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第4話 まだ鳴らないところ

 六月最後の土曜日、雨宮澄は駅前のスーパーを素通りして、楠坂商店街へ向かった。


 時計代わりにスマホを確かめると、午前十時十二分。日差しはあるのに空気が湿っていて、歩くだけで制服ではないブラウスの背中が少し暑くなる。学校のある日は買い物客と下校する生徒で混み合う坂も、今日は親子連れや買い出し帰りの人が多かった。


 わざわざ休日に来たのは、足踏みミシンの音を録ってみたかったからだ。


 先週、商店街の裏通りで衣料直しの店の前を通ったとき、開いた窓から、からから、たたた、と不思議な音が聞こえた。モーターの音とは違い、早くなったり遅くなったりする。店頭には「修理もします」と書かれた紙が出ていて、窓の奥で誰かが大きな車輪を回していた。


 そのときは用事があって通り過ぎたけれど、家で録音を整理していたら、どうにも気になった。今朝、開店時間を調べてから出かけてきた。鳴らしてもらえるとは限らないし、忙しければ出直すつもりだった。


 角のパン屋から焼き立ての匂いが流れてくる。カレー屋の軒先では、小さな鉢の葉に水をやっている人がいた。例の写真館は、青い看板がなくなって壁に四角い跡だけが残っている。歩道の囲いはもう外され、通行人はみんな普通にその前を歩いていた。


 澄も歩いた。つい壁を見上げてしまったものの、足を止めはしなかった。


 衣料直しの店は、写真館からもう少し坂を下り、細い横道へ入ったところにある。曇りガラスの戸に「楠坂洋装店」と金色の文字が貼られていた。店内には丈を詰める前らしいスカートが吊られ、棚に色とりどりの糸巻きが並んでいる。


 戸を開けると、鈴がちりんと鳴った。


「いらっしゃい。お直し?」


 奥から出てきた女性が、澄の手元の鞄に目をやった。首から巻尺を掛け、袖を肘までまくっている。


「あ、すみません。服じゃないんですけど……この前、外からミシンの音が聞こえて。少し録らせてもらえないかなと思って」


「ミシンを?」


「はい。足で踏む、古いほうの」


 澄は鞄から黒い小型レコーダーを取り出し、相手が首をかしげたところで慌てて付け足した。


「お仕事の邪魔なら、また別の日にします。人の声が入らないようにしますし、音だけで」


「ちょっと待って。今、あれ動くかな」


 女性は奥を振り返った。窓際に置かれた黒いミシンは、脚のところに大きな踏み板がついている。女性が布の山をどけ、座って足を掛けると、車輪がゆっくり回り始めた。


 から、たた、からから。


 澄の肩が思わず上がった。


「あ、その音です」


「これね、最初が重いんだよ。今どきのミシンのほうが仕事は速いけど、厚いところを少し縫うときはこっちが使いやすくて」


 女性は試しに短い布端を縫ってみせた。踏み板を押す足の動きにつれて音が続き、少し遅れ、また速くなる。


「録るなら、今のうちね。十一時には裾直しのお客さんが来るから」


「ありがとうございます」


 澄は店の端、糸巻きの棚の前に立った。視線が自然と針の動きに定まり、レコーダーの録音ボタンを押す。薄くなった赤い印の隣に小さなランプが灯った。


 たたた、たた、からん。


 針が布を送る音だけでなく、足元の板が戻るときの小さな軋みも入っている。女性は最後の一針を縫い終えると、膝を寄せて車輪を止めた。


 澄は録音を終了した。四十秒ほどだった。


「ありがとう、ございました。すごくいい音で」


「それ、縫い目じゃなくて音のほうを褒めてるんだよね」


「あっ。縫い目も、まっすぐでした」


「そりゃ仕事だからねえ」


 女性は笑って、縫った布を持ち上げた。確かに針目はきれいに揃っている。


 澄は礼を言って店を出た。戸口の鈴がまた鳴ったが、こちらは録音しなかった。もっと奥にあった音を、もう一度聞いてみたい気がしていた。


     *


 商店街の角で、澄はラムネ味の小さなアイスを買った。


 食べながら坂の上へ戻るつもりが、一本横の通りに入ってみたくなった。あのミシンの音は、表通りから少し逸れたところで見つけたものだ。今日はせっかく時間がある。帰る道を決める必要もない。


