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もう夫婦ごっこは終わりにしましょう?  作者: 九葉(くずは)


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第9話 証明

 王室外務省の紋章入りの招聘状には、私の名前が記されていた。


 「ロザリンド・フォン・アッシェンバッハ殿。来月開催の国際通商会議において、竜語方言の通訳を務められたく、ここに正式に招聘する」


 竜語方言。北方少数民族の言語。母から受け継いだ言葉。

 添えられた書面によれば、王国内で竜語方言を正確に訳せる人材は三名。うち二名は七十代で体調を理由に辞退。残る一名——私。


 港町領主ベルント閣下の推薦状も添えてあった。「疫病対策における翻訳の功績」を根拠に、外務省に推薦してくれたらしい。


 マティアスさんに見せたら、目を細めて言った。


「行ってこい、先生。先生の仕事を、一番大きな舞台で見せてやれ」


「……怖いです、正直」


「怖くない仕事なんて、たいした仕事じゃない」


 笑って、送り出してくれた。



   ◇



 王都。国際通商会議。


 会議場は、公爵邸の大広間よりも広かった。天井の高い石造りの部屋に、各国の代表が並んでいる。帝国語、海洋語、そして今回の焦点——北方民族との通商協定のための竜語方言。


 通訳席は壇上の隅にある。代表たちの視線を浴びながら、三つの言語を同時に処理する。


 竜語方言は厄介だ。同じ単語が文脈で全く異なる意味を持つ。「風」を意味する単語が、交易の文脈では「信用」を意味する。母がよく言っていた——「竜語は空気を読む言葉なのよ」。


 会議が始まった。


 北方民族の代表が竜語方言で発言する。私が王国語に訳す。帝国の代表が帝国語で返す。私が竜語方言に訳し返す。

 三つの言語が、私の頭の中で交差する。


 集中。一語も落とせない。

 「風の道を開く」——これは竜語方言の慣用句で「関税を撤廃する」の意味だ。直訳すれば意味不明になる。母から教わった言い回しが、今ここで生きている。


 帝国の外交官が早口でまくし立てた。反論だ。「Vertragspflicht」——履行責任。この言葉が出た瞬間、反射的にいつもの訳語を選んだ。私の手は、この言葉をいつも同じように訳す。それが正確だと知っているから。


 三時間。

 通商協定の基本条項が合意に達した時、会議場に拍手が起きた。


 北方民族の代表が、私に向かって頭を下げた。竜語方言で「ありがとう、風を読む人」と。

 母の言葉だ。母と同じ言葉で、感謝された。


 目の奥が熱くなったが、泣かなかった。ここは仕事の場だ。



   ◇



 晩餐会は、会議場に隣接する大広間で開かれた。


 各国の代表、貴族、外交官たちが集う華やかな場。私は通訳者として末席に座っている。見覚えのある顔が何人かいた。社交界の令嬢たち。そして——エステラ・フォン・クラインハイム。伯爵家の令嬢として、会場の一角に座っている。


 晩餐会の中盤。

 ヴェルトハイム帝国の外交官——シュルツ氏が、スピーチの中でエステラの翻訳書を引用した。


「本日合意に至った通商協定の前例として、クラインハイム伯爵令嬢による帝国通商慣習法の王国語訳を参照したい。この翻訳書では——」


 シュルツ氏が翻訳書の一節を読み上げた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。


 「Vertragspflicht」が「履行責任」と訳されている。

 「Handelsbrauch」が「商慣行」。

 「Gütertransport」が「物品運搬」。


 ——私の訳だ。


 シュルツ氏が読み上げを終えて、顔を上げた。怪訝な表情。


「……失礼。先ほどの通訳で、同じ表現を聞いた気がするのだが」


 会場が静まった。


「『履行責任』『商慣行』『物品運搬』——これらの訳語選択は、先ほどの通訳者と全く同じだ。翻訳者が異なるのに、訳し方のパターンが完全に一致している。これは——」


 シュルツ氏が私を見た。それからエステラを見た。


「同一人物の仕事ではないか?」


 会場がざわめいた。


 エステラの顔から血の気が引くのが、離れた席からでも分かった。


 私は何も言わなかった。

 言う必要がなかった。


 外務省の書記官が動いた。会議に提出されていた通訳記録——速記官が書き取った私の訳文——と、エステラの翻訳書を並べて照合が始まった。


 十分後。

 書記官が報告した。


「訳語の選択パターンが、十七箇所で完全に一致しています。偶然の一致とは考えにくい」


 エステラが立ち上がろうとした。椅子が鳴った。だが何も言えず、また座った。


 外務省の書記官が宣言した。


「訳語パターンの一致は偶然の範囲を超えています。正式な調査を開始し、原著者の特定を行います」


 後日、港町の工房から取り寄せた私の公爵家時代の翻訳原稿が証拠として提出されることになる。出版時期の比較と合わせて、盗作は覆しようのない事実として確定する——が、それはもう少し先の話だ。


 この晩餐会で確かだったのは、十七箇所の一致という数字の前に、エステラが一言も反論できなかったという事実だけだった。


 ——私は復讐を仕掛けていない。自分の仕事を、自分の名前で、誠実にやっただけだ。

 その結果として、盗まれた仕事の痕跡が、自然に浮かび上がった。


 港町の小さな工房で、一語一語丁寧に訳してきた。マティアスさんに叱られ、タル換算を間違え、夜中にランプの油を切らしながら。

 その積み重ねが、ここにある。


 (私の仕事は、誰にも奪えない)


 あの書店で盗作に気づいた日から、ずっと胸の奥にあった棘が、音もなく抜けた。



   ◇



 晩餐会の片隅。


 エステラは、空になったグラスを握ったまま動けなかった。


 どうして。

 どうしてあの女ばかり。


 地味で、退屈で、公爵にも見向きもされなかった女。あの翻訳は「妻の趣味」だったはずだ。太夫人もそう言っていた。だから原稿をもらって、自分の名前で出しただけ。才媛の名に恥じない仕事が必要だった。母にそう育てられた。才媛であれ、と。


 でも——才能がなかった。

 認めたくないが、翻訳はできなかった。だから借りただけ。


 借りた。


 ……盗んだ。


 グラスの縁が、微かに震えていた。



   ◇



 晩餐会が終わりかけた頃。


 回廊に出ると、夜風が秋の冷たさを運んできた。一人になりたかった。頭の中がまだ三つの言語で渦を巻いている。


 柱の陰に、見慣れた灰色の髪があった。


 レクトール様。


 いつからそこにいたのだろう。壁に背を預けて、会場の方を見ていた。通訳席が見える位置だ。


 私に気づいて、こちらを向いた。


「……見事だった」


 短い。いつも通り。

 でも——声が少し低かった。いつもの事務的な低さではなく、もっと柔らかい何か。


 日記を読んだ後だから、分かる。

 この人にとって「見事だった」のひと言は、聖典古語の恋文一通分くらいの重みがある。現代語で感情を伝えることが、この人にはどれほど難しいか、今の私は知っている。


 目が合った。

 灰色の瞳。何も映さないと言われた目。でも今は——何かが映っている。


 私は、目を逸らした。

 自分から。初めて。


 三年間、目を合わせてくれなかったのはこの人の方だった。それなのに今、逸らしたのは私の方だ。


 心臓が、うるさい。


「明日——話がある」


 レクトール様の声が、秋の夜風に乗って届いた。


「……はい」


 それだけ答えて、回廊を歩き出した。振り返らなかった。


 ——振り返ったら、たぶん、泣いてしまうから。

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