第1話 立ち止まる音
野崎灯の肩口に、「今日死ぬ」と出ていた。
六月の初め、朝八時二十七分。二年三組の教室では、誰かが開けた窓から湿った風が入ってきて、黒板の端に貼られた時間割をぱたぱた揺らしていた。
雨宮澄は、机の上に置いた筆箱を開けたところで手を止めた。
野崎灯は教室の前のほうにいる。提出物を入れた薄いファイルを片手に持ち、担任の机の横で誰かと話していた。背筋が伸びていて、制服の半袖ブラウスの裾がスカートから少しだけ出ている。
その左肩から十センチほど離れた空中に、黒い文字が浮かんでいた。
今日死ぬ。
見慣れた明朝体に似ていた。紙に印刷されたものより少し輪郭が曖昧で、窓から差す光にも透けない。灯が身体の向きを変えると、文字も彼女について動いた。
澄は一度まばたきをした。
もう一度。
文字は消えなかった。
「雨宮さん、これ回してくれる?」
隣の席から差し出されたプリントに、澄は反射的にうなずいた。
「あ、うん。ありがとう」
受け取ってから、自分が礼を言う場面だったかどうかわからなくなった。とりあえず後ろの席に回す。そういうことなら、身体は勝手に動いてくれる。
もう一度、教室の前を見る。
灯はファイルを閉じていた。何か言われたらしく、相手に向き直り、短く返事をしている。
今日死ぬ。
文字はまだそこにあった。
澄は筆箱の中に手を入れたまま、消しゴムの角を親指で押した。
こういうものが見えるようになったのがいつだったか、はっきりとは覚えていない。
人の近くに、短い言葉が現れる。
「忘れる」「こぼす」「転ぶ」。
たいていはその日のうちに起こる、どうということもない出来事だった。ノートを忘れた人が困っていたり、紙コップを倒した人が机を拭いていたりする。何も起きなかったように見える日もあったが、澄が見ていないところで済んだのかもしれない。
見る相手は選べなかった。言葉がいつ出るかもわからないし、場所や時刻も教えてくれない。見えたからといって何か音がするわけでもない。
だから、誰にも話していなかった。
もともと人に説明するのが得意ではない。自分でも説明できないものなら、なおさらだった。
これまでは、それで困らなかった。
転ぶくらいなら、膝を擦りむくかもしれない。何かを忘れたなら、取りに帰ればいい。
でも、今日の言葉は違う。
死ぬ。
それが何を意味するのか、考えなくてもわかった。初めて見る言葉だった。
チャイムが鳴った。
灯が自分の席に戻ってくる。廊下側の列、前から三番目。澄の席とは斜めに離れている。
鞄を机の横に掛け、椅子を引いて座る。いつもと同じ動作だった。隣の子が何かを言い、灯が顔を向ける。
その瞬間、文字がふっと薄くなった。
澄は息を詰めた。
消えた。
最初から何もなかったように、そこには灯の肩と、その向こうの窓だけがある。
澄はしばらく、筆箱の蓋を閉められなかった。
*
野崎灯は、澄の苦手な相手だった。
嫌なことをされたわけではない。そもそも二年生になって同じクラスになってから、まともに話したことさえなかった。
ただ、灯の言葉はときどき、澄が安心して立っている場所をまっすぐ横切ってくる。
先月、教室の掃除当番を決め直したときのことだ。
誰かが「火曜日はできる人でやればよくない?」と言って、周りもそれでいいような雰囲気になった。
澄も、そうだね、と言いかけていた。
そこで灯が顔を上げた。
「できる人って、誰?」
教室が少し静かになった。
「いや、だから、できる人が……」
「私、火曜日はできないって言ったよ。水曜日ならやれる。そこを決めないと、また同じ話になると思う」
灯の声は大きくなかった。
怒っているようにも見えなかった。ただ、答えが出るまで待つつもりなのだとわかる顔だった。
結局、火曜日の担当はその場で決まった。誰かが損をしたわけでも、揉めたわけでもない。
それでも澄は、あのときの教室の沈黙を覚えている。
ああいうことを、言える人なのだ。
自分が同じ立場だったら、たぶん「できれば水曜日がいいかな」と言う。相手の顔色が変わったら「でも、火曜日でも大丈夫かも」と付け足す。
そうして結局、火曜日に掃除をすることになる。
灯のほうが正しい。
正しいのはわかっている。
だから余計に、少し苦手だった。
そんな相手が、今日死ぬ。
二時間目の数学で灯が定規を落としたとき、澄は思わず身体を起こした。灯は椅子から腰を浮かせて自分で拾い、何事もなく授業に戻った。
三時間目の移動教室では、階段を下りる灯の足元ばかり見てしまった。段差に躓く様子もない。
昼休みになっても、灯は普通に生きていた。
