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もう夫婦ごっこは終わりにしましょう?  作者: 九葉(くずは)


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第8話 少年の日記

 恋文の代わりに届いたのは、色褪せた革表紙の日記帳だった。


 工房の机の上。いつもの翻訳文書の封筒と一緒に、セバスティアンが置いていった。添えられた手紙には、レクトール様の筆跡で「聖典古語および古い王国語で書かれた日記の翻訳を依頼する。内容は古い私的な記録」とだけ書いてある。


 恋文は、もう入っていなかった。


 当然だ。突き放したのだから。


 日記帳を手に取る前に、工房の扉を叩く音がした。

 開けると、見覚えのある金髪が立っていた。



   ◇



「久しぶりだな、ロザリンド」


 兄——カール・フォン・アッシェンバッハ。侯爵家の当主。

 三十歳の青年は、港町の路地に不似合いな上等の外套を着て、工房の中を値踏みするように見回した。


「……兄上。どうされましたか」


「どうもこうもない。妹が港町で翻訳者をやっていると聞いて、確かめに来た」


 椅子を勧めたが、座らなかった。立ったまま私を見下ろす。この人はいつもそうだ。


「帰ってこい、ロザリンド。お前は侯爵家の令嬢だ。港町で翻訳屋なんぞやっている場合ではない」


「帰る家はありません」


「ある。実家がある」


「私を政略の道具にした家が、帰る家だとは思えません」


 カールの表情が歪んだ。


「家のためだった。お前だって分かっているだろう」


「ええ、分かっています。だから帰りません」


 カールが一歩踏み出した。声を低くする。


「……金の話をしよう。侯爵家は今、苦しい。お前が公爵家に戻れば——」


「戻りません」


「持参金の件もある。あれはお前の持ち分だ。公爵家に返還を求めれば——」


「持参金は私が放棄しました。離縁届に付記してあります」


 カールが口を開いて、閉じた。

 知らなかったのだ。私が持参金を放棄したことを。あの金を返してもらえると思って来たのだろう。


「カール様」


 兄上、ではなく。

 カールの目が見開かれた。


「もう家族ではありませんので。お引き取りください」


 沈黙。

 カールは何も言わずに工房を出ていった。外套の裾が扉に引っかかったのを、乱暴に引き抜いて去っていく。


 扉が閉まった後、深呼吸をした。

 手は震えていない。声も裏返らなかった。


 ——兄を切ったことに、痛みはなかった。とうに切れていた縁を、言葉にしただけだ。



   ◇



 日記帳を開いた。


 革表紙の裏に、幼い文字で名前が書いてある。レクトール・フォン・ヴァイスベルク。七歳の文字だ。たどたどしい王国語で綴られている。


 最初のページ。


 ——「今日、泣いたら、お母様に晩ごはんを抜かれた。お父様が死んだのは僕のせいじゃないのに。泣くなと言われた。公爵家の男は泣かないのだと」


 ペンを置いた。


 七歳。この日記を書いた時、この人は七歳だった。

 父を亡くして泣いたら、食事を抜かれた。


 ページをめくる。


 ——「笑ったら殴られた。使用人のセバスティアンが面白い話をしてくれたから笑ったのに、お母様に見つかった。『感情は弱さだ』と言われた。強い子になりなさいと」


 ——「詩の朗読だけは怒られない。聖典古語の詩を暗唱すると、お母様は『教養がある子ね』と言ってくれる。だから僕は詩をたくさん覚えた。詩の中にだけ、僕の気持ちを隠した」


