第7話 待ち合わせの理由
菜々の空を壁から下ろすと、そこだけ廊下が妙に白くなった。
七月下旬の金曜日。午前中の終業式を終えた校舎では、開け放した窓から蝉の声が入り、教室へ戻る生徒の上履きが階段をぱたぱた鳴らしていた。美術部の夏展示も今日で終わりで、澄は菜々に頼まれて作品の片づけを手伝っていた。
「澄、そっち、もう少し上げて。角をぶつけると先輩に怒られる」
「菜々の絵なのに?」
「先輩が貸してくれた板のほう。絵は私が怒る」
「じゃあ、どっちにしても気をつけないと」
澄が下の角を支えると、菜々は脚立の上から作品をゆっくり外した。短い前髪が汗で額に貼りついている。絵の裏側には、展示用に取りつけた細い紐と、何度も貼り直した紙テープが残っていた。
『晴れる前』。
近くで見ると、広い曇り空の下の青緑が、最初に美術室で見たときより深くなったように感じる。絵自体は変わっていない。廊下でいろんな人が立ち止まるのを見てから、澄の目がそこを探すようになったのだ。
「終わっちゃったね」
「うん。明日からは、見たい人が勝手に通ってくれない」
菜々は残念そうに言ったが、少し得意そうでもあった。澄が手を貸して壁際の板の上に絵を伏せると、菜々は角に保護紙を当て、先輩から教わったとおり紐を結んだ。
「感想、けっこう集まったの?」
「思ってたより。『海が細い』は三人。『雨が降りそう』は四人。『池』は澄が聞いた一人だけ」
「数えてたんだ」
「数えるつもりなかったんだけど。毎日書いてたらね」
菜々は作業用の袋から小さなメモ帳を出した。感想の言葉が日付ごとに並び、ところどころに怒った顔や魚の落書きがある。
「……この魚、何?」
「『池』のところに描いた。池でも魚はいるでしょ」
「海にもいるよ」
「どっちでもいい魚なの」
菜々はメモ帳を閉じた。『池』の横に描かれた魚の尾が、頁の隅から少しはみ出していた。
「夏休み、澄は何するの?」
「宿題と、ちょっと街を歩こうかな。暑くない時間に」
「録音?」
「うん。駅の踏切とか、商店街の夕方とか。聞いたことあるのに録ってない音、まだあるから」
「いいね。私は川のほう行きたい。水面の写真を撮りたいんだ。次の絵に使うかはわかんないけど」
菜々は画面に収まりきらない絵を一度見下ろした。
「今度一緒に行かない? 川沿いに新しいパン屋ができたんだって。私は橋から写真撮るから、澄は好きな音を探してていいし」
「……うん。行きたい」
「じゃあ、来週の天気見て決めよ。晴れすぎると白く飛ぶから」
「菜々って晴れるの嫌いになった?」
「嫌いじゃないよ。注文が多いだけ」
菜々は笑いながら作品の紐を結び直した。二人で板を抱えて美術室へ戻る途中、階段の踊り場に夏休みの部活動予定表が貼り出されているのが見えた。美術部の欄にも、菜々が出る日の印がいくつか入っている。
澄は、夏休みになっても菜々と話す機会はあるのだと、当たり前のことを思った。
そういえば、野崎灯とは連絡先を交換していない。
夏の間は、学校で偶然顔を合わせることもない。笛の練習がどうなったのかを聞きたいと思っても、聞ける相手が目の前にいないのだ。
聞きたいことは、ほかにもあった。
正しくは、言わなければいけないと思っていることが一つあった。
*
美術室の片づけを終えて教室に戻ると、灯は窓際で鞄の中身を入れ直していた。耳の下で結んだ黒髪が、首を傾けるたび短く揺れる。机の上には教科書と、折り目のついた小さな紙が並んでいた。
「野崎さん。まだいたんだ」
「夏休みの予定、写してた。家のほうの用事と重なると困るから」
灯は紙を鞄にしまった。自分で決めた予定を忘れないように、ひとつずつ確認しているのだろう。澄はその横に立ったまま、持っていたハンカチを折り直した。
「雨宮さん、何か用?」
