第6話 晴れる前の廊下
七月の二週目、学校の一階廊下に、菜々の空が掛かった。
「……ちょっと右」
「私の右?」
「今回は澄の右。手、もう少し上」
平井菜々は脚立の二段目に立ち、作品の上辺を壁の金具に掛けようとしていた。澄は下で台紙の角を支えている。天井近くの窓から風が入るたび、廊下に並んだほかの絵の説明札がかすかに揺れた。
美術部の夏展示は今日からだ。大きな作品は先輩が掛けてくれたものの、最後に高さと位置を直すのは菜々自身がやりたいと言った。朝の授業が始まる前、展示当番の部員と一緒に用意をしているところへ、澄も手を貸しに来た。
「よし。離していいよ」
菜々が降りてくるのを待ち、澄は一歩下がった。絵は前に希望を出した、窓側ではない二番目の位置に収まっていた。隣の作品との間も、通行の邪魔にならないよう十分に空いている。
広い曇り空、紫がかった雲、低い水平線。その下の海は、澄が見たときより青緑が少し落ち着いて見えた。美術室とは光が違うのだ。
菜々は絵の横に小さな札を差し込んだ。
『晴れる前』 平井菜々
「これにしたんだね」
「うん。海って書きたくなかったし、でも天気は入れたかった。帰りの電車で晴れたから、その少し前」
「いいと思う」
「澄、題名には甘いなあ」
「まだ何も聞いてないのに、変って言わないでってメッセージしてきたの菜々だよ」
「先手を打ったのに効かなかった」
菜々は笑ったあと、札をもう一度押さえた。短い前髪の下で、額に小さな汗が浮いている。
「でも、ここから見ると海がますます細いね」
「美術室より、ちょっと遠くから見る人が多いかも」
「だよね。……直したいとは思わないけど、どんなふうに見えるんだろ」
答える前に、階段から生徒たちが降りてきた。朝練を終えたらしい運動部の二人が、髪を乾かしきらないまま廊下を歩いてくる。
「あ、展示始まったんだ」
「この雲、雨降りそう。夏なのに涼しそうでいいな」
「海? これ」
「下の青いの、そうじゃない?」
二人は言葉を交わしながら通り過ぎていった。菜々は背中を目で追い、絵へ視線を戻す。
「……海ってわかるんだ」
「一人は、ちょっと迷ってたね」
「それが聞きたかったんだよ。ほら、私、ずっとこれが海だって知って見てたから」
そのとき、後ろからまた生徒が来た。澄は反射的に一歩下がろうとして、作品の前にまっすぐ立っていた自分に気づいた。人に見てもらうための絵なのに、作った本人と二人で道を塞いでいる。
「菜々、こっち」
澄は掲示板の端まで移った。菜々も一緒に寄ったが、途中で脚立の脚につまずきかけ、慌てて壁に手をついた。
「危な。あれ、片づけてないの誰」
「菜々だよ」
「展示当番、仕事が多いなあ」
「当番のせいにしないほうがいいかな」
菜々は脚立を抱えて美術室へ運んでいった。残された澄は、少し離れた壁際から絵を眺めた。
上の階から降りてきた子が二人、作品の前で足を緩める。一人は札を読み、一人は絵の上のほうを見た。
「晴れる前、だって」
「私、これ山だと思った」
「山なら下の青、何?」
「池とか?」
澄は口を開きかけた。
海だよ。雲の下に、細い水平線があるんだよ。
そう言えば簡単だった。でも、二人は澄に尋ねているわけではない。菜々もさっき、どんなふうに見えるか聞きたいと言った。
澄は黙って、二人が次の絵へ歩いていくのを見送った。
自分の好きな絵について何も言わないのは、少しもどかしかった。
*
昼休みには、展示の前を通る人がぐっと増えた。
食堂へ向かう生徒もいれば、一階に降りる用事のないクラスから、わざわざ見に来たらしい子もいる。作品ごとに立ち止まる時間はばらばらだった。入口に近い鮮やかな花の絵には何人も集まり、菜々の空の前を通り過ぎる人もいた。
澄は菜々に頼まれた予備の作品札を美術室へ届けたあと、廊下を戻ってきた。菜々は当番の腕章をつけ、奥の作品の説明が傾いていないか確かめている。
「澄、もうご飯食べた?」
「うん。菜々は?」
「まだ。先輩が戻ったら交代する。朝から何もしてないみたいにお腹空いた」
「朝は脚立運んでたよ」
「そうだった。ものすごい重労働だった」
小柄な脚立を一つ運んだだけなのを澄は知っていたが、そこは黙っておいた。菜々は腕章を指で直し、絵の前にいる一年生らしい二人へ目を向けた。