 裏通りには、古い瓦屋根の家と駐車場が交互に並んでいた。角を曲がると、小さな建物の前に自転車が何台か停まっている。木製の掲示板には「楠坂集会所」の文字。入口の脇で、折り畳み椅子を運んでいる女性がいた。


「こんにちは」


 澄がすれ違いざまに会釈すると、女性は椅子を抱えたまま頷いた。


「こんにちは。今日は暑いね」


「そうですね。まだ六月なのに」


「七月はどうなるんだろうねえ。あ、そこ、通れるよ」


 澄が荷物の邪魔にならないよう足を止めると、女性が建物の脇の細い通路を顎で示した。その先は小さな広場につながっているらしい。子ども用の自転車が一台、植え込みに寄せてあった。


 澄は礼を言って通路を抜けた。広場には背の低い木が何本か植わり、木陰にベンチがある。隣の家の物干し竿では、タオルが風を受けてゆっくり揺れていた。澄はベンチに腰掛け、溶け始めたアイスを慌てて食べた。


 そのとき、細い音がした。


 ひゅ、と空気の抜けるような音。続いて、かすかに高い音が鳴りかけ、途中でほどけた。


 澄はアイスを持つ手を止めた。


 鳥の声ではなさそうだった。風鈴よりも長く、けれど楽器の音というには少し頼りない。もう一度鳴るかと思って待つと、今度は息の音だけが聞こえた。


 音は集会所のほうから来ていた。


 窓が一つ開いている。澄は建物を見上げた。中で誰かが練習しているのだろうか。学校の音楽室で聞く楽器とは違う気がするけれど、何かまではわからない。


 レコーダーは鞄の中にある。手は伸ばさなかった。


 代わりに、澄はアイスの棒を包み紙に戻して、ベンチから立ち上がった。


 何の音か、聞いてみよう。


 そう思って集会所の入口へ戻りかけたところで、さっきの女性ともう一度会った。女性は椅子を一脚、壁に寄せたところだった。


「あの、すみません。ここ、何か楽器の練習をしてるんですか?」


「ん? 奥の小部屋? 今日は個人で使ってる子がいるよ。見学の会じゃないけど」


「あ、そうなんですね。ちょっと音が聞こえてきたので」


「窓、開いてたか。暑いもんね」


 女性は廊下の時計を見た。


「あとで私が声掛けとく。十一時半には隣の部屋で子ども会の打ち合わせがあるから、その前に机を出さないと」


「ありがとうございます。じゃあ、私はこれで」


 澄が引き返そうとすると、奥の扉が開いた。


 白いTシャツに紺色の薄いパンツ。学校の制服では見ない格好の野崎灯が、細長い布袋を片手に持って出てきた。


「すみません、窓閉めます。外まで聞こえてました?」


 灯は椅子を運んでいた女性にそう尋ね、次に澄を見た。


「……雨宮さん?」


「野崎さん」


 澄は名前を呼び返してから、何を言えばいいのかわからなくなった。灯の黒い髪はいつもどおり耳の下で結ばれているが、首筋に貼りついた短い毛が汗で少し濃く見える。腕時計も学校で見慣れたものだった。