普通に話し、笑い、パンの袋を開けている。
それがありがたいはずなのに、澄は時間が過ぎるほど落ち着かなくなった。
もし、本当に今日だったら。
どこで、何が起きるのだろう。
階段かもしれない。横断歩道かもしれない。帰宅してからかもしれない。
どれほど考えても、わからない。
わからないまま、午後になる。
澄は机の引き出しから小さな黒いICレコーダーを取り出した。
掌に収まる、角の丸い機械だ。使い込んでいるせいで、録音ボタンの赤い印が少し薄くなっている。
もともと家にあったものを譲ってもらったのがきっかけで、澄は日常の音を録るようになった。
学校帰りの踏切。雨樋から落ちる水。朝、台所で食器を重ねる音。商店街のパン屋が、焼き上がりを知らせるために鳴らす小さなベル。
録音したものは日付ごとに分けて、休日に名前をつける。
スマホでも録れるけれど、このレコーダーのほうが好きだった。録ると決めた瞬間、手元と耳がそこに集中する。余計な通知も入らない。
何でもない一日に、あとから戻れるような気がするのだ。
今日はまだ、一度も録音していなかった。
レコーダーを握ると少しだけ落ち着く。澄は電池の残量を確かめ、電源を切った。
そうして何度目かに灯のほうを見たとき、彼女が席を立った。
教室の後ろのごみ箱へ、空になったパンの袋を捨てに行くところだった。
戻る途中で、澄と目が合った。
澄は慌てて視線を落とした。
机の上には、閉じたままの弁当箱がある。もう片付けるつもりだったのに、まだ包んでいなかった。
足音が近づいてきた。
「何?」
顔を上げると、灯が机の横に立っていた。
「えっ」
「さっきからこっち見てるよね」
澄は弁当箱の包みを持ち上げ、なぜかもう一度置いた。
「……あ、ごめんね。ちょっと、考え事をしてて」
「私のほう見ながら?」
「うん。いや、そういうつもりじゃ」
灯は澄の答えを待っている。
ここで言えばいい。
今日、何か危ないことがあるかもしれない。
気をつけて。
たったそれだけだ。
「あの、野崎さん。今日の帰りって、寄り道とかする?」
「するけど」
「そっか。えっと……雨、降るかもしれないから。あんまり遅くならないほうがいいかなって」
灯は一度窓を見た。
空は曇っている。朝よりも雲が厚い。
「傘はあるよ」
「あ、うん。そうだよね」
「雨宮さんは?」
「私もある。折り畳みだけど、一応」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
灯はそう言って、首を少し傾けた。
大丈夫。
その言葉にすがりたくなった。
「……うん。たぶん」
「たぶん?」
「あ、雨が強くなったら、足元とか」
「滑るってこと?」
「そう。そういうのもあるし」
灯が自分の靴を見下ろした。黒いローファーは、澄のものと同じ指定品だ。
「普通の靴だけど」
「そうだよね。ごめん、変なこと聞いて」
澄は弁当箱を勢いよく包み、結び目を失敗した。布が片方だけ長く飛び出している。
灯はそれを一度見てから、教室の前へ戻っていった。
澄は結び目をほどき直す。
警告したつもりだった。
少なくとも、自分では。
でもあれでは、ただ天気の話をしただけだ。
今日死ぬ、と見えたから気をつけて。
そんなことを言われたら、灯はどう返すだろう。
きっと、まず理由を聞くだろう。
どうして死ぬと思うのか。どこが危ないのか。何をすればいいのか。
澄には何ひとつ答えられない。
聞かれる前からわかっていることが情けなかった。
*
放課後、雨はまだ降っていなかった。
澄は昇降口で靴を履き替えながら、帰り道のことを考えていた。
いつもなら坂の下のスーパーに寄る。朝、家を出るときに牛乳が残り少ないことを思い出したので、今日は一本買って帰るつもりだった。
それだけの、普通の木曜日だ。
玄関を出れば、坂を下りる。駅前のスーパーで牛乳を買って家に帰る。
そのあとは録音した音を整理して、夕食を食べて、お風呂に入る。
いつもどおりにしていたい。
心からそう思う。
けれど、靴を履き終えて顔を上げたとき、昇降口の向こうを灯が歩いていくのが見えた。
肩に通学鞄、片手に紺色の折り畳み傘。
迷わず坂のほうへ向かっていく。
澄はローファーの踵を指で直してから、立ち上がった。
同じ方向だから。
そこまでは、そう言い訳ができた。
学校から駅へ続く坂道は、古い住宅の間を縫うように下っている。石垣の上から紫陽花がはみ出し、まだ色づききらない花の先を、湿った風が揺らしていた。
灯は歩くのが速かった。