「うん。ちょっと……話したいことがあって」
「今?」
灯は教室を見渡した。終業式のあとで残っている生徒は少ないが、誰かがロッカーの扉を開け閉めしている。廊下からも笑い声が入ってくる。
「ここじゃ話しにくいこと?」
「うん。できれば、人のいないところで」
「私の笛の話?」
「……違う。最初の、雨の日のこと」
灯の手が鞄の留め具の上で止まった。
窓際で蝉が鳴き始め、澄は声を落とした。
「あの日、ついて行った理由。まだちゃんと話してなかったから」
「うん。知ってる」
灯は短く答えた。忘れたわけではなかったのだ。そのことに少し緊張したが、驚きはしなかった。
「今日なら、帰りに少し時間あるけど」と灯が言う。
「あ、今日は菜々と片づけしてたから、帰るのが遅くなってて……。野崎さんも用事あるよね」
「ある。集会所に届けるもの。だから、今日はもうあんまり長く話せない」
灯は腕時計を見た。
「明日は? 午後、集会所で秋祭りの準備をする。夕方には終わると思う」
「私も、明日は商店街のほうへ音を探しに行くつもりだった」
「じゃあ、終わったあと。五時くらい。集会所の横の広場、知ってる?」
「うん。木の下にベンチがあるところ」
「そこでいい?」
「……うん」
簡単に約束が決まったことに、澄はかえって落ち着かなくなった。明日と言ってしまえば、明日は来る。それを避けたかったわけではないのに、鞄の紐を握る手に力が入る。
「ただ」と灯が付け加えた。「明日になって、やっぱり言えないってなるなら、先に言って。待ってた時間がもったいないから」
「……わかった。言うよ」
灯は澄を見た。いつもの真顔だったが、すぐには返事をしなかった。
「じゃあ、五時」
そう言って教科書を鞄に入れた。
澄は自分の席へ戻り、スマホの予定に「土曜 五時 楠坂」と打った。時計を持たない澄は、これがないと時間を見失うことがある。通知も設定しようとして、画面を見つめた。
その予定は、灯のものでもある。
土曜日の夕方を、澄の話のために空けてもらった。
だったら今度こそ、途中で天気の話に変えたりしない。
*
土曜日の商店街は、制服のときと歩く速さが違った。
澄は薄いシャツの袖をまくり、日陰を選んで坂を下った。六月には紫陽花が咲いていた石垣の上で、今は背の高い草が風に揺れている。カレー屋の前にはランチを待つ人が二人、古い履物店の跡にできた雑貨屋では、涼しげなガラスの小鉢が並んでいた。
レコーダーは鞄の内ポケットにある。薄くなった赤い印の録音ボタンを、今日はまだ押していない。
駅のほうで踏切を録るつもりだったが、昼間は車や人の声が多く、澄が聞きたい遮断機の音はすぐ別の音に隠れた。少し耳を澄ませてみたが、今は録らないことにした。夕方にもう一度来れば、また違うかもしれない。
代わりに、商店街の裏道に入った。
家と家の間に低い風が通る。店の裏口で空き箱をつぶす音、少し離れた家の洗濯機が脱水を終える音。古い瓦屋根の軒先には、銀色の小さな風鈴が一つ掛かっていた。五月の古道具屋で録った三つとは違う、乾いた短い音だった。
澄は道路の端に立ち、周りの家の人の声が入らないのを確かめてから、レコーダーを取り出した。
風が止む。
また吹く。
ちり、と一度鳴った。
録音時間が一分を越えたところで、澄は停止ボタンを押した。いったん鞄へしまい、それからスマホを出す。
四時二十分。
約束までまだ時間がある。
商店街のパン屋には、午後の焼き上がりを知らせる札が出ていた。六月、灯とパンを食べた店だ。澄は店に入って小さな塩パンを一つ買い、紙袋を持って集会所のほうへ歩いた。
途中で、何度か言葉を並べてみた。
あの朝、あなたの近くに文字が見えた。
いつもと違う言葉だった。
だから、心配になった。
どこまでなら信じてもらえるだろう。