「知り合い?」と女性が言った。


「同じクラスです」と灯が答えた。返事は早かったが、視線は澄の鞄のほうへ移っている。


「雨宮さん、ここで何してるの?」


「あ、私は商店街のミシンの音を録りに来てて。それで、近くを歩いてたら、ここから音が聞こえたから」


「……聞いたんだ」


 灯は手にした布袋を背中側へ引いた。


「うん。ほんの少しだけ。何の音だろうって」


「録った?」


「録ってない。レコーダーは鞄に入ってるよ」


 澄が鞄を持ち上げてみせると、灯はひと息ついたように口を閉じた。しかし表情は晴れなかった。


「何かと思って見に来たの?」


「……うん。ごめん。見学じゃないって聞いたから、帰ろうとしてたんだけど」


「私が出てきたわけか」


 灯は片手で結び目の下を触った。普段の教室ならすぐ次の質問が飛んでくるところなのに、今はそのまま黙っている。


 女性が二人を見比べ、壁際の椅子を一脚持ち上げた。


「じゃ、私は隣を片付けてくるね。野崎さん、部屋は十一時まで使っていいよ。鍵はあとで返して」


「はい。わかりました」


 女性は奥の部屋に入り、扉が閉まった。廊下には、遠くの道路を走る車の音が届いていた。


 澄はアイスの包み紙を両手で握った。言いかけたことがいくつかあったけれど、そのうち一つだけを選んだ。


「……さっきの、何の楽器?」


 灯はすぐ答えず、布袋を見下ろした。袋の口から、竹のような薄茶色の端が覗いている。


「篠笛」


「しのぶえ」


「お祭りで吹いたりする、横に構える笛。見たことない?」


「あ、あるかも。写真では」


「なら、それ」


 灯は袋を握り直した。


「でも、今のを聞いてそうだってわかる人、いないと思う」


 澄は先ほどの細い音を思い返した。鳴りかけてほどけた、あの音。


「……私は、きれいな音になりそうだなって思ったよ」


 灯の顔が動いた。


「まだ、なってない」


「あ、うん。だから、なりそうって」


「それも、今言われると困る」


 灯の声は強くなかったが、澄は口を閉じた。


 灯は靴の先を一度見てから、澄を見た。


「下手なのはわかってるから。まだ人に聞かせるつもりじゃなかったし、上手くなりそうとか言われても、そのあと鳴らなかったら嫌なんだよね」


 言い終えてから、灯は布袋の端を指で折った。いつもなら曖昧な返事を待つ側の彼女が、言葉を探しているように見えた。


「……別に、雨宮さんが悪く言ったって思ったわけじゃない。でも、今はそういうの、いらない」


「うん。わかった」


 澄はもう一度何か付け足しかけ、やめた。褒めたつもりだったことまで説明しても、さっきと同じになる。


「私、帰るね。ミシンの音は録れたし」


「え、もう帰るの?」


「うん。今日はそれが目的だったから」


 灯は澄の鞄と、アイスの包み紙を順番に見た。


「ほんとに、こっちに来る予定はなかった?」


 澄は顔を上げた。


 看板が落ちた日のことを、灯も覚えている。そんな当たり前のことに、今になって気づいた。


「なかったよ。服のお直し屋さんのミシンを録って、アイス買って。今は……ちょっと歩きたくなっただけ」


「アイス?」


「ラムネ味の。溶けちゃうから、さっき食べた」


 澄が包み紙を見せると、灯はそれをじっと見た。


「証拠がある」


「……食べ終わった棒だけど」


「そこまで疑ってないよ」


 灯が短く笑ったので、澄もつられそうになった。けれど灯はすぐ、奥の部屋へ視線を戻した。


「あと十五分あるから、練習の続きしてくる」


「うん。邪魔しないね」


「……それと」


 灯は扉の取っ手に手を掛けたまま振り向いた。


「学校では、まだ言わないで。笛のこと」


「わかった。誰にも言わない」


 灯は小さく頷いて、部屋に戻った。


 扉が閉まる音は、思っていたより静かだった。


     *


 集会所を出た澄は、商店街の表通りに戻った。


 手元のアイスの包みを捨てられる場所がなかったので、鞄の外ポケットに入れた。レコーダーとは反対側だ。昼前の空気はますます暑く、汗ばんだ手で鞄を持ち直すたび、布が肌に貼りついた。


 頭の中では、さっきの笛の音が短く繰り返されていた。


 ひゅう、と鳴りかけて、消える。


 澄には、どうやったら音が出る楽器なのかもよくわからない。きれいになりそう、と言ったのは本当だった。あの細い音の先をもう少し聞いてみたい、とも思った。


 でも、それは灯が今聞かせたい音とは違う。


 店を出たとき、録ったばかりの足踏みミシンをすぐ再生したくてたまらなかった。今は鞄からレコーダーを取り出す気になれない。代わりに、店先に置かれた植木鉢の葉が風で擦れるのを聞いた。


「……暑い」


 小さく呟くと、通りの向こうから答えるように子どもの声がした。母親らしい人に、冷たい麦茶が欲しいと訴えている。母親は買い物袋を持ち直し、「帰ってからね」と返していた。


