第五話「常連のおじちゃんたち」
二週間が経った。
紬の蕎麦は、少しずつ形になってきた。水回しが、少しだけわかってきた。粉に指先を入れた瞬間、今日の粉が昨日より乾いているか湿っているか、なんとなく感じられるようになってきた。なんとなく、だけれど。
でも生地はまとまるようになったのに、茹でると食感がバラバラだった。太いところはもちもちしていて、細いところはすぐに切れた。同じ蕎麦なのに、一口ごとに違う食べ物みたいだった。
「コシが出ないんです」
「こねが足りない」と耕二が言った。
「こねてます」
「こねてない」
「……どのくらいこねればいいんですか」
「感覚だ」
また感覚だった。でも今日は、紬も少し慣れていた。感覚だ、と言われたら、もう少し聞き出す。そう決めていた。
「感覚の前に、こねる目的を教えてもらえますか」
耕二が少し間を置いた。
「水を均一に分散させる。それからグルテンを出す。そのためにこねる」
「グルテン?」
「こねると生地に粘りが出る。その粘りがコシになる。こねが足りないと、粘りが出ない。茹でるとバラバラになる」
「どのくらいこねればいいんですか」
「生地が耳たぶくらいの柔らかさになるまで」
「耳たぶ」
紬は自分の耳たぶを触った。柔らかかった。それから生地を触った。まだ固かった。耳たぶとは全然違った。
「全然違います」
「だから、足りないと言っている」
紬はこね始めた。体重を乗せて、前に押し出すように。引いて、また押して。手のひらの付け根で、生地を台に押しつけるように。
「力で押すな」
「力を入れないとまとまりません」
「体重を使え。腕の力じゃない。上からかぶさるように、体重を落とす。蕎麦打ちは力仕事じゃない」
紬は姿勢を変えた。少し前傾みになって、腰から体重を落とすように。手のひらに体重が乗った。生地の感触が、少し変わった。さっきより、生地が素直に動いた気がした。
「……違う気がします」
「続けろ」
こね続けた。五分。十分。生地が少しずつ変わってきた。最初はごわごわしていたのが、少しずつ滑らかになってきた。表面に光沢が出てきた気がした。
「触ってみろ」と耕二が言った。
紬が生地を触った。
「……柔らかくなってきた。でも、耳たぶとはまだ違う」
「もう少しだ。続けろ」
こね続けた。また五分。生地が、さらに滑らかになった。表面がつやつやしてきた。もう一度触った。
「……近い気がします」
「触ってばかりいると乾く。こね続けながら感じろ」
こねながら感じる。言葉にすると簡単だが、やってみると難しかった。こねることに集中すると感じることができなくて、感じることに集中するとこねる手が止まりそうになる。
でも少しずつ、両方が同時にできるようになってきた気がした。
耕二が「止めろ」と言った。
紬が手を止めた。生地を触った。
「……柔らかい」
耳たぶに近かった。完全に同じではないが、似ていた。
「今日はここまでは来た」と耕二が言った。
「こねは十分ですか」
「まだ足りない。でも今日はここまでだ」
「なんでですか。もう少しこねれば」
「こねすぎると切れる」
「こねすぎてもダメなんですか」
「何事も、やりすぎはダメだ」
紬は生地を見た。つやつやと光っていた。
「次は休ませる工程ですか」
耕二が少し目を細めた。
「覚えていたか」
「最初に教えてもらいましたから」
「……そうだ。次は休ませる」
「何分くらいですか」
「十分から十五分」
「短いですね」
「蕎麦は休ませすぎると乾く。でも休ませないと、水が均一に行き渡らない」
「さっきの水回しと同じですか」
耕二が少し黙った。
「……水回しで均一にしたつもりでも、こねた後にはまだ偏りがある。休ませることで、水が生地全体に落ち着く。そうすることで、その後の伸ばしが素直になる」
紬は生地を濡れ布巾で包んだ。耕二に教わった通りに。乾燥を防ぐために、しっかりと。
「耕二さん」と紬が言った。
「何だ」
「休ませる、って蕎麦だけじゃなくて、人間も同じかもしれないですね」
耕二が黙った。
「急ぎすぎると切れる。でも休みすぎると乾く」
耕二がため息をついた。
「余計なことを言うな」
「でも、そう思いませんか」
「うるさい。待て」
二人で、生地が休むのを待った。厨房が静かだった。時計の音だけが聞こえた。窓の外に、別府の空が見えた。秋の、高い空だった。
十分後、紬が布巾を開けた。生地を触った。
「……さっきと違う」
「どう違う」
「しっとりしてる。さっきより、柔らかくなった気がします。落ち着いた感じがする」
「水が均一に行き渡ったからだ。これが伸ばしに入れる状態だ」
紬は生地を見た。つやつやと、しっとりとして、静かだった。休んだ後の生地は、こねた直後より素直そうに見えた。
伸ばして、切った。
太さがまだバラバラだった。でも、先週よりほんの少しだけ、揃ってきた気がした。
昼過ぎ、正庵のドアが開いた。
