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第2話 おはようの距離

 金曜日の朝、雨宮澄は自分の席に着いてから、教室の時計を三回見た。


 八時十三分。八時十六分。八時十九分。


 時間を確かめたいわけではない。時計は黒板の上にあって、そこへ目を向ければ、廊下側の列の前から三番目も視界に入る。


 野崎灯の席は、まだ空いていた。


 昨日は何時に来ていただろう。普段はもっと早かった気がする。でも澄は、灯がいつ登校しているのか知らない。先月までは気にしたこともなかったのだから、当たり前だった。


 机の上には一時間目の教科書とノートを揃えてある。筆箱のファスナーも閉めた。制服のリボンも曲がっていない。それなのに、手持ち無沙汰で、ノートの角を何度も指でなぞってしまう。


 昨日、楠坂商店街の写真館の前で落ちた青い看板は、今朝もきっとそこにはない。通りかかった誰かが片付けたかもしれないし、まだ囲いがあるのかもしれない。澄は駅前のスーパーから家に帰ったあと、商店街を見に戻ったりしなかった。


 夕食に牛乳を使い、風呂に入って、いつもより少し早く布団に入った。スマホを裏返して置いても、あの金属の割れる音が耳の奥に残っていた。


 結局、寝つくまでに何度も考えたのは看板のことではなく、灯が家に帰れたかどうかだった。


 同じクラスの、ほとんど話したこともない相手だ。連絡先など知らないし、聞く理由もなかった。


 だから学校に来ればわかる、と思った。


 その学校に、澄はもう着いている。


「雨宮さん、消しゴム落ちたよ」


 後ろの席から声がして、澄は足元を見た。筆箱を開けた覚えがないのに、机の端に置いていた消しゴムが転がっている。


「あ、ありがとう。全然気づかなかった」


 拾ってもらった消しゴムを受け取る。角が少し欠けていた。昨日の朝、同じ場所を親指で押したことまで思い出して、澄はあわてて筆箱へしまった。


 廊下から上履きの足音が近づき、教室の戸が開いた。


 灯だった。


 肩に通学鞄を掛け、もう片方の手には細長く畳んだ紺色の傘を持っている。黒い髪は耳の下あたりでひとつに結ばれ、首筋に短い毛が少しだけ跳ねていた。いつもはまっすぐなブラウスの襟が、今日は片側だけ内側に折れている。


 灯は入口で誰かに挨拶を返し、そのまま席へ向かった。


 澄は息を吐いた。


 胸が軽くなるより先に、昨日の帰り道で聞いた言葉が浮かぶ。


『次からは普通に声かけて』


 普通に。


 ただ「おはよう」と言えばいい。


 澄は椅子から少し腰を上げた。ところが灯は鞄を置いたあと、すぐ前の席の子にプリントを渡され、話し始めてしまった。


 立ちかけた身体の行き場がなくなり、澄は静かに座り直した。


 今じゃなくてもいい。今言えば、向こうの話を遮ることになる。あとで廊下ですれ違ったときなら、もう少し自然だと思う。


 そう決めた直後、灯がこちらを見た。


 澄はまたノートの角を触った。


「雨宮さん」


 呼ばれてしまった。


 灯が机と机の間を歩いてくる。窓からの光で、少し茶色がかった毛先が揺れた。


「おはよう」


「……おはよう、野崎さん」


 澄の声は思っていたより小さかった。


 灯は澄の机の横で足を止める。


「さっきから何回か目が合ってるよね」


「あ、うん。ごめんね」


「今日はついて来てないから、別にいいけど」


 澄は思わず灯を見上げた。灯の口元がほんの少し上がっている。


 冗談だったらしい。


 澄は笑おうとしたが、口の端だけが不自然に動いた。


「……昨日、ちゃんと帰れたかなって思って」


「帰ったよ」


「うん。そうだよね。今、ここにいるし」


「帰らなかったら、ここには来られないと思う」


「うん……本当に、そうだね」


 答えながら、また安心してしまった。灯は目の前にいて、昨日と同じ調子で澄の変な言い方をひとつずつ拾っている。


 灯は机に片手をついた。


「雨宮さん、昨日のこと、まだ怖い?」


 あまりにまっすぐ聞かれて、澄は少し驚いた。


「……うん。ちょっと」


「私も。昨日、家で靴を脱いだとき、あの金具が飛んできたところ思い出した」


 灯は足元へ目を落とした。今日は白い上履きに履き替えているから、泥の跳ねた靴下も見えない。


「無傷だったの、運がよかったよね」


「そうだね」


 澄はうなずいた。運がよかった、という言葉を灯はためらわず口にした。


「でも、昨日みたいにずっと見られると、何かついてるのかと思う」


「ついてないよ」


「じゃあ、襟は?」


 灯が自分の襟を指さした。


「あ。ちょっと折れてる」


「それは先に言ってほしかった」


 灯は手探りで襟を直そうとしたが、反対側まで曲げてしまった。


 澄は思わず手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「右側だけ、もう少し外に出すと……そう。そこ」


