第七話「お父さんと耕二さんのこと」
三週間が経った。
紬の蕎麦は、また少し変わった。太さが揃ってきた。まだ完璧ではないが、先週よりはましだった。切る時のリズムが、少しだけ安定してきた。包丁を引くたびに、先週より均一な音がした。
でも、今週に入って壁にぶつかっていた。
伸ばしがうまくいかなかった。生地は水回しもこねも先週より安定してきた。休ませた後の生地は、しっとりと落ち着いていた。なのに、麺棒を当てると生地が縮む。伸ばしても伸ばしても、端の方が縮んでいく。薄く広げたつもりが、厚みがバラバラになる。
「なぜ縮むんですか」と紬は耕二に訊いた。
「力が均一じゃないからだ」
「均一に伸ばしてるつもりなんですが」
「つもりだから縮む」
紬は生地を見た。端が少し厚くなっていた。中心は薄くなっているのに、端だけ厚い。
「端に力が届いてないんですか」
「そうだ。麺棒を転がす時、中心に力をかけすぎて、端まで届いていない」
「じゃあ端に力をかければ」
「今度は端だけ薄くなる。全体に均一にかけることが大事だ」
「どうやって均一にするんですか」
「感覚だ」
紬はため息をこらえた。こらえきれなかった。
「また感覚ですか」
「また感覚だ」
「でも今日は、考える方向だけ教えてもらえますか」
耕二が少し黙った。それから、麺棒を手に取った。
「見てろ」
耕二が打ち粉を打った生地に麺棒を当てた。最初は手で押しながら、丸く広げる。それから麺棒に生地を巻き付けて、前に転がしながら伸ばす。その動きが、なめらかだった。
「麺棒を押すんじゃない」と耕二が言いながら、手を動かした。「転がす。体重を麺棒に乗せながら、転がす。押すと中心に力が集まる。転がすと、全体に力が分散する」
「転がす、ですか」
「麺棒が生地の上を滑る感覚じゃなくて、生地を薄く引き延ばしながら転がる感覚。違いがわかるか」
紬は耕二の手を見た。麺棒が前に転がるたびに、生地が薄く均一に広がっていく。端まで、同じ厚みで。
「……見ててもわからないです」
「だから手でやれ」
「でも今見せてもらったのに」
「見ただけでわかるなら、職人はいらない」
紬は麺棒を手に取った。転がす、というイメージで、生地に当てた。
縮んだ。
「また縮みました」
「なぜだと思う」
「転がし方が、まだ押してる感じになってるから……ですか」
「そうだ。体重が乗っていない。腕で転がそうとしている」
紬は姿勢を変えた。こねの時と同じように、体重を上から落とすように。麺棒の上に、体重を乗せながら転がす。
「……少し違う気がします」
「続けろ」
何度もやった。縮む、やり直す、縮む、やり直す。でも少しずつ、縮み方が小さくなってきた。端の厚みが、少しずつ均一に近づいてきた気がした。
その日の午後、耕二と二人で片付けをしていた。
耕二がカウンターに腰を下ろして、お茶を飲んでいた。珍しかった。帰る素振りがない。何かを考えているような、でも考えていないような、そういう顔でお茶を飲んでいた。
紬も隣に座った。
しばらく黙っていた。厨房の時計の音が聞こえた。
「耕二さん」と紬が言った。
「何だ」
「お父さんのこと、聞いてもいいですか」
耕二がお茶を飲んだ。すぐには答えなかった。
「何を聞きたい」
「お父さんって、どんな師匠でしたか」
耕二がしばらく黙った。窓の外を見た。別府の空が、夕方に近づいていた。
「厳しかった」
「どんなふうに?」
「蕎麦のことだけは、一切妥協しなかった。少しでも手を抜くと、最初からやり直しだった。出汁の引き方、粉の扱い方、道具の置き方まで」
「伸ばしとか、切りとかも?」
「全部だ。伸ばしの厚みが一ミリでも揃わないと、やり直し。切りの太さが揃わないと、やり直し。理由を言わずに、ただやり直しだった」
「理由を言わなかったんですか」
「最初の頃は言わなかった。ただ黙って、最初からやり直せ、だけだった。なんでかもわからないまま、毎日やり直し続けた」
紬は耕二の横顔を見た。
