第六話「ひかり、来る」
金曜日の夜、ひかりから電話が来た。
「明日、行くね」
「え?」
「別府。会いたくなったから」
「急すぎるよ」
「いいじゃない。泊めてくれる?」
「泊めるけど、急すぎる」
「紬らしくない。いつもなら止める前に受け入れるのに」
「……来てもいいよ」
電話を切って、紬は母に言った。
「明日、友達が来るって」
「ひかりちゃん?」と母が笑った。「ちょうどよかった。お部屋、綺麗にしとくね」
「お母さん、なんで嬉しそうなの」
「だって紬、最近一人で抱えすぎてるから。ひかりちゃんが来てくれると安心するよ」
紬は少し黙った。そうかもしれない、と思った。
翌日の昼過ぎ、ひかりが別府駅に降りてきた。
大きなリュックを背負って、サングラスをかけていた。都会の空気をそのまま持ってきたような格好だった。駅を出た瞬間、大きく深呼吸をした。
「潮の匂いがする」
「別府湾が近いから」
「いいねえ、別府。空気が違う」
ひかりが辺りを見回した。温泉の湯気が、あちこちで白く立ち上っていた。
「温泉入りたい」
「後でね。まず正庵に行く?」
「行く行く。紬の職場、見たい。あと耕二さんも見たい」
「何しに来たの」
「紬に会いに来たんだよ。耕二さんはついでだよ」
「顔の順番が逆じゃない」
正庵に着くと、ひかりが暖簾を見た。
「正庵か。渋いね」
「お父さんが付けた名前だよ」
「いい名前じゃない。重みがある」
ひかりが暖簾をくぐった。中に入ると、耕二がいた。今日は土曜日で、紬が午後から練習をすると言ったら、耕二が「見てやる」と言ってついてきていた。
ひかりが耕二を見た。耕二がひかりを見た。
「あなたが耕二さんですか」とひかりが言った。
「そうだ」
「紬からよく聞いてます」
「俺はお前のことを聞いてない」
「あははは、正直な人だ」
ひかりが笑った。耕二が黙った。
紬が「ひかり、からかわないで」と言った。
「からかってないよ。正直でいいなと思って。最近そういう人、東京にいないから」
ひかりがカウンターに座って、店の中を見回した。古い柱、木のカウンター、お父さんの道具が並んだ厨房。
「いい店だね。落ち着く」
「蕎麦、打つとこ見ていいですか」と耕二に向かって言った。
「邪魔するな」と耕二が言った。
「邪魔しません。静かに見てます。すごく静かに」
耕二が紬を見た。紬が「すみません」と頭を下げた。耕二がため息をついた。それが許可だと、紬は解釈した。
紬が蕎麦を打ち始めた。
ひかりが黙って見ていた。
蕎麦粉を袋から出した。さらさらと、こね鉢に落ちていく。紬は粉に手を入れて、指先でこすった。今日の粉の状態を確かめるように。
「何してるの」とひかりが小声で訊いた。
「今日の粉の湿り気を確かめてる」
「粉の湿り気?」
「その日の湿度によって、水の量が変わるから。指で触ってみないとわからない」
ひかりが黙った。そんなところから始まるのか、という顔だった。
水を三回に分けて入れた。一回目を垂らして、指先で素早く均した。粉全体に行き渡るように。二回目を入れた。
ひかりが身を乗り出して見ていた。
「なんか、すごく丁寧だね」
「水回しっていう工程で、ここが一番大事なんだって。粉全体に水を均等に行き渡らせないと、後で全部狂う」
「難しそう」
「難しい。二週間かかって、やっと少しわかってきた」
こねた。体重を乗せて、前に押し出すように。引いて、また押して。
ひかりが「うわあ」と言った。
「何」
「なんか、たくましい」
「やめて」
「でも、東京で見てた紬と全然違う。体全体で打ってるじゃない」
耕二が横で腕を組んで見ていた。何も言わなかった。でも静かに見ていた。
生地が耳たぶくらいの柔らかさになってきた。表面につやが出てきた。紬は布巾を濡らして、生地を包んだ。
「今、休ませてる」と紬が言った。
「休ませる?」
「こねた後に十分から十五分休ませると、水が生地全体に均一に行き渡るんだって。休ませないと、伸ばした時に生地が素直に動かない」
「蕎麦って、そんなに工程があるんだ」
「全部つながってるの。水回しが狂うと、こねが狂う。こねが足りないと、休ませても意味がない。休ませが足りないと、伸ばしが狂う」
「ドミノみたい」
「そう、まさにそれ」
十分後、布巾を開けた。生地を触った。しっとりとして、柔らかかった。落ち着いた生地だった。
伸ばした。打ち粉を打って、麺棒を当てた。最初は手で押しながら丸く広げて、それから麺棒を巻き付けて、前に転がすように伸ばす。力じゃなくて、体重を乗せながら。均一に、薄く。
ひかりが息を呑んだ。
「きれい」
生地が薄く広がっていく様が、確かにきれいだった。紬自身は必死だったが、ひかりの目には違って見えるらしかった。
「お父さんが毎日やってたことだから」と紬は言いながら、麺棒を動かし続けた。
畳んで、切った。
太さがまだ揃わなかった。でも、先週よりはましだった。
耕二が黙って見ていた。その目が、最初の頃とは違う気がした。監視している目じゃなくて、見守っている目だった。