 灯は言われたとおりに直した。


「これで?」


「うん、大丈夫」


「ありがとう」


 灯は何事もなかったように自分の席へ戻っていった。


 澄はしばらくその背中を見ていたが、途中で気づいて視線をノートへ戻した。


 これではまた、同じことになってしまう。


 ただ、朝の挨拶はできた。


 それだけで、ずいぶん難しいことを終えた気分だった。


     *


 二時間目が終わるころには、教室の空気もだいぶ温まっていた。


 窓の外には薄い雲が流れ、昨日の雨が嘘のように校庭が乾き始めている。隅に残った水たまりを避けながら、体育の授業らしい生徒たちが走っていった。


 澄はノートをしまい、次の授業で使う資料集を取り出した。


 午前中は、何度か灯の席を見た。


 授業中に挙手するところ。教科書の端を揃えるところ。隣の子から借りた赤いペンを、キャップを閉めて返すところ。


 どれも昨日までなら、わざわざ見ようとしなかった動作だ。


 澄はそのたびに、なるべく視線を戻すようにした。気をつけているのに見てしまうのだから、困ったものだった。


 昼休み、弁当を広げる前に廊下へ出た。


 教室のざわめきから少し離れたくなったのだ。誰かと話したいわけではなく、吹き抜けになった渡り廊下へ行けば、昨日の雨が残っているかもしれないとも思った。


 渡り廊下の端には、古い金属製の雨樋がある。雨がやんだあとでも、ときどき水が落ちて、下に置かれた石へ乾いた音を立てる。


 澄はその音が好きだった。


 けれど今日は、鞄の中のレコーダーを持ってこなかった。昼休みに録音するつもりがなかったというより、持ち出すことを少しためらった。


 昨日、灯の声ごと録音を消したことを思い出すからだった。


 消したのは自分だし、消すべきだったとも思っている。


 それでも、好きなものをひとつ失くしたような気がするのは、どうしようもない。


 渡り廊下に着くと、雨樋の下はもうほとんど乾いていた。


 水の音はしない。


 代わりに、少し離れた運動場から、ボールの跳ねる音が聞こえた。何度か続いたあと、誰かの笑い声が上がる。


 澄は手すりに両手を置いた。


 録音していなくても、音は聞こえる。


 昨日はそれを忘れずにいられたのに、今日はもう少し寂しい。


「雨宮さん」


 後ろから声がした。


 澄は振り返った。


 灯が廊下の途中に立っていた。片手に購買部の小さな紙袋を持っている。昼食を買いに行った帰りらしい。


「……野崎さん」


「何してるの?」


「ちょっと、外を見てて」


 灯は手すりの向こうを覗いた。


「校庭?」


「ううん。雨樋」


「雨樋」


 灯は澄が見ていた方向へ顔を向けた。黙ってしばらく眺めてから、もう一度澄を見る。


「水、出てないけど」


「……そうなんだよね」


「待ってるの?」


「一応。でも、もう乾いちゃったみたい」


 灯は雨樋の下の石を見て、短くうなずいた。


「じゃあ、今日は無理じゃない?」


「そうだね」


 それだけの会話なのに、澄は少し笑ってしまった。


 灯は不思議そうに眉を寄せる。


「何?」


「ごめん。野崎さんって、はっきり言うから」


「水が出てないのは見ればわかるよ」


「うん。そうなんだけど」


 灯はまだ納得していない顔をしたが、追及する代わりに紙袋を開けた。中には小さな丸いパンが二つ入っていた。


「こっちの購買、昼には売り切れるって聞いてたけど、今日は残ってた」


「それ、チーズの入ってるやつ?」


「そう。ひとつは違う味かと思ったら、両方同じだった」


 灯は袋の中を見せた。二つのパンには、同じ場所に切れ目が入っている。


「間違えて二つ取ったの?」


「うん。急いでたから」


「交換できなかった?」


「もう会計したあとだったし、食べられるからいいかなって」


