第2話 港町の翻訳者
潮の匂いがする。
それと、焼きたてのパンの匂い。公爵邸では嗅いだことのない組み合わせだ。港町ハーフェンの朝は、この二つの匂いで始まるらしい。
離縁届を出してから二週間。
私は王都から馬車で三日の距離にあるこの港町に来ていた。理由は単純——母がこの近くの出身だったから。それ以上の理由はない。行く宛てがないなら、せめて母の匂いがする場所がいい。
手持ちの銀貨を数える。八十七枚。工房の家賃を前払いしたら八十四枚。
三ヶ月は暮らせる。三ヶ月のうちに翻訳の仕事を軌道に乗せなければ、その先はない。
借りた工房は、港から二本入った路地の突き当たり。窓が一つ、机が一つ、椅子が一つ。壁には前の住人が残した棚。公爵邸の書斎の十分の一もない。
十分すぎる。
トランクから翻訳辞書を出して、机の上に置いた。母の手垢でページの端が擦り切れた、使い込まれた辞書。この一冊と、五カ国語を操れる頭だけが私の財産だ。
棚に辞書を立てかけて、ついでにコック長からもらった林檎のタルトを取り出した。包みを開くと、馬車で三日揺られたせいで少し潰れていたけれど、ちゃんと林檎の甘い匂いがする。
一口かじって、少しだけ泣きそうになった。
このタルトの味を知っている人が、この町にはもういない。
——泣かない。ここから先は、泣く暇なんてない。
タルトを食べ終えて、窓を開けた。潮風が工房を吹き抜ける。
帝国語で「はじまり」を意味する単語は二つある。「Anfang」は「何かの冒頭」、「Neubeginn」は「新しく始めること」。
今の私には後者の方がしっくりくる。
◇
翻訳の仕事を探して、港町で最初に訪ねたのは、通りの角にある書店だった。
扉を開けると、古い紙とインクの匂いが押し寄せてくる。公爵邸の書庫に少し似ている。
「いらっしゃい。何をお探しで」
カウンターの奥から顔を出したのは、四十手前くらいの男性。穏やかな目をしているが、こちらを値踏みするような鋭さもある。
「翻訳の仕事を探しています。帝国語、海洋語、聖典古語の翻訳ができます」
「翻訳ね」
男——マティアスさんは、眉を上げた。
「お嬢さん、失礼だけど、どちら様? このあたりで翻訳を頼む人は大抵、商人ギルドの紹介を使う。飛び込みは珍しい」
「ロザリンド・フォン・アッシェンバッハです」
旧姓を名乗るのは、まだ少し舌がもつれる。
「侯爵家の?」
「元、ですけれど」
マティアスさんの目が細くなった。
貴族の道楽だと思われている。分かる。
「……じゃあ、ひとつ試してみようか」
カウンターの下から、帝国語で書かれた交易文書を引っ張り出した。
「これの要約翻訳。今ここで、できる?」
できる。三年間、外交文書を訳し続けた腕だ。
辞書を開いて、ペンを取る。
帝国語の商取引の慣用句。「Vertragspflicht」——この言葉には複数の訳し方がある。「契約義務」でも通じるけれど、交易文書の文脈では「履行責任」の方が正確だ。私はいつも「履行責任」を使う。こちらの方が、意味の範囲が狭くて誤解が生まれない。
三十分で仕上げた。我ながら悪くない出来——
「ここ」
マティアスさんが、翻訳の一箇所を指差した。
「この単位、タル換算じゃなくて樽換算だ。港町の交易ではタルと樽は別物でね。容量が違う」
顔が熱くなった。
外交文書では出てこない、交易の実務用語だ。公爵家の書斎にいるだけでは知り得ない知識。
「……すみません。直します」
「いや、それ以外は完璧だよ」
マティアスさんが、少し驚いた顔をしていた。
「こんな正確な翻訳、久しぶりに見た。飛び込みの貴族のお嬢さんに負けるとは、商人ギルドの翻訳者も形無しだ」
修正した文書を受け取って、マティアスさんは報酬の銀貨を差し出した。七枚。
「今月中にもう二件、交易文書が届く予定だ。よかったら引き受けてくれないか、ロザリンドさん」
銀貨七枚。
自分の力で得た、初めてのお金。
「……はい。喜んで」
声が少し震えた。悔しいのか嬉しいのか、自分でも分からなかった。
◇
夜は長い。
工房の窓から見える空は、公爵邸の窓から見える空と同じはずなのに、広さが全然違う。
一人で眠るのは慣れている。三年間ずっとそうだった。なのに、この部屋の静けさは公爵邸のそれとは違う。
公爵邸では、廊下の向こうに使用人たちの気配があった。時折セバスティアンが「お休みなさいませ」と声をかけてくれた。
ここには、誰もいない。
でも。
(公爵邸にだって「私のための人」はいなかったじゃない)
自分に言い聞かせて、毛布を引き上げた。
枕元に翻訳辞書を置く。母がそばにいるみたいで、少しだけ安心する。子供みたいだと思ったけれど、誰に笑われるわけでもない。
翌朝。
マティアスさんから受けた二件目の翻訳を仕上げた。昨日のタル換算の件を調べ直して、今度は間違えなかった。
報酬の銀貨を握って、工房に戻る帰り道。
道端で花売りの少女が「お姉さん、この町の人?」と声をかけてきた。「今日からね」と答えたら、一輪のラベンダーをおまけしてくれた。
工房の扉に一通の手紙が挟まっていた。
封蝋に刻まれた紋章を見て、足が止まった。
ヴァイスベルク公爵家。
あの家の紋章だ。
◇
公爵邸の書斎には、書類が山を作っていた。
レクトールは机に向かったまま、三通目の外交文書を閉じた。帝国語の通商条約草案。翻訳が必要だが、後任の候補者が訳したものは誤訳だらけで使い物にならない。
「代わりの翻訳者は見つかったの?」
応接椅子に座ったヘルミーネが、扇の向こうからレクトールを見ていた。公爵太夫人の声は、いつも命令と質問の中間にある。
「……まだだ」
「まあ。あの程度の翻訳、代わりはいくらでもいるでしょう? たかが嫁の趣味だったのだし」
レクトールは答えなかった。
趣味。三カ国語の外交文書を一語の誤訳もなく仕上げていた翻訳を、この人は「趣味」と呼ぶ。
候補者三人に同じ文書を訳させて、全員が使い物にならなかった事実は知らないのだろう。
「早く次の縁談をまとめなさい。クラインハイム伯爵家のエステラ嬢なら——」
「用があるなら書面で」
ヘルミーネが扇をぱちんと閉じた。
無言で応接間を出ていく足音が遠ざかるのを待って、レクトールは立ち上がった。
廊下を歩き、東棟に向かう。
ロザリンドの書斎だった部屋。扉は開けなかった。取っ手に手をかけて——止まる。
隙間から見える机の上。栞が挟まれたままの参考書が、二週間前のまま残されていた。
「……旦那様」
背後からセバスティアンの声がした。
「片付けましょうか」
「……いい。そのままにしろ」
「はい」
セバスティアンが一礼して、数歩離れたところで足を止めた。
「——旦那様は、奥様がおられた頃、毎晩この扉の前で立ち止まっておいででした」
レクトールは振り返らなかった。
長い沈黙の後、自分の執務室に戻り、新しい便箋を取り出した。
宛先は、港町ハーフェン。