「それで、いつからわかったんですか」
「三年目くらいから、少しずつ。やり直しを続けるうちに、手が何かを感じ始めた。伸ばした時に、ここが厚いとか、ここが薄いとか。師匠に言われる前に、自分でわかるようになってきた」
「それが、感覚ですか」
「そうだ。考え続けた先に、感覚がある。俺がよくそう言うのは、師匠がそうやって教えてくれたからだ」
紬は少し驚いた。耕二の「感覚だ」が、お父さんから来ていた。
「お父さんが、耕二さんにそうやって教えたんですね」
「……そうだ」
耕二が湯呑みを両手で持った。
「師匠は口が悪かったが、理由がないことは何もしなかった。やり直しにも、全部理由があった。俺が気づくまで、黙って待っていた。気づいた時、初めて理由を教えてくれた」
紬は厨房を見た。お父さんが毎日立っていた場所を。
「お父さん、褒めてくれましたか」
耕二の手が、少し止まった。
「一度だけ」
声が、少し変わった。
「一度だけ?」
「七年目に、初めて褒めてもらった。『悪くない』と言われた」
「七年かかったんですか」
「そうだ」
紬は少し黙った。七年。毎日打ち続けて、七年目にやっと「悪くない」。
「悪くない、で嬉しかったんですか」
「涙が出た」
耕二が静かに言った。恥ずかしそうでも、誇らしそうでもなく、ただ事実を言うように。
「七年間、その言葉を待ってた。悪くない、って言われた時、ようやく認めてもらえたと思った。それまでは、毎日がわからなかった。自分が正しい方向に向かっているのかも、師匠に認められているのかも、何もわからなかった」
紬の目が潤んだ。
「お父さん、不器用だったんですね」
「そうだ」
耕二が立ち上がった。帰る気配だった。
「喧嘩別れの理由、前に聞いたけど、本当のことを教えてもらえませんか」
耕二が止まった。
しばらく黙っていた。
「……俺が生意気だっただけだ」
「それだけですか」
「それだけだ」
耕二が出ていこうとした。
「耕二さん」
紬が呼び止めた。
「お母さんがね、お父さんは耕二さんのことをずっと心配してたって言ってました」
耕二が振り返らなかった。
「喧嘩別れした後も、ずっと」
ドアの前で、耕二が止まった。
外は夕暮れで、ドアの隙間から橙色の光が入ってきた。
背中が、少し揺れた気がした。
「……そうか」
それだけ言って、出ていった。
ドアが閉まった。橙色の光が、また消えた。
紬は一人、厨房に残った。
お父さんと耕二さんの間に、何があったのか。まだ全部はわからない。でも、二人が互いを大切に思っていたことは、少しずつわかってきた気がした。
その夜、母に電話した。
「お母さん、お父さんって、耕二さんのことどんなふうに話してた?」
母が少し間を置いた。
「不器用な子だって、よく言ってたよ。自分に似てるって」
紬が笑った。
「自分に似てる、か」
「そう。だから心配だったんじゃないかな。自分のことは一番よくわかるから。自分に似てるから、この先どうなるかも、なんとなくわかるから」
紬は窓の外を見た。温泉の街が、夜の灯りに照らされていた。
「お母さん、お父さんって、耕二さんに謝りたかったと思う?」
「……思うよ」と母が言った。「でも、不器用だから言えなかっただけで。心の中ではずっと思ってたと思う」
電話を切って、紬は厨房に入った。
明日の準備をしながら、考えた。
お父さんと耕二さんは似ていた。不器用で、口が悪くて、でも蕎麦のことだけは真剣で。だから喧嘩した。でも本当は、互いを大切にしていた。
麺棒を手に取った。転がす感覚を、もう一度確かめた。押すんじゃなくて、転がす。体重を乗せながら。端まで、均一に。
「お父さん」
紬は言った。
「耕二さんのこと、少しわかってきた気がするよ。お父さんのことも」
少し間を置いた。
「二人とも、不器用だったんだね。でも蕎麦は、正直だったんだね。手に全部出るから」
蕎麦粉の袋が、棚の上から静かに紬を見ていた。
「正庵の蕎麦、少しずつ近づいてる気がする」
(第七話 了)