 灯はそう言って、一つを取り出した。


 澄はなんとなく、灯ならこういうときもすぐ店員に聞き返すものだと思っていた。違う商品だったか確かめて、きちんと交換してもらうのだと。


 けれど灯は、包みの端を開けながら淡々としている。


「……意外」


「何が?」


「野崎さん、そういうのも、そのままにするんだなって」


「二個とも食べたい味だったし」


 灯はパンを一口かじった。


「嫌なものなら替えてもらうけど」


 言われてみれば、それだけのことだった。


 澄はまた、自分が勝手に灯のことを決めつけていたのかもしれないと思った。


「雨宮さんは?」


「え?」


「お昼。食べないの?」


「あ、教室にお弁当ある。これから食べるところ」


「なら戻ろう。昼休み、そんなに長くないし」


「うん」


 灯が歩き始めた。


 澄はその横に一歩遅れて並ぶ。追いかけているわけではない。ちゃんと声をかけてもらったのだから、そう思ってもいいはずだった。


 渡り廊下から校舎へ戻る途中、灯が不意に言った。


「そういえば、昨日の録音」


 澄の歩幅が小さくなった。


「……消したよ。昨日、あの場で」


「それは見た」


「うん」


「全部消さなくてもよかったんじゃない?」


 澄は立ち止まりかけた。


「え?」


「私が話してるとこだけ、切れなかったの? 雨の音も録ってたんでしょ」


 灯は紙袋を持ち直した。


 澄は昨日の画面を思い出した。あのレコーダーにもファイルを分けたり、パソコンで編集したりする方法はある。聞き返せば必要なところだけ残せたかもしれない。


「……できたと思う。でも、どこから声が入ってたか、聞き直さないとわからなかったし」


「そっか」


「それに、嫌だって言われたあとで、こっそり残すのも違うかなって」


 灯は澄の顔を見た。


「なるほどね」


 階段のほうから生徒たちが下りてきたので、二人は壁際へ寄った。灯は通り過ぎるのを待ってから言った。


「雨宮さんが普段録ってるやつ、どんな音なの?」


「えっと……いろいろ。自転車のベルとか、風鈴とか。家の中の音もあるし」


「それ、聞いたら何の音かわかる?」


「わからないのも、あると思う」


「へえ」


 灯は少し考えるように紙袋の口を畳んだ。


「今度、ひとつ聞いてみたい」


 澄は驚いて、灯を見た。


「……私の?」


「ほかに誰の話してた?」


「あ、そうだよね。うん。聞かせられるやつなら」


「声が入ってないのがいい」


「うん。それは、もちろん」


 灯はうなずき、教室の戸に手をかけた。


「じゃ、あとで」


 澄は返事をし損ねた。


 今度、というのがいつなのか、聞いておけばよかった。けれど灯はもう教室に戻り、空いている席の間を抜けていく。


 澄は自分の席へ向かいながら、鞄の底にある黒いレコーダーのことを考えた。


 どの音なら、聞かせられるだろう。


 昨日までなら、そんなことを考えもしなかった。


     *


 放課後、澄は自分の机の上にレコーダーを置いた。


 ホーム画面には、日付と録音可能時間が表示されている。録音ボタンの薄くなった赤い印が、午後の光でいっそう見えにくい。


 昼休みのあと、澄は音の一覧を頭の中で何度も辿っていた。


 駅の踏切は、警報音が大きすぎるかもしれない。台所の蛇口は地味すぎる。春休みに録った公園のブランコには、遠くの子どもの声が入っていた気がする。


 人に聞かせるとなると、いつもの音まで急に頼りなく思えてくる。


 澄はメニューを開き、ひとつのファイルを選んだ。


 五月の終わりに録った、古道具屋の店先の風鈴だった。


 商店街の坂を少し上ったところの店で、夏物を並べ始めたばかりの日。軒に吊られた風鈴が三つ、風の向きによって違う順番で鳴っていた。澄は十分ほどその場にいて、最後の一分だけを残してある。