考えて、澄は途中でやめた。信じてもらえる部分だけを選んだら、また本当の理由を隠すことになる。
集会所の裏手からは、人が出入りする音がしていた。
広場の木陰に着くと、開いた窓から板を重ねる乾いた音が聞こえる。誰かが数字を読み上げ、別の誰かが「それ、そっちの箱」と返していた。子どもたちが走り回る様子はない。今日は大人も手伝って、秋祭りで使う道具を確認しているらしかった。
澄は入口のそばにいた管理の女性に会釈した。六月に椅子を運んでいた人だ。
「あら。今日は練習じゃないよ。道具の数を確かめてるところ」
「あ、はい。待ち合わせで来ました。邪魔にならないよう、広場にいます」
「そう。そこなら涼しいよ。まだちょっと片づけるから、玄関の前は空けといてね」
女性は木箱の取っ手をつかみ、奥へ戻っていった。背中に「今年は灯りの線を先に見なきゃ」と声がかかる。「それは九月!」と返事があり、誰かが笑った。
秋祭りは、秋だけのものではないらしい。
澄は木陰のベンチに腰掛けた。鞄の中で紙袋が少しつぶれたので、塩パンを取り出して食べる。まだ温かく、表面についていた塩が指先に残った。
五時前になると、集会所から何人かが出てきた。折り畳み椅子を運ぶ人、段ボールを抱えた人、紙の束をめくりながら話す人。それぞれの手元が忙しそうだった。
灯は最後のほうに出てきた。
制服ではなく、薄い白いTシャツに紺色のズボン。低く結んだ黒髪の首筋に短い毛が張りついている。腕時計はいつもと同じで、片手には紙が三枚ほどあった。
「雨宮さん。早かった?」
「ううん。私がちょっと早く来たから」
「まだ全部終わってないけど、私の分は終わった。五時から別の人が来るって」
灯は紙を一度揃え、鞄の脇へ差し込んだ。
「何してたの?」
「提灯を掛ける場所の番号を写してた。去年の紙と違うところがあるから。あと、合奏で立つ位置、秋になったら人数が決まるんだって」
「もう立つ場所まで考えてるんだ」
「決まったわけじゃないよ。私が入れるかどうかも、まだ。今は誰が何を確認するか、先に決めてるだけ」
灯は腕時計を見てから、ベンチの端に座った。
「あと、次の練習で隣の人に頼むことができた」
「頼むこと?」
「私が入る直前のところ、一緒にやってもらう。自分の中で数えるだけじゃ、また遅れるから。向こうの人にも迷惑じゃない時間を聞いてきた」
「……そっか」
「何。今の『そっか』、ちょっと長い」
「野崎さん、自分から頼むの、慣れてそうだなって」
「慣れてない。今日、練習の人に会ったときも、言う前に二回水飲んだ」
「二回」
「一回目は喉が渇いてた。二回目は別に渇いてなかった」
澄が笑うと、灯も少しだけ笑った。
笑いが収まったあと、風が通って、ベンチの上の木漏れ日が揺れた。
「それで」と灯が言った。「雨宮さんの話は?」
澄は紙袋を小さく畳んだ。
灯は身体ごと澄のほうに向いていた。向かい合えば、逃げ道のない視線だ。けれど今日、そうしてほしいと思ってここへ来たのは澄のほうだった。
「六月の、看板が落ちた日。朝、教室で野崎さんを見たの」
「うん」
「野崎さんの肩の近くに、文字が見えた」
「文字?」
澄はうなずいた。
「誰かの近くに、ときどき短い言葉が出ることがあって。私だけに見えるみたいで。『忘れる』とか、『転ぶ』とか。そういうのが、あとから本当に起こることがあるの」
灯の柔らかな眉が寄った。
「ちょっと待って。実際に、空中に?」
「うん。黒い文字。選んで見られるものじゃなくて、いつ出るかもわからない。場所とか時間も書いてない」
「……そういう話、今まで誰かにした?」
「してない。野崎さんが初めて」
灯は足元の砂利に目を落とした。指先で紙の端を揃えていたが、もう紙は鞄の中だ。それでも手だけが同じ動きをしている。
