第4話 恋文の翻訳
恋文の翻訳など、人生で初めてだった。
工房の机に広げた便箋には、聖典古語の流麗な文字が並んでいる。教会の儀式でしか使われない古い言語。文字自体が美しい。細い筆致で一文字ずつ丁寧に綴られている。
1通目は、定型的な恋愛詩の体裁だった。
聖典古語には恋愛詩の長い伝統があって、韻律や構成にお作法がある。この文はそのお作法に忠実で、個人的な描写は少ない。
ただ、文字が丁寧だった。一画一画を慎重に書いている。聖典古語を日常的に書き慣れている人の筆跡ではない。教養として学んだ人が、辞書を引きながら一文字ずつ綴った——そんな丁寧さ。
翻訳としては難しくない。聖典古語は母の辞書に詳しい解説が載っている。一語ずつ拾って、王国語に置き換えていく。
——「夜明けに目を覚ますと、隣にいない人のことを考える」
……まあ、恋文だから、そういう内容にはなるだろう。
依頼主が誰であれ、仕事は仕事だ。淡々と訳す。
淡々と訳す。
——淡々と、訳しているはずなのに、なぜか耳が熱い。
2通目を開いた。
1通目よりも文体が崩れている。お作法から少し外れて、書き手自身の言葉が混じり始めている。
——「彼女は聡明だ。本を読む時に小首を傾げる。その仕草に気づいたのがいつだったか、もう思い出せない」
ペンが止まった。
本を読む時に小首を傾げる。
それは——私の癖だ。翻訳中に原文と辞書を見比べる時、無意識に首を傾げる。マティアスさんに「首、痛くないですか」と聞かれたこともある。
(まさか。偶然でしょう)
聖典古語の恋愛詩では、具体的な仕草を挿入して相手への観察眼を示す技法がある。「小首を傾げる」くらいの描写は珍しくない。
たまたま私と同じ癖を持つ、架空の相手に宛てた練習文。そう考えるのが自然だ。
自然だ。
自然に決まっている。
——それなのに、翻訳の手がいつもより遅い。
◇
翌日、翻訳した通商書簡を届けがてら、マティアスさんの書店を訪ねた。
「ロザリンドさん、ちょうどいい。商人ギルドのヴェーバーさんが、あなたの翻訳を読んで感心してたよ」
マティアスさんがカウンターの奥から身を乗り出した。
「帝国語の交易文書をここまで正確に訳せる人間は、港町にはいなかったって。次の輸入契約書もお願いしたいそうだ」
「本当ですか」
「本当。あと、海洋語の船荷証券の翻訳も一件入ってる。立て続けに依頼が来てるよ」
胸の奥が温かくなった。
私の翻訳を、誰かが必要としている。名前付きで。
「ありがとうございます、マティアスさん」
「礼は仕事で返してくれ」
マティアスさんが笑った。穏やかだけれど、ちゃんと目が笑っている。この人の前では、余計な虚勢を張らなくていい。
新しい依頼書を受け取って、ふと書棚に目をやった。
帝国語の翻訳書が並ぶ棚。その中に、見覚えのない背表紙があった。
『帝国通商慣習法 王国語訳 エステラ・フォン・クラインハイム訳』
手が伸びた。
社交界の才媛。あの華やかな伯爵令嬢が翻訳書を出版していたとは知らなかった。
最初のページを開いた。目次。序文。第一章。
読み進める。
三行目で、指が止まった。
——「Vertragspflicht」の訳語が「履行責任」になっている。
「契約義務」ではなく「履行責任」。交易文書の文脈では後者の方が正確だから、私はいつもこちらを使う。
偶然かもしれない。同じ判断をする翻訳者がいてもおかしくない。
読み進めた。
五行目。「Handelsbrauch」が「商慣行」と訳されている。一般的には「商習慣」を使う翻訳者の方が多い。私は語源に忠実に「商慣行」を選ぶ。
七行目。「Gütertransport」が「貨物輸送」ではなく「物品運搬」。これも私の癖だ。「輸送」は近代的すぎるから、異世界の文脈では「運搬」を使う——
一箇所なら偶然。
二箇所なら類似。
三箇所は——
血の気が引いた。
これは私の翻訳だ。
公爵家にいた頃、私が訳した通商法の文書。あの原稿が、エステラ嬢の名前で出版されている。
ページをめくる手が震えた。読み進めるたびに、自分の訳語パターンが次々と現れる。文の構造、語順の選び方、カンマの位置まで。
間違いない。
本を閉じた。
静かに、棚に戻した。
「ロザリンドさん? 顔色が悪いけど」
「いえ……少し、立ちくらみで」
嘘をついた。マティアスさんに話しても、今は何もできない。
私の原稿の控えはある。でも、それだけでは盗作の証拠にならない。訳語の癖が一致するだけでは、「たまたま同じ判断をした」と言い逃れられる。
書店を出た。
春の風が顔に当たる。
◇
工房に戻って、椅子に座った。
しばらく何もできなかった。窓の外を見ていた。春の空が淡い紫色に暮れていく。
机の上には、まだ訳していない3通目の恋文がある。
開いた。
聖典古語の文字を追う。2通目よりさらに文体が崩れて、もはや詩の形式をほとんど留めていない。書き手の生の声がそのまま流れ込んでくるような文章。
——「三年間、隣にいたのに一度も伝えられなかった。同じ屋根の下で、同じ空気を吸っていたのに。言葉がない。この古い言語の中にしか、俺の言葉はない」
ペンを置いた。
架空の相手への練習文。
そう思おうとした。そう思えば楽だった。
でも——「三年間」。「同じ屋根の下」。「この古い言語の中にしか」。
(……考えすぎよ。翻訳者が原文に感情移入してどうするの)
窓の外はもう暗い。工房の小さなランプだけが、机の上を照らしている。
恋文の便箋の隣に、まだインクの乾かない通商書簡の翻訳原稿が置いてある。私の名前で、私の訳語で書かれた仕事。
エステラ嬢の本のことを思い出した。
私の仕事を、私の名前を消して出版した人がいる。三年間の翻訳が、他人の実績になっている。
怒りは、ある。
でも不思議と、絶望はなかった。
公爵邸にいた頃の私なら、きっと泣いていた。黙って耐えて、誰にも言えずに飲み込んで、書斎の片隅で膝を抱えていた。
今は違う。
あの本に載っている翻訳は、過去の私の仕事だ。
今の私には、自分の名前で出せる仕事がある。マティアスさんの書店で、商人ギルドで、「ロザリンドさんの翻訳」として評価されている仕事が。
誰にも奪えない。
もう二度と。
3通目の恋文を最後まで訳し終えて、ペンを置いた。
この恋文を書いた人は、誰に宛てて書いたのだろう。
「三年間、隣にいた」相手に。「言葉がなかった」と悔いている相手に。
答えは出さなかった。
出したくなかった——のかもしれない。




