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もう夫婦ごっこは終わりにしましょう?  作者: 九葉(くずは)


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第7話 絶縁

 「母上。あの人に手を出したのは、あなたですか」


 公爵邸の応接間。

 レクトールは椅子に座らず、扉の前に立ったまま母を見下ろしていた。


 ヘルミーネ・フォン・ヴァイスベルクは、応接椅子に深く腰掛けて扇を揺らしている。いつもの姿勢。社交界を動かす女の余裕。


「手を出した、とは穏やかではないわね。私はただ、助言をしただけよ。あの女と取引を続ければ、公爵家に不利益があると」


「助言」


「ええ。母としての助言」


 扇が揺れる。その奥で、ヘルミーネの目が息子を値踏みしている。


 レクトールは答えなかった。数秒の間。応接間の時計だけが音を刻む。


「——母上。あの人の翻訳がなければ、帝国との通商交渉は三度破談していた。外交文書の処理を三年間支えたのはあの人だ」


「たかが翻訳でしょう? 代わりはいくらでも——」


「いない」


 短い否定。ヘルミーネの扇が止まった。


「後任を三人試した。全員、使い物にならなかった。あの人の代わりは、この国に何人もいない」


「……それは、能力の話ね。私が言っているのは立場の話よ、レクトール。あの女がいつまでも公爵家に関わっていれば、次の縁談に差し障る」


「縁談は必要ない」


「エステラ嬢なら——」


「必要ない」


 二度目の否定は、一度目より静かだった。


 ヘルミーネが扇を閉じた。ぱちん、と乾いた音が応接間に響く。


「あの女のために、母を捨てるつもり?」


「あの人を傷つける者は、母であっても許さない」


 声は低かった。怒鳴ったわけではない。俺は怒鳴り方を知らない。教わらなかったから。

 けれど母の——ヘルミーネの指が震えたのは見えた。


「お前の感情は私が育てたのよ。泣くな、笑うな、怒るな——全部、私が教えた。公爵家の当主にふさわしい人間に育てたのは私。それを——」


「ええ」


 レクトールが母の目を見た。

 灰色の瞳。何も映さないと言われた、氷の目。


「だからもう、あなたには従いません」


 ヘルミーネの顔から血の気が引くのが見えた。

 扇を持つ手が震えている。初めて見る母の動揺だった。


「家政の管理権を返していただきます。帳簿の全件精査を命じました」


「……待ちなさい、レクトール——」


「用件は以上です」


 応接間を出た。

 廊下で、セバスティアンが待っていた。何も言わず、深く一礼した。


 レクトールは振り返らなかった。

 指先が冷たかった。——怒りのせいだと、自分に言い聞かせた。



   ◇



 その日の夕方。マティアスさんが書店から駆けてきた。


「先生、聞いたか。取引先の出版社から聞いたんだが——クラインハイム伯爵家のお嬢さんが出した翻訳書に、とんでもない誤訳があったらしい」


「エステラ嬢の?」


「帝国との通商条約の条文を訳し間違えたそうだ。関税率の計算が全部ずれて、外交問題になりかけている」


 私は黙って聞いていた。


 あの本。私の訳語パターンがそのまま使われていた、あの翻訳書。

 盗作した原稿をそのまま使っているから、こうなる。私の翻訳は通商法の文脈に合わせて訳語を選んでいた。それを条約の条文に機械的に当てはめれば、当然ずれが生じる。


 翻訳とは、一語ずつ文脈に合わせて選び直す作業だ。コピーでは成立しない。

 エステラ嬢は——それを知らなかった。


「社交界では『本当にエステラ嬢ご自身の翻訳なのか?』って声が出始めているらしいよ」


 マティアスさんが言った。

 私は何も言わなかった。復讐するつもりはない。でも、才媛の仮面がどれだけ薄いものだったか、いずれ分かるだろう。


 (あの本の本当の著者が誰か、今はまだ誰も知らない。でも——)


 いつか、分かる日が来るかもしれない。その日まで、私は自分の仕事を続けるだけだ。



   ◇



 レクトール様が工房に来たのは、日が傾き始めた頃だった。


 いつもの翻訳文書の受け渡しではなかった。セバスティアンも馬車もなく、一人で。公爵家の紋章入りの外套を着たまま、工房の入り口に立っている。


「……どうされましたか」


「母のことは、もう心配しなくていい」


 唐突だった。前置きも説明もない。この人はいつもそうだ。


「妨害のことは知っている。母に直接言った。もう二度と手を出すなと」


 あ、と思った。

 この人は——あの人は。知っていたのだ。マティアスさんの書店に圧力がかかったことも、商人たちが離れていったことも。


「ありがとうございます」


 素直にそう言えた。感謝は、嘘ではない。


「もう誰にも邪魔はさせない」


 レクトール様の声は低く、静かだった。いつもの無表情。でも、声の温度だけが少し違う。6通目の恋文で途切れた言葉——「彼女を傷つける者がいるなら、俺は」——の続きを、今この人は行動で示しているのだろうか。


 だとしても。


「ありがとうございます、レクトール様。お気持ちは、本当に嬉しく思います」


 言葉を選んだ。一語ずつ、丁寧に。

 怒りではない。悲しみでもない。これは——線を引く作業だ。


「ですが、あなたの庇護は求めておりません。私は自分の力で立っています。妨害があっても、港町の方々が助けてくださいました。新しい取引先も見つけました」


 レクトール様の灰色の瞳が、微かに揺れた。


「私を守ってくださるお気持ちは分かります。でも——守られる形に戻ることは、できません。あの家にいた時と同じになってしまう」


 沈黙。

 工房の窓から、夕日が差し込んでいた。二人の影が床に伸びて、触れそうで触れない。


「……分かった」


 それだけ言って、レクトール様は工房を出ていった。

 足音が遠ざかる。

 扉が閉まる。


 一人になった工房で、息を吐いた。

 長い、長い息だった。



   ◇



 恋文の封筒が、今日の翻訳文書の中に入っていた。7通目。


 開く。聖典古語。


 ——「たとえ届かなくても、この言葉だけは聖典古語の闇に隠さない。俺は、ずっと——」


 そこで終わっていた。6通目と同じように、途中で筆が止まっている。

 でも今回は、止まった場所の紙がわずかに滲んでいた。ペンを長く押し当てすぎたのだ。書きたい言葉があるのに、出てこなかったのだろう。


 (この人は、守りたかったのだ。恋文でも、あの行動でも)


 分かっている。

 分かっていて、突き放した。


 守られたら——また、誰かの付属品に戻ってしまう気がした。公爵夫人ロザリンドではなく、翻訳者ロザリンドとして生きると決めたのだ。あの家の門を出た日に。


 でも。


 「あの人を傷つける者は、母であっても許さない」。

 マティアスさん経由で、その言葉が耳に入った時——胸の奥が痛かった。痛みの正体が何なのか、まだ名前をつけたくない。


 恋文を引き出しにしまった。七通。

 もう次は来ないかもしれない。突き放したのだから。


 窓辺の傘が、夕日の最後の光を反射して小さく光った。

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