澄は続けた。
「その朝、野崎さんの近くに出たのが、『今日死ぬ』だった」
灯の手が止まった。
しばらく、二人の間に言葉はなかった。
集会所の窓が一つ閉まる音がした。蝉が鳴いていて、広場の向こうでは自転車のブレーキが短く鳴った。
「……私が?」
「うん」
「死ぬって?」
「うん」
灯はまっすぐ澄を見た。
「それで、学校で変なこと聞いてきたの?」
「……そう。傘があるかとか、帰りに寄り道するかとか」
「じゃあ、あの尾行も?」
「うん。怖くて、でも何が起きるかわからなくて。声をかけたら説明しなきゃいけないから、ずっと後ろをついて行った」
口にした途端、説明がずいぶん短いことに気づいた。
一日中、何度も灯の足元を見たこと。声をかけ損ねて、違う方向へ曲がったこと。看板が落ちる前に、灯が立ち止まってくれたこと。
自分の中ではあれだけ長い一日だったのに、言葉にすれば数行だった。
「……その文字、いつ消えたの」と灯が聞いた。
「朝。授業が始まる前には消えた」
「じゃあ、帰りには見えてなかった?」
「うん」
「なのに、私について来た」
「……消えたからって、何も起きないとは思えなかったから」
灯は息を吐き、背もたれに寄りかからず座り直した。
「それ、本当なのか、私にはわかんない」
「うん」
「看板が落ちたのは見たよ。雨宮さんが音に気づいたのも。でも、見えたっていう文字は私、見てない」
「……うん。信じてもらえるもの、何もない」
灯はすぐには返さなかった。
「そもそも、自分が死ぬって聞かされて、はいそうですか、って言えるわけないでしょ」
「……そうだよね」
「私、あのあとも普通に学校来てたし。夏の練習にも行ったし。今日だって、紙を数えてた」
灯は鞄を指で押さえた。
「その間、雨宮さんだけ、私が死ぬはずだったかもしれないって考えてたってこと?」
澄は答える前に、唇を噛んだ。
「……うん。最初は、そういうふうに見てた。今でも、ときどき事故のことは思い出す」
灯は視線を外した。怒っているのか、困っているのか、澄にはわからなかった。髪の結び目に落ちた木漏れ日だけが、少しずつ位置を変えていた。
「嫌だな、それ」
ぽつりと灯が言った。
澄は頷いた。弁解したい言葉はいくつも浮かんだが、何も口にしなかった。
「だって、私は私で、今まで通りにしてたつもりだったのに。雨宮さんには、ずっとあの日の続きに見えてたんでしょ」
「……そう、だったかもしれない」
「『かもしれない』じゃなくて、そこは雨宮さんが決めて」
「……見てた。野崎さんが普通にしてるのを見て、安心したかった。でも、笛の話を聞いたり、菜々の絵を一緒に見たりしてるときは、そっちが面白かった。それも本当」
灯はしばらく澄の顔を見ていた。
「じゃあ、なんで今、言ったの?」
澄は紙袋の折り目を指でなぞった。ここでまた曖昧にしたら、土曜日の夕方まで時間を空けてもらった意味がない。
「野崎さんと普通に話したいと思うほど、最初のことを隠したままなのが気になった。私が何を見て、何を怖がってたのか、野崎さんだけ知らないままにしてたから」
「言ったら、すっきりすると思った?」
「少しは……思ったかもしれない。でも、野崎さんがどう思うかは、私が決められない」
灯が小さく鼻から息を出した。
「そこはそうだね」
集会所の奥から、管理の女性の声がした。誰かに鍵の場所を伝えているらしい。いつの間にか五時を回っていて、広場の影も伸びていた。
「私、今すぐ信じるとは言えない」と灯が言った。「でも、嘘だって決めるのも、ちょっと違う。あんな看板、実際に落ちたし」
「……うん」
「あと、理由を聞けたからって、後ろをついて来てよかったことにはならないから」
「わかってる。もうしない」
「うん。それは前にも聞いた」
