第3話 依頼主と翻訳者
公爵家の紋章が押された封蝋を見た瞬間、指先が冷たくなった。
工房の扉に挟まっていた手紙。昨日の花売りの少女がくれたラベンダーを机に置いて、封を切る。
便箋は公爵家の正式なもの。透かし模様入りの上質紙。差出人の名前を見て、息を止めた。
レクトール・フォン・ヴァイスベルク。
元夫だ。
いや——もう「元夫」ですらない。離縁届は受理された。この人は、もう他人。
中身を読む。
外交文書の翻訳を正式に外注したい、という依頼書だった。公爵家の外交案件は急を要するものが多く、適任の翻訳者が不在の状況にある。ついては貴殿の腕を買い、継続的な翻訳業務を委託したい——
(貴殿)
この人が私のことを「貴殿」と書いている。
三年間の結婚生活で、手紙をもらったのは初めてだった。翻訳の確認依頼は全部、セバスティアン経由の伝言だったから。
依頼書の文面は簡潔で正確だった。余計な修飾がない。翻訳者としては、こういう文章が一番訳しやすい。
——いや、これは翻訳する文書じゃない。私への依頼書だ。仕事の目で読むのはやめなさい。
報酬額を確認して、目が止まった。
銀貨三十枚。一件あたり。
相場の三倍だ。
……外注だから割増ということだろうか。公爵家の機密文書を扱うのだから、守秘義務料が含まれているのかもしれない。
問題は、これを受けるかどうかだ。
元夫の仕事を請けるというのは——正直なところ、気持ちの良い話ではない。やっと離れた相手とまた繋がることになる。
でも。
銀貨三十枚。マティアスさんの依頼は一件あたり七枚。四倍以上の差。これを感情で断れるほど、私の財布は余裕がない。
三日迷って、返事を書いた。お受けします、と。
仕事は仕事だ。感情で断るのは、翻訳者として失格。
◇
レクトール様が港町に現れたのは、返事を出してから四日後のことだった。
工房の扉を叩く音がして開けると、見覚えのある灰色の髪が立っていた。
後ろにセバスティアンが控えている。あの完璧な姿勢。場違いなほど上等な執事服。港町の路地には明らかに似合わない。
「お越しいただく必要はなかったのに。文書は郵送で十分です」
「……現物を確認してもらいたいものがある」
レクトール様は工房に入ると、室内をゆっくりと見回した。
小さな窓、一つだけの机、壁の棚に並ぶ辞書。公爵邸の百分の一もない仕事場を見て、何を思っただろう。
無表情だ。いつも通り。
ただ、窓辺のラベンダーに一瞬だけ目が留まったのは、見間違いだったかもしれない。
「こちらが、今月中に翻訳が必要な文書です」
革鞄から帝国語の通商書簡が三通。どれも見慣れた書式。公爵家にいた頃と同じ種類の文書だ。
一通だけ開いて中身を確認する。通商条約の予備交渉に関する往復書簡。内容の難度は把握できた。
「一週間でお戻しできます」
「……二週間で構わない」
「一週間で十分です」
レクトール様の眉が微かに動いた。それだけ。
この人は昔から、言葉を削る。余計なことを言わない。必要最低限の単語だけで会話を成立させる。
ある意味、翻訳者泣かせだ。行間に意味がありすぎて、訳しようがない。
報酬の話になった。
「銀貨三十枚と書面にありましたが、相場は十枚前後です。高すぎます」
「品質に見合う額だ」
そう言って、目を逸らした。
——目を逸らす?
この人が視線を外すところを、三年間で見た覚えがない。常に正面を見据えて、何も映さない灰色の目で。
気のせいかもしれない。窓の外を見ただけかもしれない。
「……では、お言葉に甘えます」
打ち合わせは三十分ほどで終わった。必要な情報は全部、書面に整理されている。さすがに仕事は正確な人だ。
レクトール様が工房を出る際、セバスティアンが荷物を馬車に運びながら私の方を見た。
「奥様」
「もう奥様ではありませんよ、セバスティアン」
「……失礼いたしました」
少しだけ困ったような顔をして、それから声を落とした。
「旦那様は、今日のお打ち合わせをそれはもう楽しみにしておいででした」
楽しみに? あの無表情の人が?
「社交辞令はお上手ですこと」
「いえ、私は嘘が下手でして」
セバスティアンがそう言って微笑んだ後、思い出したように付け加えた。
「そういえば、旦那様がこちらにお出かけの準備をされている間に、クラインハイム伯爵家のご令嬢がお屋敷をお訪ねになりました」
「エステラ嬢が?」
社交界で才媛と呼ばれている伯爵令嬢だ。私が公爵夫人だった頃、夜会で何度か顔を合わせたことがある。華やかで、話が上手で——私とは正反対の人。
「ええ。旦那様は門番に『用がない』と伝えるよう仰せで。そのまま港町へ発たれました」
用がない。
公爵夫人の座が空いたと聞いて来たのだろうに、「用がない」の一言で門前払い。
(……あの人らしいと言えば、あの人らしい)
セバスティアンが一礼して馬車に戻る。
轍の音が路地に響いて、やがて遠ざかっていった。
◇
一人になった工房で、椅子に座り直す。
打ち合わせの間、手は震えなかった。声も裏返らなかった。
翻訳の仕様について質問し、納期を確認し、報酬を交渉した。
普通の仕事だった。
普通の依頼主と、普通の翻訳者の打ち合わせ。
(もう、あの家の妻ではない)
その事実が、今日初めて身体に馴染んだ気がした。
三年間の夫婦ごっこは終わった。残ったのは、依頼主と翻訳者という対等な関係だけ。
それでいい。それがいい。
通商書簡の翻訳に取りかかろうと鞄の中身を確認したら、三通の書簡の下にもう一通、封筒が挟まっていた。見落としていたらしい。
表書きに『追加依頼』とだけ書いてある。
封を切った。
中の便箋にはこう書かれていた。
——下記の文書の翻訳を依頼する。聖典古語より王国語への翻訳。内容は恋文。
恋文。
「……は?」
声に出た。
工房の壁に、間抜けな声が反響した。
もう一度読み返す。聖典古語。恋文。翻訳。
聖典古語は教会の古い言葉で、今では儀式や古典文献にしか使われない。読み書きできる人間自体が少ない。
なるほど、翻訳が必要な理由は分かる。
分かるけれど。
誰に送る恋文を、元妻に翻訳させようというのか。
窓の外では、港町の夕焼けが海を染めている。潮風が工房に吹き込んで、机の上のラベンダーを揺らした。
依頼書を持つ手が、微かに震えていた。
怒りだと思った。呆れだと思った。
——それ以外の何かだとは、まだ思わなかった。