 澄はスマホを出し、菜々から届いていたメッセージに気づいた。


『昨日の青、乾いたら急に海になった。次の部活で見せる』


 写真が一枚添えられている。紙の端に塗った試し描きで、確かに前に見たときより少し深い青だった。


 澄は日陰に寄って返信した。


『ほんとだ。前のより海っぽい気がする。部活の展示も楽しみ』


 送信してから、次の文を打ちかけた。今日、野崎さんに会った。思わぬところで。


 その文は消した。


 菜々には別に、灯とのことを隠しているわけではない。今週だって、二人が話しているところを見ている。ただ、さっき聞いた楽器の話まで一緒になって出てしまいそうだった。


 澄はスマホをしまい、歩き出した。


 商店街の中央にある古い時計は、正午にはまだ少し早い時刻を指していた。帰りにパンでも買おうかと考え、最初の角で足を止める。さっき通った店から、人が紙袋を持って出てきたところだった。


 そこで、後ろから声がした。


「雨宮さん!」


 振り返ると、灯が広場へ続く道から歩いてきていた。細長い布袋を肩に掛け、反対の手には水筒を持っている。額の生え際が汗で湿っていた。


「野崎さん。もう終わったの?」


「時間だから。鍵も返した」


「あ、そうなんだ」


 灯は息を整えるように水筒を開け、一口飲んだ。


「……パン屋行く?」


「えっ。うん。お昼、まだだから」


「私も。家に帰る前に何か買おうと思ってた」


 澄は思わず、灯の布袋へ目を向けた。さっきより口がしっかり結ばれている。


 灯がそれに気づく。


「中、見たい?」


「……ちょっとだけ。でも、見せたくないならいいよ」


「まだ見せない。練習してから」


 灯はそう言って、袋を肩に掛け直した。


 二人でパン屋の列に並ぶ。灯は焼きそばパンの札を眺めてから、卵サンドを手に取った。澄が隣のチーズパンを見ると、灯がすかさず言った。


「それ、おいしいよ」


「知ってる。野崎さん、金曜に二個買ってたよね」


「覚えてたんだ」


「ちょっと、印象に残って」


「二個とも食べたけど。今日の昼は別のがいい」


 灯は迷いなく卵サンドをかごに入れ、レジへ進んだ。澄はチーズパンを一つ買った。袋はまだ温かく、指先に油の匂いが移る。


 店の外には、小さな腰掛けが二つ置いてあった。二人は並ばず、少し離れた場所にそれぞれ座った。街路樹の葉が揺れ、向かいの雑貨屋では、新しい商品を窓際に並べ替えている。


「雨宮さん、ミシンはちゃんと録れたの?」


 灯がサンドイッチの包装を開けながら聞いた。


「うん。四十秒くらい。足で踏む速さが変わると、音も変わるの」


「へえ。電動じゃないんだ」


「うん。大きな車輪がついててね。店の人が踏むと、最初ゆっくり、途中からすごく速くなって」


 澄は腰掛けたまま片足の爪先を上げ下げしてみせた。足元が低いので動きが小さく、何も踏んでいない靴だけが忙しそうに動いた。


「……それ、何?」


「足踏みミシンの真似」


「わかんないよ。足しか見えない」


「だよね。ごめん、座ってると難しい」


 灯は笑いながら包装を折り、食べ終わった端を整えた。


「自分で音出すのって、思ってたより難しいんだね」


 澄は灯を見る。


 相手はサンドイッチを持ったまま、向こうの車道へ視線を向けていた。笛のことだろうか。ミシンのことだろうか。


「……うん。さっきのミシンも、足で調節してた。でも私は聞いてるだけだから、簡単そうに見えるのかも」


 灯は頷き、少しだけ考えるように唇を結んだ。


「私さ、秋のお祭りで吹きたいんだ。あれ」


 澄は咀嚼しかけていたパンを急いで飲み込んだ。


「楠坂の?」


「うん。毎年やってるでしょ。商店街から、坂の上まで」


「あるね。私、去年は見に行ったよ」


「私も見てた。今年は、やるほうに入りたい」


 灯は包装の端を指でまっすぐにした。


「まだ音が安定しないから、人前でどうこう言える段階じゃないけど。やりたいって決めたのは私だから、そこは変えたくない」


「そっか……」


 澄は短く答えて、パンをもう一口かじった。


 去年の秋祭りを思い出す。提灯が並び、屋台の油の匂いがして、人の声と太鼓の音が坂道に重なっていた。笛がどこで鳴っていたのかは、もう思い出せない。確かに聞いたはずなのに、自分は大きな音のほうばかり覚えている。