急いでいるというより、行き先が決まっている人の歩き方だった。曲がり角でもほとんど速度を落とさない。
澄は十メートルほど後ろを歩いていた。
ちょうど同じ道を歩いているだけ。
そう思うことにした。
最初の信号を渡り、灯が左に曲がる。
澄も左へ。
角にある新しいカフェから、コーヒーを挽く音が聞こえた。店先には白い鉢植えが三つ並んでいる。いつもなら少し立ち止まって、ガラス越しに見えるミルの動きを眺めるところだった。
けれど今日は、灯の背中を見失いたくなかった。
二つ目の角で、灯はまた曲がった。
駅へ向かう大通りではなく、古い商店街のほうだ。
澄は足を止めた。
ここから先は、もう自分の帰り道ではない。
それに、今していることは。
「……よくないよね」
声に出してみたら、ますますよくない気がした。
人の後ろを黙ってついていくなんて、されたほうは嫌に決まっている。
昼休みにあんな不自然なことを聞いたあとなら、なおさらだ。
戻ろう。
澄は一度、身体を駅のほうへ向けた。
そのとき、朝の文字が浮かんだ。
今日死ぬ。
見たものを、見なかったことにはできない。
澄は小さく息を吐いて、商店街へ足を向けた。
坂の途中にある楠坂商店街は、古い建物ばかりというわけではない。
昔からの八百屋の向かいには、去年できたカレー屋がある。履物店だった場所には雑貨屋が入り、その隣のコインランドリーには、大きな白い洗濯機が並んでいた。
店ごとに違う軒の高さが、この町らしい。
夕方になると買い物帰りの人が増える。学校帰りの生徒も通るし、自転車を押して歩く人もいる。坂の上から下まで、だいたいどこかで音がしている。
澄はこの道が好きだった。
特に、雨の降り始め。
古いトタン屋根に当たる雨粒と、新しい布の日除けに当たる雨粒では、音が違う。すぐそばで聞き比べられるのが楽しかった。
今日は空気が重い。
風が強くなって、店先ののぼりが大きくはためいている。
雨の匂いがした。
灯は前方の手芸店を一度見たようだった。けれど立ち止まらず、さらに坂を下っていく。
澄はショーウィンドウに映った自分をちらりと見た。
制服のリボンが少しずれている。
こんな日にまで、そんなことが気になる。
指先で直している間に、灯との距離が開いた。
急いで追いつこうとすると、最初の雨粒が頬に当たった。
ぽつ。
続いて、ぽつぽつ。
あっという間に道路の色が変わり始めた。
買い物袋を持った女性が、近くの店の軒下へ駆け込んでいく。カレー屋の店員が外に出て、立て看板を抱えて店内に戻った。
灯は傘を開いた。
澄も鞄から折り畳み傘を取り出す。
しかし、骨を広げているうちに風が横から吹きつけ、傘が裏返りかけた。
「わっ」
慌てて閉じる。
もう一度開こうとしたとき、前方で灯が振り返った。
澄は反射的に近くのパン屋の軒下へ入った。
――何をしてるんだろう、私。
パン屋のガラス戸には、焼き立ての塩パンを知らせる手書きの紙が貼られていた。店内からは、温かいバターの匂いがする。
お腹が空いていた。
緊張しているときでも、そういうことはちゃんとわかるらしい。
澄は少しだけ情けなくなった。
雨が屋根を叩く音が大きくなる。
ふと思い出して、鞄の内ポケットからICレコーダーを取り出した。
指が自然に録音ボタンへ向かう。
風の強い雨は、好きだった。
普通の雨よりずっと乱暴で、軒先の材質によってまるで違う音を立てる。晴れた日にはないものが、急に商店街じゅうに現れる。
澄はレコーダーを軒の外へ少し向けた。
録音を開始する。
赤い小さなランプが点いた。
トタン屋根を打つ雨。路面ではねる水。少し離れた場所で閉まる、金属製のシャッター。
目を閉じると、いくつもの音が重なって聞こえた。
ほんの少しだけ、いつもの自分に戻れる気がした。
しかし、それも長くは続かなかった。
前方を見たとき、灯の姿がない。
澄は軒下から飛び出した。
傘を開く余裕もなく、濡れた歩道を小走りに進む。
灯はすぐに見つかった。
少し先、古い写真館の手前にいた。
こちらを向いている。
まっすぐ。
澄は足を緩めた。
灯は傘を畳み、片手に持っていた。雨を避けようともせず、澄が近づいてくるのを待っている。
その表情を見ただけで、もうごまかせないことがわかった。
「雨宮さん」
「……はい」
「さっきから、私について来てる?」
雨の音が強くなる。
澄はレコーダーを持った手を胸の前に引き寄せた。
「あの、たまたま、同じ方向で」
「二回曲がったよ、私」
「うん」
「雨宮さん、二回とも同じところ曲がったよね」
灯は澄の目を見ている。
怒鳴られているわけではない。
ただ、質問をしている。