田中さんだった。後ろに、いつもの二人もいた。三人セットで来るのが定番になっていた。
「紬ちゃん、今日、蕎麦食べさせてもらえるかな」
「え、でもまだ」
「試食でいいよ。俺たち、正庵の常連だったから。様子見に来たんだ」
紬は耕二を見た。耕二が少し眉をひそめた。でも止めなかった。止めないということは、許可だと紬は解釈した。
「わかりました。打ちます」
紬は蕎麦を打った。耕二が黙って見ていた。いつもより緊張した。人に食べてもらうという意識が、手に出た気がした。
水回しを丁寧にやった。こねた。休ませた。伸ばして、切った。
太さはバラバラだった。でも、今日は先週よりはましだった。
茹でた。器に盛った。
三人の前に置いた。湯気が立ち上った。蕎麦の香りがした。
三人が箸を取った。一口食べた。
黙っていた。
紬は厨房からそっと見ていた。心臓が少し速かった。
田中さんが顔を上げた。
「……頑張ってるな」
紬が待った。続きがあるかと思って。
「頑張ってるな」
それだけだった。
隣の男性も頷いた。「頑張ってるな」
もう一人も言った。「頑張ってるな」
三人とも同じことしか言わなかった。
紬は「ありがとうございます」と言いながら、心の中で沈んだ。頑張ってるな、は美味しいとは違う。三人とも、美味しいとは一言も言わなかった。
耕二が厨房の入り口に立っていた。腕を組んでいた。その顔が、ほんの少しだけ、申し訳なさそうに見えた気がした。気のせいかもしれない。
三人が帰った後、紬は耕二に訊いた。
「頑張ってるな、ってどういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
「美味しいとは言ってくれませんでした」
「当たり前だ」
「じゃあ何が違うんですか」
「全部だ」
「全部って何ですか。もう少し具体的に教えてください」
「香りが弱い。コシがない。太さが揃ってない」
「コシは今日、こねを意識したんですが」
「こね方が変わってきたのはわかる」と耕二が言った。「でも、まだこねが足りない。それから、休ませた後の伸ばしに入るのが早すぎた」
「早すぎた?」
「十分じゃ足りなかった。今日の粉の状態なら、もう五分必要だった」
「どうやってわかるんですか、五分足りなかったって」
「茹でた時のコシで逆算できる」
「逆算、ですか」
「打つ前に予測して、打った後に検証する。それを繰り返すうちに、だんだんわかってくる」
「それも感覚ですか」
「最初は感覚じゃない。考えることだ。感覚になるのは、考え続けた後だ」
紬はこね鉢を洗う手を止めた。
「考えることが先で、感覚はその後なんですね」
「そうだ」
「じゃあ最初から感覚って言うのは」
「考える方向を示してる」
紬は少し黙った。それから、笑いそうになった。感覚だ、という言葉の意味が少しだけ変わった気がした。感覚になれ、じゃなくて、考えろ。考え続けた先に、感覚がある。
「……わかりました」
耕二が出ていく前に言った。
「明日、こねの力の抜き方を教えてやる」
紬が振り返った。耕二はもう出ていく途中だった。
「……ありがとうございます」
ドアが閉まった。
紬は笑った。
その夜、ひかりに電話した。
「今日、常連のおじちゃんたちに食べてもらった」
「どうだった?」
「三人とも、頑張ってるな、しか言わなかった」
「あははは」
ひかりが笑った。
「笑わないでよ」
「ごめんごめん。でも、頑張ってるな、って言ってもらえただけいいじゃない」
「美味しいって言ってほしかった。でも今日、耕二さんに教えてもらったことがあって」
「何を?」
「感覚だ、って最初から言うのは、考える方向を示してるって。考え続けた先に感覚があるって」
「それ、なんかかっこいい言葉だね」
「でしょ。最初は意地悪な言い方だと思ってたんだけど、そういう意味だったんだって」
「耕二さん、不器用なんだね」
「そう。でも、なんか憎めない」
ひかりが少し黙った。
「紬」
「何」
「その人、いい人だと思う」
「関係ない」
「そう言いながら憎めないって言った」
「切るよ」
紬は電話を切った。
厨房を見回した。粉の匂いがした。
片付けを始めた。こね鉢を洗って、台を拭いて、道具を元の場所に戻した。明日はこねの力の抜き方を教えてもらえる。考え続けた先に感覚がある。その言葉が、まだ頭の中にあった。
全部片付いた厨房は、またお父さんがいた頃の顔に戻った。
「お父さん」
紬は厨房に向かって言った。
「今日、こねと休ませを教えてもらったよ。生地が耳たぶみたいに柔らかくなるまでこねて、濡れ布巾で包んで休ませると、水が均一に落ち着くんだって」
少し間を置いた。
「お父さんも、毎日これをやってたんだね。感覚になるまで、考え続けたんだね」
窓の外で、温泉の湯気が白く立ち上っていた。別府の夜が、静かだった。
「正庵の蕎麦、まだ諦めてないから」
(第五話 了)




