表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
つむぎのそば〜正庵からつむぎ庵へ〜  作者: 八雲 海


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/12

第六話「ひかり、来る」

金曜日の夜、ひかりから電話が来た。


「明日、行くね」


「え?」


「別府。会いたくなったから」


「急すぎるよ」


「いいじゃない。泊めてくれる?」


「泊めるけど、急すぎる」


「紬らしくない。いつもなら止める前に受け入れるのに」


「……来てもいいよ」


電話を切って、紬は母に言った。


「明日、友達が来るって」


「ひかりちゃん?」と母が笑った。「ちょうどよかった。お部屋、綺麗にしとくね」


「お母さん、なんで嬉しそうなの」


「だって紬、最近一人で抱えすぎてるから。ひかりちゃんが来てくれると安心するよ」


紬は少し黙った。そうかもしれない、と思った。




翌日の昼過ぎ、ひかりが別府駅に降りてきた。


大きなリュックを背負って、サングラスをかけていた。都会の空気をそのまま持ってきたような格好だった。駅を出た瞬間、大きく深呼吸をした。


「潮の匂いがする」


「別府湾が近いから」


「いいねえ、別府。空気が違う」


ひかりが辺りを見回した。温泉の湯気が、あちこちで白く立ち上っていた。


「温泉入りたい」


「後でね。まず正庵に行く?」


「行く行く。紬の職場、見たい。あと耕二さんも見たい」


「何しに来たの」


「紬に会いに来たんだよ。耕二さんはついでだよ」


「顔の順番が逆じゃない」




正庵に着くと、ひかりが暖簾を見た。


「正庵か。渋いね」


「お父さんが付けた名前だよ」


「いい名前じゃない。重みがある」


ひかりが暖簾をくぐった。中に入ると、耕二がいた。今日は土曜日で、紬が午後から練習をすると言ったら、耕二が「見てやる」と言ってついてきていた。


ひかりが耕二を見た。耕二がひかりを見た。


「あなたが耕二さんですか」とひかりが言った。


「そうだ」


「紬からよく聞いてます」


「俺はお前のことを聞いてない」


「あははは、正直な人だ」


ひかりが笑った。耕二が黙った。


紬が「ひかり、からかわないで」と言った。


「からかってないよ。正直でいいなと思って。最近そういう人、東京にいないから」


ひかりがカウンターに座って、店の中を見回した。古い柱、木のカウンター、お父さんの道具が並んだ厨房。


「いい店だね。落ち着く」


「蕎麦、打つとこ見ていいですか」と耕二に向かって言った。


「邪魔するな」と耕二が言った。


「邪魔しません。静かに見てます。すごく静かに」


耕二が紬を見た。紬が「すみません」と頭を下げた。耕二がため息をついた。それが許可だと、紬は解釈した。




紬が蕎麦を打ち始めた。


ひかりが黙って見ていた。


蕎麦粉を袋から出した。さらさらと、こね鉢に落ちていく。紬は粉に手を入れて、指先でこすった。今日の粉の状態を確かめるように。


「何してるの」とひかりが小声で訊いた。


「今日の粉の湿り気を確かめてる」


「粉の湿り気?」


「その日の湿度によって、水の量が変わるから。指で触ってみないとわからない」


ひかりが黙った。そんなところから始まるのか、という顔だった。


水を三回に分けて入れた。一回目を垂らして、指先で素早く均した。粉全体に行き渡るように。二回目を入れた。


ひかりが身を乗り出して見ていた。


「なんか、すごく丁寧だね」


「水回しっていう工程で、ここが一番大事なんだって。粉全体に水を均等に行き渡らせないと、後で全部狂う」


「難しそう」


「難しい。二週間かかって、やっと少しわかってきた」


こねた。体重を乗せて、前に押し出すように。引いて、また押して。


ひかりが「うわあ」と言った。


「何」


「なんか、たくましい」


「やめて」


「でも、東京で見てた紬と全然違う。体全体で打ってるじゃない」


耕二が横で腕を組んで見ていた。何も言わなかった。でも静かに見ていた。


生地が耳たぶくらいの柔らかさになってきた。表面につやが出てきた。紬は布巾を濡らして、生地を包んだ。


「今、休ませてる」と紬が言った。


「休ませる?」


「こねた後に十分から十五分休ませると、水が生地全体に均一に行き渡るんだって。休ませないと、伸ばした時に生地が素直に動かない」


「蕎麦って、そんなに工程があるんだ」


「全部つながってるの。水回しが狂うと、こねが狂う。こねが足りないと、休ませても意味がない。休ませが足りないと、伸ばしが狂う」


「ドミノみたい」


「そう、まさにそれ」


十分後、布巾を開けた。生地を触った。しっとりとして、柔らかかった。落ち着いた生地だった。


伸ばした。打ち粉を打って、麺棒を当てた。最初は手で押しながら丸く広げて、それから麺棒を巻き付けて、前に転がすように伸ばす。力じゃなくて、体重を乗せながら。均一に、薄く。