それなのに澄は、答えられる場所がどんどん狭くなっていくように感じた。
「……そう、だね」
「何か用?」
「あの、別に悪いことをしようとか、そういうんじゃなくて」
「じゃあ、何?」
灯が身体ごと澄に向き直った。
それまで進んでいた足が、完全に止まる。
そこは写真館の軒先まであと三歩ほどの場所だった。二階の外壁から、道路に向かって古い縦長の看板が突き出している。灯のすぐ前方に、看板の細長い影が雨で濃くなった歩道に落ちていた。
澄は灯から二、三歩離れた位置で立ち止まった。
「えっと……野崎さんが、ちょっと気になって」
「何が?」
「今日、何かあったら嫌だなって」
口にしてから、ひどく曖昧な言葉だと思った。
案の定、灯は眉を寄せた。
「何かって?」
「それが、わからなくて」
「わからないのに、ついて来たの?」
「……うん」
灯が黙る。
澄は視線を下げた。
靴の先に雨粒が跳ねている。濡れたローファーに小さな砂が貼りついていた。
何と言われても仕方がない。
むしろ、ちゃんと怒ってもらったほうがいいのかもしれない。
そのときだった。
きい、と音がした。
澄は顔を上げた。
古い自転車のブレーキを弱く握ったような、金属が擦れる音。
雨と風に紛れてしまいそうな音だったが、直前までレコーダーを向けて雨の響きに耳を澄ませていたので、違いがわかった。
周囲の音は途切れずに流れている。
雨樋から落ちる水。
遠くの車。
そして、もう一度。
き、ぎ。
今度は、そのあとに硬いものが当たる音が続いた。
かつん。
「……何?」
灯が澄の表情を見て言った。
澄はすぐには答えなかった。
音がした方向へ視線を動かす。
灯の背後。写真館の二階。
外壁から横に伸びた二本の金具が、古い看板を支えている。その上側が、風に合わせて不自然に揺れていた。
看板そのものが揺れるのは珍しくない。
けれど、今揺れているのは看板だけではなかった。
壁につながる金具の根元が、わずかに浮いている。
澄は息を吸った。
「野崎さん。そこ、動かないで」
「は?」
「看板。あの、上の看板が」
灯が肩越しに振り返った。
その瞬間、風が商店街を下から吹き抜けた。
ぐん、と看板の下端が持ち上がる。
金具が悲鳴のような音を立てた。
澄ははっきりと見た。
上側の取り付け部分が、壁から剥がれかけている。
「危ない! こっち!」
澄は後ずさりながら、灯の袖をつかんだ。
灯もすぐに動いた。
澄の手首を反対の手で握り返し、歩道の中央側へ強く引く。澄は足元の水に滑りかけたが、灯がその腕を離さなかった。
二人が店先から離れ、坂の上側へ二歩ほど戻ったところで、金属の裂ける音がした。
がしゃん、という音ではなかった。
もっと大きく、重い。
どん、と地面を叩くような衝撃が、足の裏から伝わってきた。
古い看板が歩道に落ちた。
ちょうど、灯がそのまま進んでいれば踏み込んでいたあたりだった。
青い塗装の剥げた金属板が、歩道の半分ほどを塞いでいる。折れた支柱が跳ね、外れた部品が二人のいるほうへ転がってきた。
澄は身を縮めた。
灯が彼女の肩を押して、もう一歩後ろへ下がらせる。
小さな金具が足元を跳ねて、排水溝の縁にぶつかった。
かん。
それきり、音が止まった。
雨だけが降っていた。
澄は灯につかまれた手首を見た。
灯の指が、まだそこにある。
少し痛いくらいの力だった。
「……落ちた」
澄が言うと、灯は看板から目を離さないまま返した。
「見た」
「うん」
「雨宮さん、怪我は?」
澄は首を横に振った。
「たぶん。ない、と思う」
「たぶんじゃなくて。足、痛くない?」
「あ、うん。大丈夫」
灯はそこで手を放した。
自分の腕を一度さすり、それから頭上を見た。看板の残っていた金具が風に揺れ、細かい破片が壁を伝って落ちてきている。
「まだ上に何かある。離れよう」
澄はうなずいた。
二人でさらに坂を上る。
さっきまで灯が立っていた場所は、落ちた看板からほんの数歩しか離れていない。
あのとき。
灯が振り向かずに歩いていたら。
澄の後をつけていることに気づかなかったら。
問い詰めるために、あそこで足を止めなかったら。
澄は看板の下にできた水たまりを見た。
落下した衝撃で、周囲の舗装の一部が欠けている。
大きな金属板の角が、歩道へ深く食い込んでいた。
喉が詰まった。
息を吸ったのに、少ししか入ってこない。
死ぬ。
朝、灯の肩に浮かんでいた文字。
あれは。
「ちょっと、そこの人!」
灯の声で我に返った。
買い物袋を持った人が、落ちた看板のほうへ近づこうとしている。
「上も壊れてるから、近づかないほうがいいです!」