 小さなスピーカーから、ちりん、と細い音が漏れた。


「何してるの?」


 澄は慌てて停止を押した。


 灯が通学鞄を肩に掛け、机の横に立っていた。


「ひとつ聞きたいって、言ってたから……」


「あ、もう選んでたんだ」


「うん。でも、忙しかったら別の日でも」


 灯は腕時計を見た。


「五分くらいなら大丈夫。今日は四時半までに行きたいところあるから」


「じゃあ、短いやつにする」


「そんなに長いのもあるの?」


「あるけど。あんまり人に聞かせたことはなくて」


 灯は前の空いた椅子を引こうとしたが、その席にはまだ別の子の鞄が掛かっていた。すぐに戻して、澄の机の横に立つ。


 澄はレコーダーを二人の間に置き、音量を少し上げた。


 再生ボタンを押す。


 教室にはまだ数人残っていて、遠くから話し声が聞こえる。その中で、レコーダーの小さなスピーカーが、五月の夕方を鳴らし始めた。


 ちりん。


 少し間を置いて、からん。


 低い音が追いかけるように重なり、遠くで自転車のタイヤが舗装を擦る音がした。


 灯は机の上へ少し身を寄せた。


 澄は画面ではなく、灯の横顔を見ていた。初めて近くで見ると、灯の眉は思っていたより柔らかい形をしている。何かに集中すると、唇を少し結ぶらしい。


 最後に、ちり、と短く鳴って、録音は終わった。


「……風鈴?」


「うん」


「何個?」


「三つ」


「二個かと思った。低いのと高いの」


「もう一個は、いちばん奥にあって、あんまり鳴らなかったんだ」


 灯はレコーダーを見た。


「最後のほう、ちょっとだけ違うのが鳴った?」


「……わかった?」


「たぶん。小さい音が一回」


「そう! それがいちばん奥のやつで」


 澄は思わず声を大きくした。近くの席の子が一瞬こちらを向いたので、慌てて口を押さえる。


「……ごめん」


「別に、怒ってないけど」


 灯は笑いをこらえるように口元を引いた。


「雨宮さん、そういう声も出すんだ」


「……たまに」


「たまに、ね」


 澄はレコーダーを見下ろした。


 どの音を聞かせるか、あれほど悩んだのに。灯が最後の音に気づいたことがうれしくて、そんな心配はどこかへ消えてしまった。


「一分くらい、ずっと風鈴が鳴るのを待ってたの?」


「うん。実際はもっと待ってた。風がなかなか来なくて」


「じっと?」


「お店の邪魔にならないところで、一応」


 灯は少し首を傾げた。


「私だったら、待ちきれなくて鳴らしちゃうかも」


「ああ……でも、自分で鳴らすと、ちょっと違うから」


「そうなの?」


「うん。どれが鳴るかわからないのが、好きで」


 灯は何か言いかけ、やめた。かわりに、レコーダーを指先で軽く示した。


「もう一回、最後だけ聞ける?」


「うん。ちょっと待ってね」


 澄は再生位置を戻した。赤い録音ボタンには触れず、操作用の小さなキーを確かめながら、最後の十秒を再生する。


 高い音のあと、低い音がひとつ。


 そこから短い間があって、遠慮がちに、ちり、と鳴る。


「あ、これか」


 灯はうなずいた。


「うん。それ」


「最初は聞き落とした」


「私も、録ってるときはあんまり気づかなかったの。家で聞いたら入ってて」


「じゃあ、録ってよかったね」


 澄は返事をする前に、もう一度画面を見た。


 昨日の雨は残っていない。あの看板が落ちた音も、灯の声も。


 でも、まだここには、別の日の音がたくさんある。


「……うん。よかった」


 灯が腕時計に目をやった。


「そろそろ行かなきゃ」


「あ、うん。引き止めちゃってごめん」


「聞かせてって言ったの私だし。五分って言ったでしょ」


 時計を見ると、約束した五分までまだ少しあった。


 灯は通学鞄の肩紐を直した。その拍子に、鞄の口から薄い茶色の包みが覗いた。昨日、何かを受け取りに行くと言っていたのを澄は思い出す。


「あの、昨日の取り置き、受け取れた?」


「うん。店が閉まるちょっと前に」


「そっか。よかったね」


「危なかったけど。昨日は途中でいろいろあったし」


「……ごめんね」


「そこ、今謝るところ?」


 灯があきれたような顔をしたので、澄は口を閉じた。


 そもそも灯が聞いてきた録音を見せていたのだし、何かあるたびに謝ればいいわけでもないらしい。


 灯は鞄の口を閉じた。包みの中身については何も言わなかった。


 澄も、聞かなかった。


 昨日の帰り道は、聞けないことだらけだった。今もそれは変わらない。でも、知らないことを全部その場で確かめなくても、こうして話すことはできる。