「……そういうの、練習場所って見つけるの大変そう」


 澄が言うと、灯はすぐに頷いた。


「うん。家だと窓閉めても気になるし、集会所もいつでも空いてるわけじゃない。今日は十一時まで借りられたけど、次の予約取れるかはわかんない」


「なるほど」


「あと、吹いてる間、息が足りなくなる」


 灯は水筒の蓋を閉め、眉を寄せた。


「最初の音は出る日もある。でも次に移ると、急に何も鳴らなくなる。あれが腹立つ」


 澄は笑いそうになった。


「腹立つんだ」


「自分でやってるから、余計に」


「……うん。なんとなく、わかる気がする」


 澄は先ほど見た足踏みミシンの縫い目を思い出した。きれいに揃った針目を見せてくれた女性は、機械の音がいいと言われても笑っていた。何度も踏んで縫ってきた人の足元には、こちらから見えない加減があるのだろう。


 灯は食べ終わった包みを畳み、バッグにしまった。


「それで、さっきのことなんだけど」


「……うん」


「私、聞こえるのが全部嫌ってわけじゃないから」


 澄は顔を上げた。


「見に来られたらびっくりするし、録られるのは嫌。でも、雨宮さんが何の音か気になったっていうのは、わかるよ。私も、変な音してたら見に行くと思う」


 灯はそこで口元を少し緩めた。


「ただ、今のを『きれいになりそう』って言うのはやめて。鳴らすほうは、まだそこまで行ってないから」


「……うん。次から、聞いていいか先に聞く」


「聞くのも、たぶん場所によるけど」


「そうだよね」


 澄はパンの袋を小さく折った。灯が話してくれたことはうれしい。もっと聞きたいこともある。どこで笛を手に入れたのか、何の曲を吹きたいのか、誰に教わっているのか。


 けれど、その質問を今ぜんぶ並べる気にはならなかった。


「じゃあ、ひとつだけ聞いてもいい?」


「何?」


「さっきの練習、最後は音、出た?」


 灯が澄を見る。柔らかな眉が少し上がった。


「……出たよ。一回だけ」


「そっか」


「でも、出たと思ったら次は出なかった」


 灯は笑って、靴の爪先で地面を軽く叩いた。


「だから、またやる」


 澄はパンの残りを食べた。耳の奥に残っているのは、集会所の外で聞いた頼りない音だけだ。最後に出たという一音は、澄の知らないところで鳴った。


 それを、ちょっとだけ聞いてみたかった。


 灯は腕時計を見た。


「そろそろ帰る。午後、家でもやることあるし」


「うん。私も帰るね」


 二人はそれぞれ食べ終えた包みを片付けて立ち上がった。坂の途中で道が分かれる。灯は集会所とは反対の細道へ、澄は駅前へ抜ける通りへ向かう。


「雨宮さん」


 歩き出す前に、灯が呼んだ。


「今日のミシン、今度聞かせて」


「うん。いいよ。音だけ入ってるから」


「足の動きがわかるなら、ちょっと気になる」


 灯は片足を少し前に出し、足裏で板を踏むようにかかとを上下させた。立っているぶん、澄の真似よりずっと大げさだ。


「……上手だね」


 澄が言うと、灯は動きを止めた。


「ミシンの真似を?」


「うん」


「そこ褒められても困るんだけど」


 二人で笑った。灯は小さく手を振り、先に坂を曲がっていった。


 澄はしばらく、パン屋の前に立っていた。すぐにレコーダーを出そうかと思ったが、やめた。鞄に入ったままの四十秒は、あとで落ち着いて聞けばいい。


 坂を下りると、洋装店の戸口の鈴が遠くで鳴った。


 今朝はそれを録らなかった。けれど、どんな音だったかはちゃんと覚えている。さっき灯が言った「一回だけ」という言葉も、同じように耳に残っていた。


 家に着いたら、まずアイスの包み紙を捨てよう。それから汗を拭いて、録った四十秒を聞き直す。名前をつけるのは、いつものように休日の夜でいい。


 笛の最後の一音は、今日の録音には入っていない。澄が知らない部屋の中で鳴って、灯が自分で確かめた音だ。


 商店街の出口では、車の通る音と、買い物袋の擦れる音が重なっていた。澄はまだ少し暑い日差しの下を、駅前へ向かって歩いた。


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