日曜日の夜
木乃香
柏木と書かれた表札の家の玄関の鍵を開けると、三足の女性ものの靴のみが並んでいた。
俺の親父の靴は今日もない。長距離トラックの運転手のため家にいることは極まれだ。
リビングに明かりがついていた。女同士、親子水入らずで笑う声が聞こえた。
ギターバッグを抱えたまま二階へ向かうと、『つむぎ』と立て札のかけられた部屋の前に空になった皿の乗った盆が置いてあった。
隣の『しんいち』と書かれた部屋に荷物を置いて、盆を持って下に降りていく。
リビングの扉を開くと、テレビの前のソファーで二人は並んでくつろいでいた。
聡子さんが振り向き、茶色の束ねられた毛先が胸元を撫でた。一応弁明するが、俺は黒服の上を滑る髪を見ていたんだ、胸を見ているわけではない。
「おかえりなさい、真一君」
「ただいまです、聡子さん」
「あんた、今日も道草?」
「うっせ、俺の勝手だろ」
聡子さんの奥隣から、短い黒髪の義姉が顔を出した。相変わらず一歳しか違わないのに偉そうだ。すぐに視線を切って、手に持ったお盆をキッチンに置いた。
リビングテーブルに置かれていたラップ付きの夕食を電子レンジへ運ぶと、キッチンに隠れるようにして、ノイズとオレンジ色のスポットライトを浴びながら回るハンバーグをぼーっと眺めた。
温まった皿を抱えてリビングの隅のテーブルにつくと、ソファーの気配が動いた。
青ジャージが俺の斜め前の席に腰を下ろし、俺を見ている気がする。
俺は彼女を見ないように美味しそうな食事を見ている。
俺なんかよりテレビ見ていてほしい、毎週日曜日は決まって聡子さんと欠かさずに見ている番組でしょうに。
俺は食事に集中できなく、やむなく目を合わせた。
「ねえ」
「なんだ」
「明日は始業式なわけでしょ、私も、あんたも、紬も」
「そうだけど、それが?」
「紬、学校に行くと思う?」
「思わないな」
彼女の短い黒髪が揺れ、一瞬だけ言葉を失ったように見えた。そしてすぐに、切れ長の瞳が刺すような視線に変わった。
俺は流すように小さく「いただきます」をした。
箸でハンバーグを割ると肉汁と一緒に、閉じ込められていた熱気が逃げていく。
ソースを絡めてご飯にバウンドし口へ運んだ。うん、美味い。
「……なんでそう言えるわけ?」
「区切りだからって学校に行くわけないだろ?」
「もう半年もああなのよ? いい加減行かないとじゃん」
「俺は自分の意志に反してまで中学校なんか別に行く必要もないと思うね」
まあ、木乃香には学校に通わない選択肢なんて考えられないと思うけど。
「なんでそう思うわけ? 妹の事なんだからもっと真剣に考えてよ」
「真剣に考えているからこそだし……」
あー言えばこういう、もう嫌になっちゃうぜ。だけど、やっぱり言葉で伝えるのってやっぱりむずいな。
「ってか、この話は俺と話す内容じゃ無くね? 木乃香と紬が話せばいいじゃん」
「……もういい」
椅子を引く鋭い音が、リビングの空気を切り裂いた。木乃香はリビングの戸を乱雑に閉めて階段の方へと歩いていった。階段を上っていく足音は荒くない、最後にパタンと静かにドアが閉まる音が、天井を伝って響いた。紬の部屋で説得という説教をしていないことに少しの安堵を覚える。
リビングに残されたのは、バラエティ番組のわざとらしい笑い声と、俺が飯を咀嚼する音だけだ。
「真一君……」
ソファーから、消え入るような声がした。
「……なんですか」
「ごめんなさいね……。木乃香、あんな言い方しちゃって。真一君を責めるつもりは、あの子にもないと思うのだけど……」
「あ、いや、俺の方こそ……すいません。余計なこと言いました」
聡子さんから困り顔を向けられても俺は困る。だけど、その困り顔は俺を通して木乃香にも紬にも向けているのかもしれないと思った。
「真一君からしたら、あらあらって感じよね?」
あらあら、なんて言葉が似合うのは人妻の聡子さんでしょ。
「はい、木乃香は相変わらず荒々って感じですね」
「真面目すぎるのよね。お姉ちゃんだから、自分がなんとかしなきゃって」
「……わかります」
ご飯を口に放り込み、胸のつかえを誤魔化すように、気になったことを口にする。
「それより聡子さんは、紬が明日学校に行かなくても、怒らないんですか?」
「ええ、別に怒らないわ」
「……何でですか?」
「真面目な姉がいたら、不真面目な妹がいた方がバランスがいいじゃない」
「ははっ」
心のなかで「なんだそれ」と俺は笑うしかできなかった。
しかし、俺は他所様の教育方針にとやかく言うつもりもない。
「紬と一番話をしているのは私や木乃香じゃなくて、案外真一君なのよね」
「まあ、時間帯ですかね、平日の九時以降はみんな部屋にいるし、一人でご飯食べている俺を憐れんで話に来てくれているんですよ」
「私や木乃香と合うと、あの子、すぐに部屋に戻っちゃうのよね……。何とかならないかしら」
「正論をぶつけられたくないお年頃ってやつじゃないですか? 木乃香も俺も紬も」
俺の投げやり気味な言葉に、聡子さんは一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから小さく微笑んだ。
「そうね。きっと、そうなんだわ」
聡子さんはテレビに向かい直った。
リビングにはテレビの向こうの笑い声が、やけに虚しく響いていた。
手を合わし、テレビを眺めている彼女に感謝を示す。
「ごちそうさまでした」
「あら、もう食べ終わったの?」
声が聞こえたのか、聡子さんはこちらを向いた。
「食器洗いは私がやっておくわ?」
「いや、いいっすよ、ゆっくりされて下さい」
「そう……」
彼女がテレビに向き直ったのを確認すると、俺は聡子さんを眺めながら、紬と自分の分を洗った。
「ああ、そうだ、明日の朝ってフレンチトーストにしてもらうことできます?」
「材料あるからできるわよ?」
「じゃあ、お願いします」
「真一君から料理のリクエストなんて、珍しいわね? もちろん、張り切って作っちゃうわ」
なんだか、少しだけ喜んでいるように見えた。実際のところ俺から聡子さんに料理のリクエストなんて普段はしない。俺の母親ではなく木乃香と紬の母親で親父の奥さんなだけだからだ。
サンキュー! オーディエンス!!!