「見に来てる人の顔、つい見ちゃう。失礼かな」
「私は、菜々のほうを見ちゃうよ」
「なんで」
「すぐ前髪を触るから」
菜々の指がぴたりと止まった。ちょうど短い前髪を整えているところだった。
「……だって落ち着かないんだもん」
一年生たちが離れると、今度は同じ学年らしい二人がやって来た。片方が菜々の絵の前で立ち止まる。
「雲、すごいね。けどちょっと暗くない?」
「私、下の水の色が好き。海じゃない? あの線」
「え、海か。じゃあ、晴れてるとこも描けばよかったのに」
その言葉に、菜々の指がもう一度前髪へ伸びた。
澄も少しむっとした。晴れていないからこその絵なのに。菜々が子どものころ見た曇り空を、大きな紙いっぱいに描いたのに。
「晴れたところは――」
つい声が出た。
話していた二人が振り返る。菜々もこちらを向いた。
澄は言葉を止めた。今のまま続けたら、菜々の思い出を代わりに説明することになる。それは自分が聞いた話であって、通りすがりの人たちが絵から見つけたものではない。
「あ、えっと。通路、反対側からも人が来るから、少しこちらに寄ってもらっていいですか」
澄は実際に後ろから来ていた生徒たちを手で示した。二人は「あ、すみません」と道を空け、そのまま別の作品へ移った。
菜々が小声で言う。
「いま、言い返そうとした?」
「……ちょっと。ごめん」
「なんで澄が謝るの。私の絵なのに」
「そうだよね」
「でも、晴れてるところも描けって言われるとは思わなかった」
菜々は口を尖らせたあと、少し笑った。
「ちゃんと見たうえで言ってるなら、まあ、そう思う人もいるよね。でも描き足すつもりはない」
「うん」
「……晴れたら、あの海の色じゃなくなるもん」
菜々はそう言って、画面の端を見た。手を伸ばしそうになって、実際には触れずに戻す。
「澄、あとで私がいないとき、誰か何か言ってたら教えてくれる?」
「いいけど、全部は覚えられないかも」
「全部じゃなくていい。『よかった』だけでもないほうがいい」
「……さっきみたいなのも?」
「うん。ちょっと腹は立つけど、展示したんだから、聞きたい」
澄は頷いた。
通りがかった人の目が、作品札から絵のどこへ動くのか、もう少し見ていたかった。菜々が席を外しているときも、自分はこの絵を見に来たい。
「じゃあ私、次の休み時間にも見に来る」
「澄の授業、上の階でしょ。わざわざ?」
「うん。私が見たいから」
菜々は一度きょとんとして、笑った。
「じゃ、お客様第一号ってことで。いや、朝からいたか。何号でもいいや」
先輩の部員が交代に来たので、菜々は腕章を外した。食堂へ向かうときにも二度、展示のほうを振り返った。
*
翌日の放課後、澄は図書室で借りた本を返してから、一階の廊下へ降りた。
菜々の絵の前には、誰もいなかった。午後の光が窓を斜めに通り、床の上に四角い明るさを作っている。澄は少し離れた場所から眺め、それから近づいた。
遠目には、確かに空ばかりだ。
足を進めると、下の細い海に重ねられた青が少しずつ見えてくる。いちばん手前の緑がかった線は、光が当たるとまだ濡れているように見えた。菜々が先月、文具屋で迷って決めた絵の具の色だ。
「雨宮さん」
斜め後ろから声がした。振り返ると、野崎灯が数歩離れたところに立っていた。黒髪は耳の下で一つに結ばれ、腕時計をした左手で小さく折った紙を持っている。
「野崎さん。帰るところ?」
「うん。雨宮さんは絵を見に来たの?」
「うん。菜々の」
「昨日も見てたよね」
「……知ってたんだ」
「階段を下りたらいるから」
灯は絵を見上げた。澄が一歩横に寄ると、空いた場所に立って、札まで目を動かす。
「『晴れる前』か。晴れたところは描いてないんだね」
「うん。菜々は、この曇り空を描きたかったんだって」
「へえ。海、細い」
「そう。けっこう迷ってたみたいだけど、そのままにしたの」
「それでいいと思ったなら、いいんじゃない?」
灯は絵から二歩離れた。近くで見ていたときとは違い、少し首を傾ける。
「遠いと水面がわかんない。でも、雲の下が重そうなのはわかる」
「重そう?」
「風が来る直前みたい。傘、ひっくり返りそうな感じ」
澄は思わず笑った。
「野崎さん、傘のこと思い出すんだ」
