第5話 雨と傘と感謝状
港町に疫病が出たのは、春の嵐が過ぎた翌週のことだった。
あれから二ヶ月。通商書簡の翻訳をこなしながら、恋文も4通目まで訳した。4通目には「彼女が誰かを助ける時、瞳が一番輝く」と書いてあった。疫病の翻訳で徹夜している最中に届いたそれを、深く考える余裕もなく訳してしまった。
高熱と発疹。港の労働者から始まって、市場の商人たちに広がった。医師は手を尽くしているが、原因も治療法も分からない。
マティアスさんが工房に駆け込んできたのは、発症者が三十人を超えた日の朝だった。
「先生——ロザリンドさん、この本、読めるか?」
差し出されたのは、見たことのない言語で書かれた古い書物。革の表紙が擦り切れて、ページが黄ばんでいる。
竜語方言だった。
「読めます。これは……北方民族の薬草療法書ですね」
「領主のベルント閣下が、対策を探していて見つけたらしい。でも王都の翻訳者に送る時間がない。三日以内に主要な章だけでも訳せないかと」
三日。竜語方言の医学用語は、母の辞書にも全ては載っていない。幼い頃に母から聞いた言葉を記憶から掘り起こしながら訳すしかない。
「やります」
三日間、ほとんど眠らなかった。
竜語方言の古い表記は癖が強い。同じ薬草に三つの呼び名があったり、症状の描写が詩的すぎて医学的な意味を掴みづらかったり。
「赤い月が血管を歩く」——これは高熱による発疹のことだと、三時間かけてようやく分かった。母が昔、私の風邪を診ながら「赤い月が来たわね」と笑っていたのを思い出したからだ。
母が生きていたら、もっと早く訳せただろう。
でも母はいない。だから私がやる。
母の言葉を、母の記憶を、今この町のために使う。それが私にできる唯一のことだ。
三日目の夕方、翻訳を領主の補佐官に届けた。
その翌週、北方民族の薬草療法に基づいた煎じ薬が港町に行き渡り、新たな発症者は激減した。
◇
感謝状を受け取ったのは、初夏の光が工房に差し込む朝のことだった。
領主のベルント閣下が、供を一人だけ連れて、直接工房に来た。
恰幅のいい中年の男性が、小さな工房の入り口で少し窮屈そうに頭を下げる。
「ロザリンド先生。あなたの翻訳がなければ、港町は大変なことになっていた。心から感謝する」
先生。
そう呼ばれるのは初めてだった。
「……もったいないお言葉です」
「いや、もったいなくなどない。あの薬草療法書を三日で訳せる人間は、この国にほとんどいないと聞いている」
革表紙の感謝状を両手で受け取った。領主の署名と港町の紋章が押してある。紙は上質だが、飾り気はない。実務の人の書く感謝状だ。
公爵家にいた頃、社交界で受け取った数々の招待状や賛辞よりも、この一枚の方がずっと重い。
領主が帰った後、マティアスさんが書店から顔を出した。
「先生、おめでとう」
「……マティアスさん、いつから『先生』に?」
「今日から。港町の恩人だ。先生と呼ばせてくれ」
くすぐったい。
でも、悪い気分ではなかった。
◇
翌日は、朝から雨だった。
初夏にしては冷たい雨。工房の窓を叩く音が、一晩中続いていた。
朝、工房の前に出ると、扉の横に傘が一本立てかけてあった。
見覚えのない傘。布張りの上等なつくりで、港町の雑貨屋に並ぶようなものではない。柄に何の印もない。新品だ。濡れた形跡もない。雨が降り出す前に置かれたのだろう。
(誰かの忘れ物かしら。でも、うちの工房を訪ねる人なんて……)
とりあえず工房の中に入れておいた。
その日の午後、レクトール様が翻訳文書の受け取りに来る予定だった。
約束の時間を三十分過ぎて、セバスティアンだけが現れた。馬車から降りてきた執事の袖口が、わずかに湿っている。
「旦那様は少々体調を崩しておいでで。風邪のようです」