ひかりが息を呑んだ。


「きれい」


生地が薄く広がっていく様が、確かにきれいだった。紬自身は必死だったが、ひかりの目には違って見えるらしかった。


「お父さんが毎日やってたことだから」と紬は言いながら、麺棒を動かし続けた。


畳んで、切った。


太さがまだ揃わなかった。でも、先週よりはましだった。


耕二が黙って見ていた。その目が、最初の頃とは違う気がした。監視している目じゃなくて、見守っている目だった。




茹でた。器に盛った。湯気が立ち上った。


ひかりの前に置いた。


「食べてみて」


ひかりが箸を取った。一口食べた。


黙っていた。


紬は緊張して待った。ひかりが黙っている時間が、やけに長く感じた。


「……美味しい」


紬が固まった。


「え?」


「美味しいよ。ちゃんと蕎麦の味がする。香りもある」


紬が耕二を見た。耕二が視線を逸らした。


「耕二さん、美味しいって言ってくれました」


「素人の感想だ」


「でも美味しいって」


「まだまだだ」


ひかりがもう一口食べた。


「耕二さん、これ美味しいですよ。お世辞じゃなくて。私、蕎麦好きだからわかります」


「お前には蕎麦の本当の旨さがわからない」


「そうかもしれないけど、美味しいと思ったから美味しいんです。お客さんの感想って、そういうもんじゃないですか」


耕二が黙った。


ひかりが紬を見て、小声で言った。


「紬、頑張ってるじゃない」


紬の目が少し潤んだ。


「泣かないでよ、まだ」とひかりが笑った。「夜にもっと泣かせてあげるから」




夜、三人で別府の居酒屋に行った。


耕二も来た。断ったが、ひかりが「来てください、絶対来てください、お願いします」と三回言ったら来た。押しに弱い人なのかもしれない、と紬は思った。


ひかりが焼酎を頼んだ。耕二も焼酎を頼んだ。紬はビールを頼んだ。


「耕二さんは、ずっと別府にいるんですか」とひかりが訊いた。


「そうだ」


「生まれも別府?」


「違う。師匠についてきた」


「師匠って、紬のお父さんですか」


「……そうだ」


ひかりがグラスを傾けた。少し考えてから、訊いた。


「どんな人だったんですか、正蔵さんは」


耕二が黙った。しばらく焼酎を見ていた。


「無口な人だった」


「怖かったですか」


「最初はそう思った」


「今は?」


「……今は思わない」


ひかりが頷いた。それから、まっすぐ耕二を見た。


「紬のお父さん、耕二さんのこと好きだったと思いますよ」


耕二が顔を上げた。


「なんでそう思う」


「弟子を取るって、好きじゃないとできないじゃないですか。信頼してないとできない。他に弟子はいたんですか」


「……いない」


「でしょ。耕二さんだけだったんですよ。三十年で、耕二さんだけに教えたんですよ」


耕二が焼酎を飲んだ。何も言わなかった。グラスを置く時、少し音がした。


紬はひかりを見た。ひかりが目配せした。


こういうところが、ひかりの好きなところだと紬は思った。普段はふざけているけど、大事な時に大事なことを言える。




帰り道、ひかりが紬に耳打ちした。


「ねえ、耕二さん、かっこよくない?」


「やめて」


「紬、顔赤いよ」


「寒いだけ」


「九月だよ、別府。全然寒くないよ」


「お酒飲んだから」


「どれだけ飲んだの」


ひかりがくすくす笑った。


耕二が少し先を歩いていた。街灯の光の中で、背中が大きかった。


「紬」とひかりが言った。声のトーンが少し変わった。「変わったね」


「そう?」


「うん。東京にいた頃より、顔つきが違う。なんか、地に足がついてる感じ。前は常にちょっと浮いてたんだよね、紬」


「そうだった?」


「そうだったよ。でも今は、ちゃんとここに立ってる感じがする。蕎麦打ってる時の手が、そういう手だった」


「蕎麦打ってる時の手?」


「うん。さっき見てたじゃない。水を入れる時の指先とか、こねる時の体重の乗せ方とか。なんか、迷ってない手だった」


紬は少し驚いた。自分では迷いだらけのつもりだった。でも、ひかりの目には違って見えていた。


「別府の空気に馴染んできたのかな」


「馴染んでるよ、絶対」


ひかりが立ち止まった。


「紬、お父さんに似てきてるよ」


紬が驚いて振り返った。


「そう?」


「うん。なんとなくだけど、蕎麦打ってる時の顔が、写真で見たお父さんに似てた気がした。あの真剣な顔が」


紬は黙った。


「……そうかな」


「そうだよ。間違いなく」


耕二が振り返った。


「何をしてる。置いていくぞ」


二人が走って追いかけた。


別府の夜が、温かかった。




翌朝、ひかりが帰った。


駅まで送りながら、ひかりが言った。


「また来るね。次は蕎麦もっと旨くなってるといいな」


「プレッシャーかけないでよ」


「でも絶対旨くなってるよ。紬なら。だって、もう手が覚えてきてるじゃない」


「ひかりのくせに、たまにいいこと言うね」


「たまには、は余計」


ひかりが笑いながら電車に乗った。窓から手を振った。紬も手を振った。


電車が見えなくなってから、紬は正庵に戻った。


厨房に入ると、蕎麦粉の袋が棚の上にあった。


「お父さん」


紬は言った。


「ひかりがね、お父さんに似てきてるって言ってたよ。本当かなあ。でもね、蕎麦打ってる時の手が迷ってないって言ってくれた。自分じゃ全然わからなかったけど」


少し間を置いた。


「似てたら、嬉しいけど。お父さんの手みたいに、ちゃんと答えがわかる手になれるかな」


窓の外で、温泉の湯気が朝の光の中に白く立ち上っていた。


「正庵の蕎麦、少しずつ近づいてる気がする」




(第六話 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