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もう夫婦ごっこは終わりにしましょう?  作者: 九葉(くずは)


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第1話 白い結婚の終わり

 もう夫婦ごっこは終わりにしましょう?


 春の風が窓を揺らしている。

 書斎の机に広げた離縁届を、私はもう一度読み返した。文面に誤りがないか確認するのは、三度目。


 我ながら完璧な法文だと思う。

 白紙婚の要件、期間、双方の権利放棄事項。王室貴族局の書式に一字の狂いもない。三年間、外交文書の翻訳ばかりやっていた成果が、まさかこんな形で発揮されるとは。


 笑えない。いや、少し笑える。


 窓の外では、公爵邸の庭師が薔薇の手入れをしている。三年間、この窓からずっと同じ光景を見てきた。一人で朝食を取り、一人で昼食を取り、一人で夕食を取り——一人で眠る。


 一度だけ、あの人の執務室の前にお茶を置いたことがある。結婚して最初の冬。夜更けまで灯りが消えなかったから。

 翌朝、カップはそのまま廊下に残っていた。湯気も温もりも、とうに消えていた。


 それきり、お茶を運ぶのはやめた。


 結婚とは何だろう、と考えたことがある。


 翻訳の仕事をしていると、言葉の定義にはうるさくなる。けれど「結婚」という言葉ほど、辞書と現実が乖離しているものもない。少なくとも私の結婚は。


 レクトール・フォン・ヴァイスベルク公爵。

 私の夫。いや、今日からは「元・夫」になる人。


 三年間、同じ屋根の下にいて、同じ部屋で食事を取ったことは一度もない。会話は月に数回、外交文書の翻訳に関する事務連絡だけ。目を合わせたのは——数えられるほど。


 社交界では「地味で退屈な嫁」と笑われていた。

 知っている。全部、知っている。


 でも、もういい。


 インクが乾いたのを確かめて、離縁届を丁寧に折りたたんだ。この書面一枚で、三年間の夫婦ごっこが終わる。


 不思議と、涙は出なかった。



   ◇



 荷物は昨夜のうちにまとめてある。

 トランクひとつと、母の遺品の翻訳辞書。それだけ。三年も暮らして、持ち出すものがこれだけしかないのは、逆に清々しい。


 (ドレスも宝飾品も、全部あの家のもの。私のものなんて、最初からなかった)


