第10話 初めての求婚
国際会議最終日の朝は、秋の澄んだ空気で始まった。
宿の窓から見える王都の街並みが、朝日に染まっている。港町とは違う光だ。冷たくて、硬くて、でも今日は少しだけ温かい。
朝食の席で、セバスティアンが来た。
「失礼いたします。旦那様からお伝えすることがございます」
セバスティアンが一枚の書面を差し出した。公爵家の帳簿精査の結果報告。
ヘルミーネ・フォン・ヴァイスベルクがクラインハイム伯爵家から年間金貨二百枚の援助を受けていたこと。使途不明金との一致。エステラを次期公爵夫人にする密約の対価だったこと。
全てが、帳簿の数字として並んでいた。
「旦那様は本日付で、太夫人の公爵邸からの退去と家政管理権の返上を命じられました。審問官への提出も完了しております」
「……そう」
感慨はなかった。あの人は最初から、私の味方ではなかった。
でも今は、そのことに傷つく自分はもういない。
「旦那様が、テラスでお待ちです」
セバスティアンが一礼した。その目元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
◇
テラスに出ると、レクトール様が手すりに寄りかかって立っていた。
秋の風が灰色の髪を揺らしている。外套の襟を立てて、街並みを見つめている横顔。
昨日の会議で見た無表情とは、少し違う顔をしていた。
私に気づいて、振り向いた。
沈黙。
この人はいつも沈黙から始まる。言葉が出てくるまでに、少し時間がかかる。聖典古語でなら書けることを、現代語で口にするには——あの日記に書いてあったとおり、この人の身体は抵抗する。
だから、待った。
「——ロザリンド」
息が、止まった。
三年間の結婚生活で、一度も呼ばれなかった名前。
離縁してからの六ヶ月間でも、一度も。
恋文の中にも、日記の中にも、直接書かれることのなかった名前。
「彼女の名を呼びたい。でも声が出ない」——あの日記の最後の一文が蘇った。
今、初めて。
声が、少し震えていた。離縁届にペンを三度落とした日と同じ震え方。でもあの時とは違う。今日の震えには、温度がある。
「守るのではなく、隣に立ちたい」
言葉が短い。でも一語ずつ、自分の中から絞り出すように選んでいるのが分かる。
「やり直すのではなく、新しく始めたい」
「やり直し」ではなく「新しく」。
私がずっと望んでいた言葉だった。白い結婚の三年間をなかったことにするのではなく、ここから始める。
「……条件があります」
レクトール様の灰色の瞳が、真っすぐに私を見ている。
「私の工房は港町に残します。翻訳者ロザリンドとして生きる場所を、手放しません」
「……分かった」
「もう一つ」
少しだけ笑った。自分でも驚くほど、自然に。
「恋文は——聖典古語ではなく、あなたの言葉で書いてください」
レクトール様の目が、見開かれた。
それから——初めて見る表情をした。困っているような、怖がっているような、でもどこかで覚悟を決めたような。
「……努力する」
「努力ではなく、実行でお願いします」
「……善処する」
「善処は努力の類語です」
翻訳者は、言葉に厳しいのだ。
◇
国際会議最終日の晩餐会。
各国の代表、貴族、外交官が集う大広間。シャンデリアの光が、秋の夜を昼のように照らしている。
会議の成功を祝う乾杯が終わり、歓談の時間に入った頃。
レクトール・フォン・ヴァイスベルク公爵が、席から立ち上がった。
会場が静まった。氷の公爵が自ら立つこと自体が異例だ。この男が公の場で発言するのは、外交上の必要がある時だけだと誰もが知っている。
レクトール様の手に、一枚の便箋が握られていた。
聖典古語ではない。王国語の——現代語の文字が並んでいる。
あの人が口を開いた。
「——三年間、同じ屋根の下にいて、一度も言えなかった」
声が震えていた。氷の公爵の声が。公の場で。
「君がいない朝は、コーヒーの味がしない」
会場のどこかで、誰かが息を呑んだ。
「君の翻訳を読む時間が、一日で唯一、俺が言葉を持てる時間だった。それすら伝えられなかった。三年間、一度も」
便箋を持つ手が、かすかに震えている。でも読み上げることをやめない。
「俺は感情の表し方を知らない。母にそう育てられた。泣くな、笑うな、怒るな。全部禁じられて育った」
——言っている。現代語で。公の場で。あの日記に聖典古語で隠していたことを。
「でも、君がいなくなって初めて分かった。感情は弱さじゃない。感情がなければ、失ったものの大きさにすら気づけない」
涙が頬を伝った。——私の頬を。
「三年分を取り戻したいとは言わない。取り戻せない。あの三年間は、俺の愚かさの証だから」
声の震えが大きくなった。でも目は逸らさなかった。灰色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「だから——これから積みたい。隣で。君の隣で」
便箋を下ろした。
会場は水を打ったように静まり返っていた。
氷の公爵が、声を震わせて、一人の翻訳者に恋文を読み上げた。聖典古語ではなく、不器用な現代語で。
椅子から立ち上がった。
涙と、笑いが、同時に込み上げてくる。
「……合格です」
声が裏返った。情けない。でも構わない。
「でも、文法が三箇所間違っています」
一瞬の間。
会場が——笑いに包まれた。
レクトール様の目が見開かれて、それから——笑った。
初めて見る笑顔だった。不器用で、ぎこちなくて、でもちゃんと目尻が下がっている。
泣きながら笑うことが、この人にもできるのだと知った。
距離を詰めた。あと一歩。
キスは、短かった。
唇が触れた瞬間、会場の拍手が聞こえた。
エステラが、会場の入り口に立っていた。中に入る勇気はなかったのだろう。扉の隙間から、こちらを見ていた。何も映さない目で。
私は見なかった。
もう、あちらを見る理由がない。
◇
秋が深まった港町。
工房の窓から、潮風が吹き込んでいる。
机の上にはティーカップが二つ。一つは元からあったもの。もう一つは、先週レクトールが持ってきた。「工房に俺の分がない」と、ぶっきらぼうに言い置いて帰った。
毎週、公爵領から港町まで馬車で半日かけて通ってくる男。
翻訳文書の受け渡しという名目は、もうとっくに形骸化している。文書は郵送で十分だ。分かっている。二人とも。
「——俺の恋文の文法は、いつ合格をもらえる」
レクトールが、机の向かい側でコーヒーを飲みながら言った。無表情に見えるが、耳の先がかすかに赤い。
「一生かかるかもしれませんね」
「……一生か」
「ええ。一生」
レクトールが黙った。コーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。
「悪くない」
窓辺に、傘が立てかけてある。あの雨の日の傘。もう持ち主は分かっている。でも返さない。返す理由がない。
翻訳辞書が棚に立てかけてある。母の遺品。ページの端が擦り切れた辞書。
その隣に、七通の恋文が束ねて置いてある。聖典古語で書かれた、不器用な手紙たち。
そして机の上には、八通目。
現代語で書かれた、文法が三箇所間違っている恋文。
あの人はまだ、私の名前を呼ぶ時に少しだけ声が震える。
たぶん、ずっとそうなのだろう。
それでいい。
港町の秋は、潮と焼きたてのパンと、少しだけコーヒーの匂いがする。
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