澄は口を閉じた。同じことを繰り返して安心したいのは、自分のほうだった。
灯は腕時計を見た。何か言いかけてやめ、もう一度澄へ向き直る。
「ひとつ、聞いていい?」
「うん」
「私があの日止まったの、雨宮さんがついて来てたからだよね」
「そうだよ」
「私、何してるのって聞きたくて止まった。怖い文字があったからじゃない。それは覚えてて」
澄は頷いた。
「覚えてる」
灯はそこでようやくベンチから立ち上がった。
「今日は、もう帰る。少し考えたい」
「……うん。話、聞いてくれてありがとう」
「聞くって約束したから」
それは突き放すようにも、いつもの灯らしくも聞こえた。
鞄を肩に掛けると、灯は集会所のほうへ一度振り向いた。窓際に積まれた箱がまだ二つ残っている。
「来週の練習は行くよ」と灯が言った。
「うん」
「それと、笛のことは学校で言わないで。これは前と同じ」
「わかった」
灯は一つ頷き、広場の出口へ歩いていった。道に出る前、背中越しに手を軽く上げたが、こちらを振り返りはしなかった。
澄は立ち上がらず、膝の上の紙袋を見た。
思っていたより、ずっと苦しかった。
話せばわかってもらえるとは思っていなかった。それでもどこかで、理由を言えば灯が少し安心してくれるのではないかと期待していた。
自分が安心したかったのと同じように。
ベンチの下を、小さな蟻が何匹も行き来していた。紙袋から落ちた塩の粒を運ぼうとしているらしい。澄は指先でその粒を拾い、袋の中へ戻した。
集会所の入口が開き、さっきの女性が外へ出てきた。
「あれ、灯ちゃん帰った?」
「はい。今」
「そう。あの子、番号の書き間違い見つけてくれて助かったよ。こっちは去年の紙のままだったからね」
女性は片手の書類を風から守るように胸へ寄せ、広場の端にある物置を確かめに行った。澄が知らないあいだ、灯は自分の予定を進めていた。さっきの会話があっても、番号を書き直した事実は消えない。
澄はスマホで時間を見た。五時半を過ぎている。
夕方の踏切なら、今からでも間に合いそうだった。
鞄を持って広場を出る。商店街の表通りでは、夕食の買い物をする人たちが店を行き来していた。パン屋の店先に残っていた塩パンは、昼に見たときより少なくなっている。
澄は駅のほうへ歩いた。
踏切の近くまで来ると、警報器が鳴り始めた。かん、かん、と一定の間隔で響く音に、遮断機のモーターが重なる。待っている自転車の人が片足を地面につき、向こう側では部活帰りらしい生徒が水筒を飲んでいた。
澄は少し離れた歩道の端で立ち止まり、レコーダーを取り出した。赤い印の薄くなったボタンを押すと、見慣れた小さなランプが点く。
電車が通る。踏切の音がいったん車輪の響きに埋もれ、最後の車両が過ぎると、またはっきり聞こえてきた。
遮断機が上がる。
待っていた人たちが動き出し、警報器が止まった。
澄は録音を止めた。
今日は、前から聞きたかった音が録れた。
再生して確かめるのは家に帰ってからでいい。澄はレコーダーを鞄にしまい、青になった横断歩道を渡る人たちの後ろについた。
スマホには、菜々からメッセージが来ていた。
『絵、ちゃんと棚に入った。川は来週の水曜か木曜どう? 曇り希望』
澄は立ち止まらず、信号を渡りきってから返信した。
『水曜なら行けるよ。私もその日、川の音を聞きたい』
すぐに『じゃあ水曜! パン屋も忘れずに』と返ってきた。
澄は画面を閉じた。踏切の警報器はもう鳴っていない。かわりに、夕方の駅前を行き交う人の足音が、あちこちから聞こえていた。
次に会ったとき、灯とこれまでと同じように話せるかどうかはわからない。
けれど今は、灯からの返事を待つために、立ち止まっている必要はなかった。
澄は鞄を持ち直し、家へ向かって歩き出した。