相手が足を止めた。
近くの店から店員が出てきて、状況を確かめる。灯は見たことを短く説明した。
「二階の看板が落ちました。上の金具もまだ残ってます。こっちは誰も当たってないです」
店員が店内へ戻り、通報のために電話をかけ始める。
別の店の人が三角コーンを持ってきた。
誰かが写真館の扉を叩いている。
いつもの商店街が、いつもとは違うざわめきに包まれていく。
澄はその輪から少し離れた場所に立っていた。
両手が震えている。
寒いわけではなかった。
むしろ、背中が熱い。
灯が戻ってきた。
「雨宮さん」
「……うん」
「座る?」
「えっ」
「顔色悪い」
澄は近くのベンチを見た。屋根はあるが、雨が吹き込んで座面が濡れている。
「あ、いや。大丈夫。スカート、濡れちゃうし」
灯もベンチを見た。
「もうだいぶ濡れてるけど」
「……そうだね」
二人とも、制服の肩から袖までびっしょりだった。
それが妙におかしくて、澄は少し笑いそうになった。
けれど笑うより先に、目の奥が熱くなった。
灯が生きている。
自分の前に立って、濡れた髪を指で払っている。
さっきまであった恐ろしい言葉は、もう見えない。
今朝と同じ、ただの同級生の姿だった。
澄は俯いた。
「……よかった」
声が小さくなった。
灯は聞こえたらしい。
「何が?」
「怪我、なくて」
「ああ」
灯は少し間を置いて、落ちた看板のほうを見た。
「ほんと、それはそう」
その声は、いつもの教室で聞くものより低かった。
灯の左手が、折り畳み傘の持ち手を握り直す。
指先が震えていた。
澄はそれに気づいて、目をそらした。
自分だけが怖かったわけではない。
当たり前のことだった。
*
騒ぎがひとまず落ち着くまで、二人は近くの雑貨屋の軒下にいた。
写真館の前には人が立ち、歩道の一部が通れないようになっている。雨の勢いは少し弱くなり、傘を差さずに歩く人も出始めた。
澄は鞄の中からハンカチを取り出し、濡れたレコーダーの表面を拭いた。
幸い、水は中まで入っていないようだった。
電源も入る。
画面に録音中を示す表示が出ていて、澄ははっとした。
慌てて停止ボタンを押す。
録音時間は、十二分を超えていた。
「それ、何?」
灯がレコーダーを見ていた。
「あ、これ。ICレコーダー。音を録るやつ」
「見ればわかるけど。さっきも持ってたよね」
「うん。雨の音を録ろうとして」
灯の目が、少し細くなった。
「……私たちが話してたときも?」
澄は画面を見た。
録音開始からずっと止めていなかった。
灯に問い詰められたときも。
看板が落ちたときも。
「……入ってる、と思う」
「私の声も?」
「うん。ごめん。わざとじゃないんだけど、止めるの忘れてて」
灯が黙った。
さっきの騒ぎとは違う沈黙だった。
澄はレコーダーを両手で包んだ。
あの音が録れている。
看板の金具が軋む音も、きっと入っている。
家で聞き返せば、自分が何を聞いたのか確かめられるかもしれない。あのとき見たものと、聞こえたものを、もう一度落ち着いて考えられる。
けれど。
「消してくれる?」
灯が言った。
澄は顔を上げた。
「……うん」
「雨の音を録るのは別にいいけど、私が話してたところは嫌だから」
「うん。そうだよね」
澄はメニューを開いた。
録音したファイルがひとつ表示される。
六月最初の、商店街の雨。
本当なら帰ってから名前をつけて、好きなところだけ残すつもりだった。
削除を選ぶ。
確認画面が出る。
はい。
短い電子音とともに、ファイルが消えた。
「消したよ」
灯は画面を一度確かめてから、うなずいた。
「ありがとう」
澄はレコーダーを鞄へしまった。
少し惜しかった。
正直に言えば、かなり惜しかった。
あの金属の音は、もう二度と録れないだろう。
でも灯の声も、彼女のものだ。
澄が勝手に持って帰っていいものではなかった。
「……雨宮さんって、そういうの好きなんだ」
灯が言った。
「え?」
「音を録るの」
「あ、うん。まあ。好きっていうか、趣味で」
「何に使うの?」
「何かに使うわけじゃないんだけど……あとで聞くのが好きで。普通の音でも、その日によって違うから」
澄は少し考えた。
「たとえば、今日みたいな雨とか。古い屋根と新しい屋根で、当たる音が違うし。商店街だと、お店の戸を閉める音とかも」
「ふうん」
灯は軒先の雨を見た。
「それ、面白い?」
澄は一瞬、答えに迷った。
人に説明すると、何でもないものばかりに聞こえてしまう。
自分でも、他の人が同じように楽しめるとは思っていなかった。
「……私は、面白いかな」
灯が澄を見る。
