第6話 妨害と味方
異変に気づいたのは、三件目のキャンセルが届いた朝だった。
一件目は、商人ギルドのヴェーバーさんからの輸入契約書の翻訳。「都合により取り消し」と一行だけ書かれた手紙。
二件目は、海洋語の船荷証券を依頼していた貿易商。使いの者が「今回はご縁がなかったということで」と気まずそうに言った。
三件目は、先週打ち合わせをしたばかりの毛織物商。こちらからの問い合わせに返事がない。
一件なら偶然。二件なら不運。
三件は——何かが動いている。
マティアスさんの書店に駆け込んだ。
「先生、座って」
マティアスさんが奥の椅子を引いてくれた。カウンターの上にお茶を置いて、自分は立ったまま腕を組む。穏やかな目に、怒りの色が混じっていた。
「ヴェーバーさんに聞いてみた。あの人は嘘が下手だから、しどろもどろに白状したよ」
「何を言っていたんですか」
「『公爵太夫人の使いが来た。あの翻訳者と取引を続けるなら、公爵家との取引は打ち切ると』」
公爵太夫人。
ヘルミーネ・フォン・ヴァイスベルク。あの人が動いたのだ。
指先が冷たくなった。感謝状をもらったあの朝とは違う冷たさ。生活の基盤が崩れる恐怖だ。
「王都の貴族と取引がある商人は、太夫人に逆らえない。ヴェーバーさんも、毛織物商のケスラーさんも、貴族向けの上得意を失うわけにいかないんだ」
「……そう、ですか」
声が震えそうになったのを、お茶を飲んで誤魔化した。
まずい、と思った。せっかく軌道に乗り始めた翻訳業が、根元から折られようとしている。
(また、居場所を失うの?)
公爵邸を出た時と同じだ。私の意思とは関係なく、誰かの力で場所を奪われる。
——いや。
同じじゃない。
あの時は一人だった。でも今は。
「先生」
マティアスさんが腕を解いた。
「太夫人の手が回るのは、王都と繋がりのある商人だけだ。うちの書店は関係ない。港町の地元の商人にも、公爵太夫人の名前は届かない」
「でも——」
「それにね」
マティアスさんが、少しだけ笑った。
「先生の翻訳で息子が助かった肉屋のブルクハルトさんが、今朝うちに来てこう言ったよ。『あの先生を困らせる奴がいるなら、俺が殴りに行く』って」
笑えなかった。笑いたかったけれど、喉の奥が詰まって笑えなかった。
◇
その日のうちに、動いた。
まず、隣国ヴェルトハイム帝国の出版社に手紙を書いた。帝国語の翻訳実績を添えて、翻訳業務の売り込み。ヘルミーネの影響力は国境の向こうには届かない。
次に、港町の市場を回った。
疫病の時に翻訳で助けた商人たちに、直接顔を見せて回る。
「先生! 聞いたよ、嫌がらせされてるんだって?」
魚市場のおかみさんが声を上げた。
「公爵の太夫人がどうしたって? 知らないね、そんな偉い人。でも先生のことなら知ってるよ。うちの旦那の熱を下げてくれた薬、先生が訳した本のおかげだろう?」
「いい翻訳の仕事があったら回すから。うちの取引先は王都の貴族なんかと付き合いないしね」
港の労働者、船乗り、市場の露天商。
ヘルミーネの名前を聞いたことすらない人たちが、私の味方だった。
肉屋のブルクハルトさんは「殴りに行く」を本気で実行しかけて奥さんに止められていた。パン屋のおかみさんは「とりあえず食べな」とライ麦パンを二つ持たせてくれた。
翻訳とは関係のない人たちの、翻訳とは関係のない優しさが、胸に刺さった。
翻訳の仕事は減った。でもゼロにはならなかった。
マティアスさんの書店経由の依頼。港町の商人たちからの直接依頼。隣国の出版社からの返事はまだ来ないが、手紙は確かに出した。
(ここが、私の居場所だ)
公爵邸では手に入らなかったもの。名前で呼ばれること。仕事を認められること。困った時に手を差し伸べてくれる人がいること。
全部、この港町にある。
◇
夜。工房のランプの下で、レクトール様から返却された翻訳原稿をチェックしていた。
通商書簡の翻訳に、修正指示はなかった。いつも通りだ。この人が修正を入れてきたことは一度もない。
最後のページをめくった時、余白に書き込みがあった。
見慣れた筆跡。レクトール様の文字だ。
——「この訳は美しい」
七文字。
たった七文字の書き込みが、通商書簡の余白にぽつんと残されていた。
翻訳の品質に対する評価。
仕事上のコメント。そう、それだけのことだ。
——なのに。
この人は、三年間の結婚生活で、一度も私の翻訳を褒めなかった。
一度も「正確だ」とも「助かった」とも言わなかった。報酬の三倍は言葉の代わりだったのかもしれないけれど、言葉そのものは一度もなかった。
それが今、たった七文字。
「美しい」という、仕事の精度とは関係のない言葉。
正確だ、ではなく。有能だ、でもなく。
美しい。
翻訳に「美しい」という評価をする人を、私は他に知らない。翻訳は正確であることが全てで、美醜の問題ではない。
——この人は、翻訳の何を見て「美しい」と思ったのだろう。
(この人の言葉には、温度があるのかもしれない)
今まで考えたこともなかった。氷の公爵の言葉に温度があるなんて。
原稿の下に、恋文の封筒がもう一通入っていた。6通目。
開く。聖典古語。今度は——途中で筆が止まっていた。
——「彼女を傷つける者がいるなら、俺は——」
そこで文字が途切れている。
続きはない。ペンの跡だけが便箋の上で止まっている。
書こうとして、書けなかった言葉。
この人は何を言おうとしたのだろう。
窓の外に、傘が立てかけてある。あの雨の日に誰かが置いていった傘。未だに持ち主は現れない。
(気のせいよ。全部、気のせい)
封筒を引き出しにしまって、ランプの芯を絞った。
◇
公爵邸。夜。
レクトールは執務室の机に向かっていた。通商条約の草案に目を通しているが、文字が頭に入らない。
「旦那様」
セバスティアンが入室した。いつもの完璧な姿勢。だが、表情にわずかな緊張がある。
「何だ」
「港町のロザリンド様——失礼、ロザリンドさんの件ですが。取引先の商人が、立て続けに翻訳の依頼を取り消しているそうです」
ペンが止まった。
「理由は」
「太夫人のお名前で、圧力がかかっている模様です。『公爵家に関わる翻訳者と取引するな』と」
レクトールは数秒間、何も言わなかった。
ペンを置く動作だけが、妙に丁寧だった。紙の上に、静かに、音を立てずに。
「いつから」
「二週間ほど前からかと」
二週間。
あの人はその間、誰にも言わず一人で耐えていたのか。
レクトールの灰色の瞳が、セバスティアンを見た。
氷の公爵の目に、初めて温度が宿っていた。冷たさとは逆の温度。静かに、深く、燃えるもの。
「——母上に会う」
セバスティアンは深く一礼した。
この主人が怒りを見せたのは、自分が知る限り、これが二度目だった。一度目は——幼い頃、母に叱られて泣いた使用人を庇った時のことだ。
あの時も今も、怒りの理由は同じだった。
誰かが、傷つけられている。