「雨宮さんは、今日もどこか録りに行くの?」


「今日は……駅前のほうを回って帰ろうかな。前から気になってる音があって」


「何の音?」


「自転車屋さんの空気入れ。大きいのじゃなくて、手で押すほうの」


「それも待ってるの?」


「うん。でも、誰も使ってなかったら帰ると思う」


 灯は少しだけ笑った。


「雨宮さんの趣味って、けっこう運任せなんだね」


「……そうかもしれない」


「ま、無理に鳴らしてもらうのも変だしね」


「うん」


 澄は小さく笑い返した。


 昨日なら、灯の「変だしね」は自分の趣味への批評のように聞こえていたかもしれない。今日は、その前に灯がちゃんと音を聞いてくれたことを知っている。


 灯が机から一歩離れた。


「じゃあ、また月曜」


 澄は顔を上げた。


「……うん。また月曜」


 灯はそのまま教室の戸へ向かった。途中で誰かに呼び止められ、手短に返事をしてから廊下へ出ていく。


 澄は立ち上がらなかった。


 今日こそ後をつけない、と決める必要もなかった。灯は自分の用事へ行き、澄は自分の音を録りに行く。それだけだった。


 机の上のレコーダーをしまおうとして、澄はふと手を止めた。


 今朝からずっと、灯が教室にいるかどうかばかり気にしていた。


 帰り際の灯の声は、それを確かめるために聞いたものではない。


 次は、また月曜日。


 きっと教室で会う。けれどそれまでは、お互い知らない場所で、それぞれの週末を過ごすのだ。


 澄はレコーダーの電源を切り、鞄にしまった。


     *


 学校を出るころには、雲の隙間から日が差していた。


 坂道の紫陽花には、昨日の雨のしずくがまだ少し残っている。澄は駅前へ向かう道を歩きながら、途中で一度だけ足を止めた。


 向こうの通りを、自転車が何台か走り抜けていった。


 今日は、楠坂商店街へは行かない。


 そう決めたわけではなかったけれど、行く用事もない。灯がどの道を通って帰ったのかも、知らないままだった。


 駅前の自転車屋に着くと、店先には空気入れが一本、壁に立てかけてあった。すぐ近くで店員が自転車のタイヤを調べている。


 澄は店の邪魔にならないところで、しばらく立っていた。


 空気入れは使われなかった。


 店員は別の工具を取ってきて、しゃがみ込んだまま作業を続けている。


 澄は鞄からレコーダーを取り出しかけたが、やめた。


 今日は録れないかもしれない。


 そのまま帰ろうかと思ったとき、店の奥から、金属の小さな部品を仕分ける音が聞こえてきた。


 から、ころ、からん。


 澄は顔を上げた。


 目当ての音とは違う。でも、これはこれで面白い。


 レコーダーを取り出す前に、澄は店員へ声をかけた。


「あの、すみません。ここで作業の音を少し録っても大丈夫ですか? 人の声は入れないようにします」


 自転車の横から顔を上げた店員は、きょとんとしたあと、店の奥へ目を向けた。


「作業の音? 変わってるねえ。危なくないところからならいいよ」


「ありがとうございます」


 澄は店の外側へ寄り、通行の邪魔にならない位置に立った。


 それから録音ボタンを押す。


 薄くなった赤い印の横に、赤いランプが点いた。


 部品の音が、何度か続く。


 からん、と少し高い音がして、やがて止まった。


 澄は録音を終了した。


 短いファイルだった。


 帰ってから名前をつけるなら、何にしよう。


 五月の風鈴と同じように、日付をつけて、あとでゆっくり考えればいい。


 澄はレコーダーをしまって店員に礼を言い、駅へ向かう人の流れに戻った。


 歩きながら、灯に聞かせた風鈴の最後の音を思い出す。


 あれをもう一度聞きたいと言われるなんて、思っていなかった。


 それに、昨日まで名前を呼ぶのもためらっていた相手と、今日は「また月曜」と言い合えた。


 月曜日になれば、きっとまた少し緊張するだろう。


 灯は遠慮なく質問してくるかもしれないし、澄はまたうまく答えられないかもしれない。


 それでも今度は、最初に何を言うかだけは決まっている。


 澄は青信号の横断歩道を渡った。


 駅前の屋根の下では、帰宅する人たちの足音がいくつも重なっていた。金曜日の夕方らしい、少し急いだ足音だった。


 その中に自分の靴音が混じるのを聞きながら、澄は家へ向かって歩いた。


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