 ここまでは王国語だった。幼い文字が、ところどころ滲んでいる。書いた時に、この子が泣いていたのだ。泣きながら「泣くな」と言われた少年が、日記に涙を落としていた。


 ページをめくる手が止まらなかった。


 ——「十二歳。詩の形式で日記を書くようにした。現代語で気持ちを書くと、見つかった時にお母様に怒られるから。聖典古語なら読めない。僕だけの言葉になる」


 十二歳のページから、文字が聖典古語に変わっていた。ここからが翻訳の本番だ。


 ——「十五歳。セバスティアンが執事になった。あいつだけが、僕が笑っても怒らない」


 ——「十八歳。もう泣き方を忘れた。笑い方も。怒り方も。全部忘れた。でも、詩の中にだけ、まだ残っている気がする」


 翻訳の手が震えていた。


 この人は——レクトール・フォン・ヴァイスベルクという人は。

 感情を持たなかったのではない。感情を殺されて育ったのだ。

 笑えば殴られ、泣けば食事を抜かれ、怒れば「弱い」と叱られた。

 聖典古語の詩の中にだけ、自分の感情を隠して生き延びた少年。


 だから恋文は聖典古語だった。

 現代語では、何も書けないのだ。感情を現代語で表現しようとすると、身体が固まる。母の声が聞こえるから。「感情は弱さだ」と。


 1通目の恋文を思い出した。文字が丁寧だった。一画ずつ慎重に書いていた。辞書を引きながら書いたのだと思っていたけれど——違う。丁寧に書かなければ、手が震えて書けなかったのだ。感情を文字にするだけで、身体が拒否する。それでも書いた。


 あの傘。雨の日に工房の前に置かれていた、上等な布張りの傘。

 言葉で伝えられないから、物で伝えようとしたのだ。翌日に風邪を引いていたのは、傘を届けた帰りに自分が濡れたからだ。


 セバスティアンが「楽しみにしておいででした」と言った時の、あの控えめな微笑み。

 あれは社交辞令ではなかった。あの執事だけが、この人の感情を読めるのだ。長い年月をかけて。


 離縁の日の、あの手の震え。

 ペンを三度落としたのは、怒りではなかった。


 (あの人は、私を失うことが怖かったのだ。でも「怖い」と言う方法を知らなかった)


 「この訳は美しい」。あの七文字が蘇った。

 聖典古語でしか感情を書けなかった人が、現代語で「美しい」と書いた。あれがどれほどの勇気だったか——今なら分かる。


 涙が落ちた。

 翻訳辞書の上に。母の遺品の辞書の上に、一滴。


 港町に来てから、ずっと泣かなかった。離縁の日も、一人暮らしの夜も、妨害された時も、兄に会った時も。

 今、初めて泣いている。


 この人のために。

 この人の、言葉にならなかった三年間のために。



   ◇



 翌朝。


 目が腫れていた。鏡を見て、少しだけ笑った。酷い顔だ。

 水で顔を洗って、朝のパンをかじる。いつもの味がする。世界は何も変わっていない。変わったのは私の方だ。


 日記の最後のページを開いた。

 日付は——結婚三年目。私が離縁届を出す、少し前の日付。


 ——「彼女の名を呼びたい。でも声が出ない。三年間、同じ屋根の下にいて、一度も名前を呼べなかった。詩でなら書ける。でも詩では届かない。届ける方法が分からない」


 ——「彼女が出て行ったら、俺は——」


 そこで日記は終わっていた。


 その先は書かれていない。離縁届が届いた日に、ペンを置いたのだろう。

 ペンを三度落としながら、署名したあの日に。


 翻訳原稿を丁寧に揃えて、封筒に入れた。

 宛名を書く。レクトール・フォン・ヴァイスベルク様。


 この名前を書く手が、今日は少しだけ温かかった。


 (この人を理解できるのは、三年間隣にいた私だけかもしれない)


 七通の恋文が入った引き出しを、そっと開けた。

 聖典古語の文字が並ぶ便箋。一通目から七通目まで。定型的な詩から始まって、少しずつ形が崩れて、最後は途中で終わっている。


 あれは壊れていったのではない。殻が剥がれていったのだ。


 窓辺の傘を見た。あの雨の日の傘。

 もう、誰かの忘れ物だとは思わなかった。

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