 使用人たちへの挨拶は、手短に済ませた。侍女のリーナが泣きそうな顔をしていたけれど、私が泣いたら収拾がつかなくなる。

 厨房のコック長が「奥様の好きな林檎のタルト、お弁当にしましたから」と包みを押しつけてきた時は、少しだけ危なかった。


「三年間、お世話になりました」


 深く頭を下げると、控室が静まり返った。


 廊下に出たところで、執事のセバスティアンが待ち構えていた。銀髪を撫でつけた長身の男が、いつもの完璧な姿勢を少しだけ崩している。


「奥様」


「セバスティアン」


「……本当に、よろしいので?」


 この人だけだ。この屋敷で、私を「嫁」ではなく「人」として扱ってくれたのは。


「ええ。三年というのは、白紙婚の申し立てに必要な期間ですもの」


 セバスティアンが何か言いかけて、口を閉じた。

 長い沈黙。


「……奥様の翻訳のお力は、旦那様も認めておいでです」


「認めてくださっていたのなら、一度くらい直接おっしゃってくださればよかったのに」


 言ってから、少し意地が悪かったかしら、と思った。

 セバスティアンは何も返さなかった。ただ、深く頭を下げた。



   ◇



 レクトール様の執務室の扉を叩くのは、三年間で数えるほどしかない。

 翻訳の確認。外交文書の締切報告。年に数回の社交行事の日程すり合わせ。


 どれも手紙で済むことばかりだった。

 実際、ほとんどは手紙で済ませていた。


 今日が最後。

 これだけは、手紙では済ませたくなかった。


「入れ」


 短い返事。いつも通り、書類から目を上げない。灰色の髪が額にかかって、表情が読めない。

 この人の表情が読めたことなど、一度もないけれど。


「お時間をいただきます」


「……何だ」


「こちらに、目を通していただけますか」


 離縁届を差し出した。

 レクトール様がようやく顔を上げる。書面を受け取る手が一瞬止まり——文面を読み始めた。


 沈黙が、長い。


 窓の外で鳥が鳴いている。執務室の時計が、かちり、かちりと秒を刻む。

 心臓がうるさい。でも手は震えていない。百回練習した甲斐がある。


「……これは」


「離縁届です。白紙婚の事実と三年の経過期間を根拠に、合意離縁をお願いしたく存じます」


 言葉は淀みなく出た。百回は練習した文言だから。


「お互い不自由でしょう? この結婚に、意味があるとは思えません」


 ——意味。

 また、言葉の定義を考えてしまう。「意味のある結婚」とは何か。「意味のない結婚」とは何か。

 少なくとも、三年間で一度も同じ食卓につかない結婚に、どんな辞書を引いても「意味」という訳語は当てはまらないだろう。


 レクトール様が、ゆっくりと顔を上げた。

 灰色の瞳が私を見ている。いつもの無表情。氷の公爵と呼ばれる所以の、何も映さない目。


 ——なのに。


「……待て」


「待ちません。三年待ちましたので」


 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。

 怒りでもない。悲しみでもない。ただ、腹を括った人間の声だ。


 レクトール様の手が、離縁届を握ったまま微かに震えていた。

 怒っているのだろう。当然だ。公爵家の体面を、妻の側から崩されるのだから。


「持参金は——」


「結構です」


 遮るように言った。

 兄が返せないことは知っている。あの人が私の持参金をどこに使ったかも。


「あの家と金銭で縁が繋がるくらいなら、いりません。清算ではなく、決別をさせてください」


 レクトール様がペンを取った。署名欄に名前を書こうとして——ペンを落とした。

 木の床にペンが当たる音が、やけに大きく響いた。


 拾い上げて、もう一度構えて——また落とした。


 三度目で、ようやく署名が完了した。文字は、少し歪んでいた。

 こんなに手が震えるほど、怒らせてしまったのだろうか。


「……これで」


「ありがとうございます」


 深く一礼して、署名入りの離縁届を受け取る。

 手が冷たかった。紙が、妙に重い。


 振り返らずに、執務室を出た。



   ◇



 公爵邸の門は、思っていたより大きかった。


 三年前、花嫁衣装で通った門。あの日は雨が降っていた。政略結婚の花嫁に、祝福の日差しなど似合わない——と思ったものだ。


 今日は晴れている。

 皮肉なものね。


 馬車に手をかけた瞬間、背後から足音が聞こえた。


「奥様!」


 セバスティアンが、あの完璧な姿勢を崩して走ってくる。執事が走るなんて、この屋敷では前代未聞だろう。


「セバスティアン。もう『奥様』ではありませんよ」


「……旦那様は」


 セバスティアンが息を切らしながら、何かを言いかけた。


「旦那様は、奥様がいなくなったら——」


 そこで、口を閉じた。

 長い沈黙の後、深く頭を下げる。


「……どうぞ、お元気で」


「ええ。あなたも」


 馬車に乗り込んだ。

 扉が閉まる。車輪が動き出す。


 振り返らなかった。


 窓から差し込む春の光が、膝の上に置いた翻訳辞書を照らしている。母の遺品。ページの端が少し擦り切れた、使い込まれた辞書。


 これだけあれば、生きていける。


 ——もう、誰かに必要とされなくても。


 馬車が揺れるたびに、公爵邸が遠ざかっていく。三年間の「夫婦ごっこ」が、春の景色に溶けて消えていく。


 不思議と、涙は出なかった。

 代わりに、笑えた。


 ほんの少しだけ——息がしやすくなった気がした。

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