「なら、面白いんじゃない?」
それだけ言って、また雨へ顔を向けた。
澄は少し驚いた。
もっと「何がいいの?」と聞かれると思っていた。
灯の言い方は相変わらずそっけない。でも、否定されたわけではなかった。
返す言葉を考えていると、灯が先に口を開いた。
「で」
澄の肩が小さく跳ねた。
「さっきの話、まだ終わってないんだけど」
「……はい」
「なんで私について来たの?」
やっぱり、そこに戻る。
澄は鞄の持ち手を握り直した。
「えっと。野崎さんに、何かあったら困ると思って」
「私が?」
「うん」
「私、雨宮さんに何かした?」
「してない。全然」
「じゃあ、なんで?」
澄は答えられなかった。
朝、あなたの肩に「今日死ぬ」って出ていた。
その文字を、自分だけが見た。
きっと信じてもらえない。信じてもらえたとしても、今度はどうしてそんなものが見えるのかと聞かれる。
それは澄にもわからない。
説明できないことばかりだった。
「……ごめん。うまく言えない」
灯は少しの間、何も言わなかった。
それから、傘の留め具を指先でいじりながら言った。
「変だよ、それ」
「うん」
「私は知らないのに、雨宮さんだけ何か考えて、勝手について来たんでしょ」
「……そう」
「困る」
澄は顔を伏せた。
灯の言うとおりだった。
今日は、たまたま危ないところを避けられた。
けれど、それで後をつけてよかったことになるわけではない。
澄が口を開こうとすると、灯が続けた。
「でも、あの音は教えてくれて助かった」
澄は顔を上げた。
灯はまだ傘の留め具を触っていた。
「看板が変な音してるって、私、全然気づかなかったから」
「……うん」
「それはありがとう」
灯はまっすぐ澄を見た。
その目に、先ほどまでの疑わしさがまったく消えたわけではない。
ただ、今言ったことは本当なのだとわかった。
澄は胸のあたりが少し苦しくなった。
「私も、野崎さんが止まってくれたから、助かったんだと思う」
澄はそう言ってから、落ちた看板のほうを見た。
「あのまま歩いてたら、私も後ろをついていって……たぶん、あの下にいたから」
灯はしばらく看板を見ていた。
「でも、私が止まったのって、雨宮さんがついて来てたからだよね」
「……うん」
「雨宮さんがついて来なかったら、私はそのまま歩いてたかもしれない」
「そう、だと思う」
「で、雨宮さんがついて来たから、私が止まって。そしたら雨宮さんが変な音に気づいた」
灯は指を折って数えていたが、三本目でやめた。
「なんか、ややこしいね」
澄も、うなずくしかなかった。
自分が何もしなかったら、どうなっていたのだろう。
灯が振り返らなかったら。
自分が録音を始めなかったら。
そもそも、朝あの文字を見ていなかったら。
どれかひとつ違っていたら、今ごろどうなっていたのか。考えようとすると、また喉が詰まりそうになる。
「まあ、助かったのは助かったから」
灯は傘を持ち替えた。
「そこはお互い、よかったってことで」
「……うん」
「でも、後ろをついて来たのは別だからね」
「あ、はい。それは本当に、ごめんなさい」
澄が頭を下げると、灯は少し困ったような顔をした。
「そこまで謝らなくてもいいけど。次からは普通に声かけて」
「うん。そうする」
「今日だって、昼休みに話しかけてきたじゃん」
「……あれは、一応」
「一応?」
灯が眉を寄せた。
澄は視線を泳がせる。
「あのときは、ちゃんと聞こうと思ってたんだけど。野崎さんが傘を持ってるって言ったから、その……」
「傘を持ってると何か困るの?」
「ううん。そうじゃなくて」
「じゃあ、何を聞きたかったの?」
澄は口を閉じた。
灯は答えを待っている。
昼休みと同じだった。けれど今は、何も起きなかったことにして笑って済ませる気にはなれなかった。
「……まだ、うまく言えない」
澄は濡れた靴の先を見つめてから、もう一度顔を上げた。
「でも、野崎さんが嫌だったのはわかった。ごめんね」
灯はすぐには答えなかった。
軒先から落ちる雨粒が、二人の足元に小さな水たまりを作っている。
「うん。そこはわかってくれたならいい」
そう言ってから、灯は少しだけ首を傾けた。
「ただ、何が気になってたのかは、まだわかんないけど」
「……そうだよね」
「まあ、今すぐ聞いても同じ答えになりそうだし」
灯はそこで話を切り上げた。
澄はほっとした。それと同時に、何も説明できなかったことが、重たいまま胸に残った。
灯は問い詰めることをやめてくれた。
納得してくれたわけではない。
その違いくらいは、澄にもわかった。
写真館のほうで、金属を動かす音がした。