茹でた。器に盛った。湯気が立ち上った。
ひかりの前に置いた。
「食べてみて」
ひかりが箸を取った。一口食べた。
黙っていた。
紬は緊張して待った。ひかりが黙っている時間が、やけに長く感じた。
「……美味しい」
紬が固まった。
「え?」
「美味しいよ。ちゃんと蕎麦の味がする。香りもある」
紬が耕二を見た。耕二が視線を逸らした。
「耕二さん、美味しいって言ってくれました」
「素人の感想だ」
「でも美味しいって」
「まだまだだ」
ひかりがもう一口食べた。
「耕二さん、これ美味しいですよ。お世辞じゃなくて。私、蕎麦好きだからわかります」
「お前には蕎麦の本当の旨さがわからない」
「そうかもしれないけど、美味しいと思ったから美味しいんです。お客さんの感想って、そういうもんじゃないですか」
耕二が黙った。
ひかりが紬を見て、小声で言った。
「紬、頑張ってるじゃない」
紬の目が少し潤んだ。
「泣かないでよ、まだ」とひかりが笑った。「夜にもっと泣かせてあげるから」
夜、三人で別府の居酒屋に行った。
耕二も来た。断ったが、ひかりが「来てください、絶対来てください、お願いします」と三回言ったら来た。押しに弱い人なのかもしれない、と紬は思った。
ひかりが焼酎を頼んだ。耕二も焼酎を頼んだ。紬はビールを頼んだ。
「耕二さんは、ずっと別府にいるんですか」とひかりが訊いた。
「そうだ」
「生まれも別府?」
「違う。師匠についてきた」
「師匠って、紬のお父さんですか」
「……そうだ」
ひかりがグラスを傾けた。少し考えてから、訊いた。
「どんな人だったんですか、正蔵さんは」
耕二が黙った。しばらく焼酎を見ていた。
「無口な人だった」
「怖かったですか」
「最初はそう思った」
「今は?」
「……今は思わない」
ひかりが頷いた。それから、まっすぐ耕二を見た。
「紬のお父さん、耕二さんのこと好きだったと思いますよ」
耕二が顔を上げた。
「なんでそう思う」
「弟子を取るって、好きじゃないとできないじゃないですか。信頼してないとできない。他に弟子はいたんですか」
「……いない」
「でしょ。耕二さんだけだったんですよ。三十年で、耕二さんだけに教えたんですよ」
耕二が焼酎を飲んだ。何も言わなかった。グラスを置く時、少し音がした。
紬はひかりを見た。ひかりが目配せした。
こういうところが、ひかりの好きなところだと紬は思った。普段はふざけているけど、大事な時に大事なことを言える。
帰り道、ひかりが紬に耳打ちした。
「ねえ、耕二さん、かっこよくない?」
「やめて」
「紬、顔赤いよ」
「寒いだけ」
「九月だよ、別府。全然寒くないよ」
「お酒飲んだから」
「どれだけ飲んだの」
ひかりがくすくす笑った。
耕二が少し先を歩いていた。街灯の光の中で、背中が大きかった。
「紬」とひかりが言った。声のトーンが少し変わった。「変わったね」
「そう?」
「うん。東京にいた頃より、顔つきが違う。なんか、地に足がついてる感じ。前は常にちょっと浮いてたんだよね、紬」
「そうだった?」
「そうだったよ。でも今は、ちゃんとここに立ってる感じがする。蕎麦打ってる時の手が、そういう手だった」
「蕎麦打ってる時の手?」
「うん。さっき見てたじゃない。水を入れる時の指先とか、こねる時の体重の乗せ方とか。なんか、迷ってない手だった」
紬は少し驚いた。自分では迷いだらけのつもりだった。でも、ひかりの目には違って見えていた。
「別府の空気に馴染んできたのかな」
「馴染んでるよ、絶対」
ひかりが立ち止まった。
「紬、お父さんに似てきてるよ」
紬が驚いて振り返った。
「そう?」
「うん。なんとなくだけど、蕎麦打ってる時の顔が、写真で見たお父さんに似てた気がした。あの真剣な顔が」
紬は黙った。
「……そうかな」
「そうだよ。間違いなく」
耕二が振り返った。
「何をしてる。置いていくぞ」
二人が走って追いかけた。
別府の夜が、温かかった。
翌朝、ひかりが帰った。
駅まで送りながら、ひかりが言った。
「また来るね。次は蕎麦もっと旨くなってるといいな」
「プレッシャーかけないでよ」
「でも絶対旨くなってるよ。紬なら。だって、もう手が覚えてきてるじゃない」
「ひかりのくせに、たまにいいこと言うね」
「たまには、は余計」
ひかりが笑いながら電車に乗った。窓から手を振った。紬も手を振った。
電車が見えなくなってから、紬は正庵に戻った。
厨房に入ると、蕎麦粉の袋が棚の上にあった。
「お父さん」
紬は言った。
「ひかりがね、お父さんに似てきてるって言ってたよ。本当かなあ。でもね、蕎麦打ってる時の手が迷ってないって言ってくれた。自分じゃ全然わからなかったけど」
少し間を置いた。
「似てたら、嬉しいけど。お父さんの手みたいに、ちゃんと答えがわかる手になれるかな」
窓の外で、温泉の湯気が朝の光の中に白く立ち上っていた。
「正庵の蕎麦、少しずつ近づいてる気がする」
(第六話 了)