「風邪? この時期に?」
「ええ。昨日、雨の中を——」
セバスティアンが言いかけて、口を閉じた。
この人はいつもそうだ。言いかけて止まる。まるで、言いたいことの半分を飲み込んで生きているみたいに。
「……何でもございません。こちら、次の翻訳依頼です」
通商書簡の封筒を受け取りながら、ふと訊いた。
「セバスティアン。あなた、私のことを何とお呼びになるか、まだ決まっていないでしょう」
「……は」
「もう奥様ではないのですから。好きに呼んでくださいな」
セバスティアンが困った顔をした。長年の習慣と、正確さへのこだわりが戦っている顔。
「……では、ロザリンド様と」
「『様』は要りませんが、まあいいでしょう」
通商書簡の封筒と一緒に、もう一通。5通目の恋文だ。
セバスティアンが帰った後、恋文を開いた。
聖典古語。もう詩の形式はほとんどない。
——「彼女の笑顔を見ると、世界で一番愚かな男になる。何も言えなくなる。何もできなくなる。ただ見ている。ただ、見ていた」
心臓が跳ねた。
「見ていた」。過去形。
「三年間、隣にいた」。3通目の言葉が蘇る。
「小首を傾げる」。2通目の仕草。
(もしかして——この恋文は)
指先が冷たくなった。
——いや。あり得ない。
三年間、一度も同じ部屋で食事を取らなかった人。一度も名前を呼ばなかった人。目を合わせたのは数えるほどしかなかった人。
その人が、私に恋文を書く?
(三年間一度も目を合わせなかった人が、今さら? そんなことがあるわけがない)
あるわけがない。
そう結論づけて、翻訳を続けた。
ペンを持つ手が、微かに震えていた。
怒りでも呆れでもなかった。何なのかは——まだ分からない。分かりたくない。
◇
夜。
感謝状を壁に掛けた。工房で一番光が当たる場所に。
壁に掛かった感謝状を見つめていると、じわりと胸に熱いものが広がった。
公爵家にいた三年間、翻訳は「妻の趣味」だった。
誰にも評価されず、誰にも感謝されず、誰にも名前を呼ばれなかった。
ここでは違う。
私の翻訳で、誰かの熱が下がった。誰かの子供が助かった。
(私の言葉が、人を救えるんだ)
涙は出なかった。代わりに、少しだけ笑えた。
離縁の日と同じだ。あの日も、公爵邸の門を出る時にそうだった。泣く代わりに笑う。この癖は、たぶんずっと治らない。
窓辺に立てかけた誰かの傘が、ランプの光を受けて小さく光っていた。
◇
王都。ヴァンデルシュタイン伯爵邸の夜会。
華やかなシャンデリアの下で、令嬢たちが扇の陰でひそひそと囁き合っている。
「聞きました? あの氷の公爵の元奥様」
「ああ、あの地味な方でしょう? 離縁されたとか」
「離縁じゃなくて、ご自分から出ていかれたのよ。それが今、港町で翻訳業をされていて——なんと、領主から感謝状をいただいたそうですわ」
「まあ! あの地味な方が?」
「港町の疫病を止めた翻訳だそうよ。商人ギルドからも引っ張りだこだって」
扇がぱちりと閉じる音がした。
エステラ・フォン・クラインハイムが、グラスを持つ手を止めていた。表情は笑みの形を保っているが、瞳の温度が下がっている。
「……翻訳ですか。随分とご熱心なことですわね」
その場を離れたエステラが向かったのは、ヘルミーネ・フォン・ヴァイスベルクが控える奥の間だった。公爵太夫人は夜会の主役にはならないが、奥の間から社交界を動かす女だ。
「お義母様。あの方の噂、お耳に入っていますか」
「入っていますとも」
ヘルミーネの扇が、ゆっくりと揺れた。
「港町の翻訳者。元公爵夫人。領主の感謝状」
扇が止まった。
「——あの女、潰しなさい」
エステラが微笑んだ。
その微笑みには、安堵と焦りが同じ分量だけ混じっていた。