二人が振り返ると、店の人たちが落ちた看板の周囲に置くものを増やしていた。風はだいぶ弱まり、雨も細かくなっている。
商店街の通りには、少しずついつもの音が戻り始めていた。
雑貨屋の奥からレジの電子音が聞こえる。向かいの店では、店員が雨で濡れたのぼりを外していた。坂の下を走る車が、水を薄く跳ね上げていく。
それを聞いているうちに、澄はようやく、自分がお腹を空かせていることを思い出した。
昼休みからずっと落ち着かなかったせいで、弁当も半分ほどしか食べていない。
ぐう、と小さな音がした。
澄は思わずお腹を押さえた。
灯がこちらを見る。
「……今の、雨宮さん?」
「えっと」
「お腹?」
「……たぶん」
「それはたぶんじゃなくてもわかると思う」
灯が真顔で言った。
澄は返事に困り、少し笑った。
すると灯も口元を緩めた。
初めて見る表情だった。
大きく笑うわけではない。ただ、いつもまっすぐこちらを見てくる目が、ほんの少し細くなる。
こんな顔もするんだ、と澄は思った。
教室で聞いていた灯の声は、いつも誰かに何かを確かめている声だったから。
「雨宮さん、帰りは?」
灯が尋ねた。
「あ、私はスーパーに寄ってから。牛乳を買わなきゃいけなくて」
「牛乳?」
「うん。朝、残りが少なかったから。忘れると明日の朝、困るし」
灯は澄の鞄を見た。
「そういう用事があるなら、なんでこっちまで来たの?」
「……そうだね」
澄は笑ったまま、声を小さくした。
本当に、そうだ。
牛乳を買うだけなら、もうとっくにスーパーへ着いていたはずだった。
「野崎さんは、まだ用事あるの?」
「ある。この先の店に行くつもりだった」
灯は写真館の向こうを指した。
看板が落ちた場所は通れなくなっているが、一本横の細い路地から回れば、坂の下へ抜けられる。
「取り置きしてもらってるものがあって。閉まる前に受け取りたい」
「あ、そっか。じゃあ、急がないと」
「うん。もうだいぶ遅くなった」
灯は腕時計を確かめた。
澄もつられて時間を見ようとし、腕時計をしていないことに気づく。今日は朝から何度もスマホで時間を確認していたのに、こういうときに限って忘れてしまう。
灯は傘を広げかけて、動きを止めた。
「雨宮さん」
「うん?」
「さっき、私が止まってなかったら危なかったって言ってたよね」
「……うん」
「じゃあ、雨宮さんがついて来たのも、結果的にはよかったのかもしれないけど」
灯は傘の骨を一本、指で直した。
「だからって、また同じことしなくていいからね」
澄は一瞬、何も言えなくなった。
見透かされたような気がした。
もし明日、また何かが見えたら。
次も、誰かを追いかけてしまうかもしれない。理由を説明できないまま、その人の行くところを確かめずにはいられなくなるかもしれない。
今日だって、灯が自分を問い詰めなければ、いつまでついていったかわからない。
「……うん」
澄は小さくうなずいた。
「今度は、ちゃんと声をかける」
「そうして」
灯が傘を開いた。
紺色の布が、ぱん、と音を立てて広がる。
澄はその音を聞きながら、どうしてかもう一度、灯の顔を見た。
髪の先が濡れて、頬に貼りついている。制服の袖もまだ乾いていない。
靴下には、跳ねた泥がついていた。
ついさっきまで、あの看板の下にいた人だ。
今日、死ぬはずだったのかもしれない人。
「……野崎さん」
「何?」
灯が振り返る。
澄は言いかけた言葉を飲み込んだ。
気をつけて。
危ないから、今日はもう帰って。
できれば、ずっと目の届くところにいて。
そんなことを言いたかった。
でも、どれも自分を安心させるための言葉に思えた。
灯には、灯の用事がある。
今日の残りをどう過ごすかまで、澄が勝手に決めていいはずがない。
「あの……帰り、あっちの路地、ちょっと狭いから」
「知ってる。自転車が通るとき、すれ違うの大変なところでしょ」
「そう。だから、足元とか」
言いながら、また昼休みと同じことを言っていると気づいた。
灯も気づいたらしい。
「雨宮さん、足元好きだね」
「……好きっていうか、気になるだけで」
「大丈夫。見て歩くから」
灯はそう言って、傘を少し持ち上げた。
「雨宮さんも。滑らないでね」
「あ、うん。ありがとう」
灯は頷いて、路地のほうへ歩き出した。
今度は振り返らなかった。
澄は軒下に残った。
紺色の傘が角を曲がり、見えなくなる。
そのあとも、少しの間、同じ場所に立っていた。
追いかけたくならなかった、と言えば嘘になる。
あの文字が示していたのは、本当にさっきの事故だったのだろうか。