「この前ひっくり返しかけてたの、雨宮さんでしょ」
「……そうでした」
灯も口元を緩めた。けれどすぐに腕時計を見る。
「私、行くね。用事あるから」
「うん。あ、ちょっとだけ聞いてもいい?」
灯が足を止め、身体を向け直した。その動きに澄の胸が一瞬だけ強く打った。古い看板の前で、同じように立ち止まった姿がよぎる。
灯は今、普通の廊下に立っている。窓から入る光が制服の袖を明るくしている。
「何?」
「あの、夏の合同練習、いつだっけ」
「今度の日曜」
「もうすぐだね」
「うん。だから今日は先に帰る。家で確認したいところがあるから」
澄は頷いた。もう少し話したい気持ちはあったが、灯には灯の時間がある。
「……どんなところを確認するの?」
「曲の途中で入るところ。自分で吹くと、その前に鳴ってる音を聞き逃すんだよね」
「前に鳴ってる音?」
「一人だと自分の順番で進められるでしょ。でも、何人かで吹いたら、ほかの人は待ってくれない。何を合図に入ればいいか知りたい」
灯は左手の紙を広げた。小さな印の並んだ譜面らしかったが、澄に読める形ではない。灯はすぐ半分に折って鞄へしまった。
「とりあえず、先生役の人に聞いてくる。『下手だからどうしたらいいですか』じゃ、向こうも困るだろうし」
「……うん。そこまで考えてるんだ」
「わかんないから聞くんだよ」
灯は当然のように言った。澄はそのあと、思い切って尋ねた。
「行ってみて、何が違ったか、あとで聞いてもいい?」
「私が失敗した話?」
「失敗したかどうかじゃなくて……一人のときと、何人かのときって、何が違うのかなと思って」
灯の柔らかな眉が少し上がる。
「雨宮さん、音のことになると、話が細かいね」
「野崎さんほどじゃないと思うけど」
「私、細かい?」
「うん。……あ、嫌な意味じゃなくて。聞きたいことがいつも決まってるから」
灯は一瞬考え、折った譜面を鞄の奥へ押し込んだ。
「じゃあ、終わって話せることがあったら。何もわからなかったら、何もわからなかったって言う」
「うん。それでいいよ」
澄が答えると、灯はようやく歩き出した。階段のほうへ行く途中、振り返らずに手を一度だけ上げる。澄も小さく手を上げたが、向こうからは見えなかっただろう。
澄は作品の前へ戻った。菜々の絵から、自分には聞こえない風の音を思い浮かべた。
*
日曜日の午後、澄は家で録音ファイルを整理していた。
窓の外では近所の子どもが自転車に乗る練習をしている。母親らしい人の「そこはブレーキ」という声が聞こえ、タイヤが小石を踏む音が続いた。澄はレコーダーを机の上に置いたまま、その音を聞いていた。
録りに行きたくなる音ではある。でも今日は、先月から付けそびれていたファイルの名前を整理すると決めていた。
六月最後の土曜日の四十秒を再生する。足踏み板が戻り、車輪が回り、針が布を送る。音が途中で速くなり、また落ち着く。
澄はスマホのメモに「楠坂洋装店・足踏みミシン」と打った。もう少し何かつけたかったが、これだけで十分だと思い直す。レコーダー側のファイル名も同じに変えた。
その四十秒を聞いた灯が、踏む速さを気にしていたことを思い出す。
今日は合同練習の日だ。
集会所でどんな音がしているのか、少し気になった。しかし誰が来ているのかも、何時に終わるのかも知らない。
知っていても、そこへ行く理由にはならない。
澄は机の上にレコーダーを戻した。再生が終わったあとの静けさに、窓の外から自転車のベルが一度だけ混じった。
その音を聞きながら、今度の休みに録りたいものをメモしていく。商店街の古い店の軒先。駅の階段にある金属の手すり。夕方の踏切。
予定はまだ決めなくていい。澄が自分で行って、自分の耳で聞いてみたい場所だ。
*
月曜日、昼休みの終わり近くになって、灯が教室へ戻ってきた。
澄は窓際で菜々と展示の話をしていた。菜々は朝、美術部の先輩に「下の青が好きだった」と言われたらしい。澄が展示初日に見かけた「山か池」という感想を伝えると、菜々は一瞬口を尖らせてから、思ったより大きな声で笑った。
「池なら、ずいぶん風の強い池だね」
「私は海に見えるけど」
「澄は知ってるから。……でも、そう見た人がいたのも面白いかも」
菜々はメモ帳を開き、「池?」と書いた。すでに「雲」「青の細いところ」「雨が来そう」など、いくつかの言葉が並んでいる。
