私は、まだできてないけどね」
「そこも含めて、聞いてみたい。野崎さんが嫌じゃなければ」
灯は水筒の蓋を回して閉めかけ、また開いた。もう一口飲んでから、今度こそ蓋を閉めた。
「八月の後半、外で立ち位置を確認する日があるんだ。合同練習の人たちで。ちゃんと吹くかはまだわからないけど、見学できるか聞いてみる」
「……えっ。いいの?」
「今の練習、誰にも見られたくないってわけじゃない。勝手に来られるのが嫌なだけ。もし来るなら、私が時間を伝える」
「うん。ありがとう」
「ただ、音は録らないで。私だけじゃなく、ほかの人もいるから」
「うん。聞くだけにする」
灯は腕時計を見た。
「……でも、まだ日にちがはっきりしないんだよね。決まったら教えたいけど、夏休みだし」
「あ、そうだね。学校で会えないし」
二人はしばらく黙っていた。
この前までは、学校に行けば顔を合わせた。夏休みになって初めて、その当たり前がなくなった。澄は鞄からスマホを取り出しかけ、灯の表情を見て手を止めた。
灯が先に言った。
「連絡先、交換する?」
「……うん。私も、聞こうかと思ってた」
「じゃあ、そう言えばよかったのに」
「ちょっと、今聞いていいのか迷って」
「今ならいいよ。私が聞いたし」
澄は慌ててスマホの画面を開いた。操作を間違えて、一度写真の一覧が出てしまう。川沿いで菜々が送ってくれた赤い水面の写真が一瞬表示され、灯が首を傾けた。
「何、その赤いの」
「あ、菜々が撮った川の写真。救命浮環が映ってて、水が揺れると線みたいになるの」
「川って赤くなるんだ」
「全部じゃなくて、そこだけ。菜々は今度それを描きたいんだって」
「へえ。池じゃなくて?」
「それ言うと、菜々はちょっと怒るかも」
灯が笑った。澄も笑いながら、今度こそ連絡先を交換する画面へ切り替えた。
短いやり取りのあと、澄のスマホに「野崎灯」の名前が表示された。文字で見るのは初めてではないのに、教室の名簿とは違って見えた。灯も画面を一度確かめ、腕時計を見た。
「予定が決まったら送る。見学できないって言われたら、それも送る」
「うん。野崎さんの都合のいいときで大丈夫」
「じゃあ、返事も都合のいいときで。急ぎの用事じゃないし」
澄は頷いた。灯から何が届くかは、まだわからない。届いたからといって、何でも聞けるわけでもない。でも今度は、何も知らせずに後ろを歩く必要はなかった。
集会所の中から、管理の女性の声がした。
「二人とも、箱ありがとう! 最後の札、確認するよ!」
灯が先に立ち上がった。
「戻ろう。あれ、私が見た番号だから、間違ってたら困る」
「私が入れた束もあるから、私も見る」
「じゃあ、五十から六十は雨宮さん担当ね」
「うん。さっき数えたから、たぶん大丈夫」
「たぶんはもう一回数えて」
「……はい」
澄が笑うと、灯も小さく笑った。
二人はそれぞれの机に戻った。窓からは蝉の声が入り、封筒の口を開く音、赤ペンのキャップを外す音が続いていた。澄は五十の札を手に取り、五十一、五十二と一枚ずつ並べ直す。隣では灯が配置図を確かめている。
正午になれば、二人ともこの場所を出て、それぞれの午後に戻る。澄は帰りに駅前へ寄って、家で頼まれたものを買うつもりだった。灯は練習の予定があるのかもしれないが、まだ聞いていない。
今は、同じ部屋で、それぞれの机の番号を数えていた。
「……五十九、六十。全部あるよ」
「こっちも合ってる。じゃあ、封筒閉じて」
澄は札を重ね、封筒の口を折った。ぱり、と軽い音がした。今朝から何度も聞いた、紙がきれいに揃ったときの音だった。