ほかにも何か起きるかもしれない。今日という日は、まだ終わっていない。
スマホを取り出して時間を見れば、五時を少し回ったところだった。
夜までは、まだ長い。
それでも澄は、路地へ向かわなかった。
代わりに、鞄の中から折り畳み傘を取り出す。
濡れた骨を一本ずつ確かめて、今度はゆっくり開いた。
小さな傘だったけれど、風が弱まった今なら十分だった。
澄はスーパーへ向かって歩き始めた。
*
牛乳は、いつも買うものが一本だけ残っていた。
澄は冷蔵ケースから取り出し、賞味期限を確かめた。ついでに隣に並んでいるヨーグルトの値段も見たが、今日は買わないことにした。
夕方のスーパーは混んでいた。
惣菜売り場から揚げ物の匂いがして、レジの近くには仕事帰りらしい人が並んでいる。店内放送が流れ、買い物かごの持ち手がかちゃかちゃと鳴った。
何も変わっていない。
いつもの時間に、いつもの人たちが買い物をしている。
澄も、その中の一人だった。
牛乳の代金を払って店を出ると、雨はほとんどやんでいた。
坂の下から見上げる空には、雲の切れ間ができている。濡れた道路が夕方の光を映し、商店街の向こうまで薄く明るくなっていた。
澄はエコバッグを持ち直した。
牛乳一本の重さが、腕にかかる。
今日の朝、見たもの。
昼休みに言えなかったこと。
放課後の、金属が擦れる音。
灯がまっすぐ向き直ったこと。
手首をつかまれたときの、強い力。
それから、落ちた看板。
思い出す順番がばらばらだった。
考えれば考えるほど、どこからどこまでが偶然だったのかわからなくなる。
あの文字が出たとき、澄は何もできないと思った。
実際、一日中ほとんど何もできなかった。
まともに警告することも、理由を話すことも。
怖くて、ただついていくだけだった。
それなのに、灯は生きている。
自分が何を変えたのか、澄にはわからなかった。
ただ、あの場所で二人が立ち止まったことだけは、確かだった。
信号待ちの間、澄は鞄の中のレコーダーに触れた。
今日の録音は、ひとつも残っていない。
雨が降り始めた商店街も、看板が落ちた瞬間も、灯と話した声も。
録音していたのに、自分で消した。
少し残念だった。
今でも、聞き返したいと思う。
けれど、消さなければよかったとは思わなかった。
灯が嫌だと言ったのだから。
そういうことは、ちゃんと覚えていたかった。
信号が青になる。
澄は横断歩道を渡った。
反対側の歩道に着いたところで、ふと足を止める。
商店街のほうから、店のシャッターを下ろす音が聞こえてきた。
がらがら、と長く響いて、最後に重たい金属音がひとつ鳴る。
いつもの音だった。
そのすぐあと、少し離れた店から別のシャッターの音がした。こちらは途中で一度引っかかるらしく、がたん、と短い音が混じる。
澄は耳を澄ませた。
いつもなら、録音していただろう。
でも今日は、レコーダーを取り出さなかった。
ただ立ち止まって、最後まで聞いた。
音が途切れると、急に周囲が静かになったように感じた。
その静けさの中で、灯の声を思い出す。
『何?』
『じゃあ、なんで?』
『次からは普通に声かけて』
澄は小さく息を吐いた。
苦手な相手だと思っていた。
今も、たぶん苦手だ。
何を聞かれるかわからないし、言い訳をすればすぐに見抜かれる。黙っていれば、答えが出るまで待たれてしまう。
今日もずいぶん困った。
けれど、灯が足を止めてくれなければ、澄はあの音に気づくことさえできなかったかもしれない。
そのことを思うと、ただ苦手というだけでは、どうにも収まりが悪かった。
明日、教室で会ったらどうしよう。
何事もなかったように挨拶をするのも変だし、避けるのはもっと変だ。
灯のほうは、きっと普通に聞いてくる。
昨日のあれ、結局何だったの。
そんなふうに。
澄は想像して、少しだけ顔をしかめた。
明日のことを考えて困るなんて、朝には思ってもいなかった。
それでも。
明日、あの教室に灯がいるところを想像すると、胸の奥が少し軽くなった。
澄はもう一度、商店街のほうを振り返った。
坂の途中は建物に隠れて見えない。灯が今どこにいるのかもわからなかった。
「……また明日」
声にしてから、澄は慌てて周囲を見た。
幸い、近くには誰もいない。
誰に向かって言ったのか、自分でもよくわからない。
澄はエコバッグを持ち直し、家へ向かって歩き始めた。
牛乳はちゃんと買った。
夕食までには帰れる。
たぶん、今日はもう、普通の一日として終わってくれる。
そう思いながら歩く澄の足元で、水たまりを踏んだローファーが、きゅっと小さな音を立てた。