「作品の横に貼るの?」と澄が聞く。
「貼らないよ。自分用。次の絵の参考になるかは、まだわかんないけど」
「じゃあ、あの『晴れたところも描けば』は?」
「それは忘れない。悔しいから」
菜々は真剣な顔で言ったあと、自分で笑った。
「美術室に行ってくる。今日、ほかの作品の当番もあるから。澄、またあとで」
入れ替わるように灯が近づいてきた。菜々とはすれ違いざまに短く挨拶を交わし、教室の後ろの席で何人かがしゃべっているのを確かめてから、澄の机の脇に立った。
「雨宮さん。日曜のこと、ちょっと話せる?」
灯は周囲に届かないくらい声を落としていた。
澄は思わず椅子を引いた。
「うん。聞きたい」
「じゃあ、立たなくていい。そんな長くないから」
澄は半分浮かせた腰を戻した。灯はいつものように腕時計を確かめ、それから話し始めた。
「一回目、最初の入り方から間違えた」
「……えっ」
「周りが吹き始めるのを見てから自分も構えたら、遅かった。合わせる練習なのに、音を出す前にずれるってどういうこと、ってなった」
言い方は普段と同じだったが、灯は鞄の持ち手を指でぎゅっと握っていた。
「隣の人、私より年上で。『息を吸うところも見て』って言われたんだ。音が鳴ってからじゃ遅いからって」
「……そうなんだ」
「一人でやってるとき、息を吸うのは自分の都合だった。でも、ほかの人が構えるところ見てたら、次にどこで始まるか少しわかった」
灯は指先を机の端へ置いた。何かを鳴らすでもなく、指を浮かせて止める。
「ただ、わかったと思ったら、自分の音が出なくて。そこで焦ったら、もう次もわかんなくなった」
「……それは、悔しいね」
「うん。めちゃくちゃ悔しい」
灯は即答した。
澄は笑いそうになったが、その指先がまだ机の上で止まっているのを見て、笑わなかった。
「でも、一回だけ、休むところが合った」
「休むところ?」
「自分の音を出さないで、ほかの人を聞いてるところ。次に入る前の、何拍か。そこだけはずれなかった。私が吹いてないんだから、そりゃそうって感じもするけど」
「そんなことないと思うよ。……あ、ごめん。私、笛のこと知らないのに」
「いい。今のは、私もそう思ったから話した」
灯は机から指を離し、肩の力を少し抜いた。
「指だけじゃなくて、先に周りを見る。聞く。それが足りなかったって、わかった。次の練習までに、入り方を決めておく」
「次も、行くんだね」
「行く。向こうも、次までにこの部分をやってみてって言ってたし。まだ秋に出られるって決まったわけじゃないけど」
澄は灯の顔を見た。少し汗ばんだ額、柔らかな眉、考えると唇を結ぶ癖。六月の集会所で出なかった音の話をしていたときとは違って、今は自分の足りないところを具体的に話せるようになっている。
「野崎さん、話してくれてありがとう」
「雨宮さんが聞きたいって言ったから」
「うん。でも、聞けてよかった」
灯は少し迷うように口元を動かし、それから言った。
「……次のとき、もしまた遅れたら、何が先に鳴ってたか覚えてくる。雨宮さん、そういうの好きでしょ」
「好きだけど。無理に覚えなくてもいいよ」
「無理じゃない。私も知りたいから」
澄は頷いた。灯は自分のために確かめることを、こちらの興味とも重ねて話してくれている。それが少しうれしかった。
予鈴が鳴った。
「じゃ、席戻る」と灯が言う。
「うん。またあとで」
灯が教室の前へ戻っていく途中、菜々が廊下から駆け込んできた。手には新しい作品札用の厚紙を抱えている。
「澄! さっきの『池』、もう一回教えて。絵のどこを見てそう言ってた?」
「えっと、たぶん下の青が……」
「たぶんじゃなくて、覚えてるとこだけでいい!」
菜々は勢いよく言い、予鈴を聞いて慌てて自分の席へ走った。澄は返しかけた言葉を飲み込み、五時間目の教科書を取り出した。
教室の向こうでは灯が鞄からノートを出している。廊下の先には菜々の『晴れる前』が掛かっていて、午後も誰かが立ち止まるだろう。
澄は教科書の間から小さな付箋を一枚出し、端に「下の青を見て『池とか?』」と書いた。菜々があとで続きを聞けるように、忘れないうちに。
その文字を書き終えたところで、本鈴が鳴った。




