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つむぎのそば〜正庵からつむぎ庵へ〜  作者: 八雲 海


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第四話「蕎麦粉と格闘」

一週間が経った。


毎朝七時、耕二が来る。道具の確認をする。紬が蕎麦を打つ。失敗する。耕二が「なぜだと思う」と言う。紬が考える。また打つ。また失敗する。


その繰り返しだった。


「今日こそは」と紬は思いながら、こね鉢に向かった。蕎麦粉を袋から出すと、さらさらと落ちていく音がした。今日の粉は、昨日より少し湿っている気がした。気のせいかもしれない。でも、なんとなく。


水を用意した。耕二に教わった通り、粉の重さに対して四割五分。計算した。でもその数字が目安であって、正解ではないことも教わっていた。今日の湿度、今日の粉の状態、今日の手の温度。全部が数字を狂わせる。


「一回で全部入れるな」と耕二が言っていた。「三回に分けて入れろ。最初の一回目が全部だ」


最初の一回目が全部だ、という言葉の意味が、まだわからなかった。


一回目の水を、端から細く垂らした。粉が水を吸う音がした。それから指先を使って、素早く混ぜ始めた。鷲掴みにするんじゃない、と耕二が言っていた。指先で、粉全体に水を行き渡らせるように。粉一粒一粒に、均等に水を含ませるように。


でも、紬の指先には粉が固まってついていた。粉の一部が湿って塊になり、一部がまだ乾いたまま残っていた。均等に、という感覚が、まるでわからなかった。


「なんで」


思わず声が出た。


「何がなんでだ」と耕二が言った。


「毎日同じことをしてるのに、毎日失敗するんです」


「同じことをしてるから失敗する」


「どういう意味ですか」


「昨日と今日は違う。粉の状態も、湿度も、お前の手の温度も。全部違う」


「そんな細かいことまで」


「水回しはそういうものだ。粉が水を受け取る準備ができているかどうか、指先で確かめながら進む。急いでも、遅くても、ダメだ。粉と話しながらやる」


「粉と話す」


「そうだ」


「……話し方がわかりません」


耕二がため息をついた。でも、突き放すため息じゃなかった。


「二回目の水を入れる前に、今の生地を触ってみろ。どう感じる」


紬は生地に手を当てた。バラバラした感触だった。湿っているところと乾いているところが混在していた。干潮の後の砂浜みたいに、水が偏っていた。


「……バラバラしてます。均一じゃない」


「なぜそうなった」


「……最初の水が、均等に行き渡らなかったから」


「そうだ。だから二回目を入れる前に、まず一回目の水を全体に行き渡らせることだけを考えろ。次のことを考えるな」


紬は生地に向き直った。指先で、バラバラの粉をほぐすように混ぜた。固まった塊をほどくように、乾いた粉を湿った粉に近づけるように。


「手早くやれ」と耕二が言った。「粉は乾燥する。時間をかけると、せっかく含んだ水が飛ぶ」


「でも丁寧にやらないと均等にならないんじゃ」


「手早く、かつ丁寧にだ」


「それは矛盾してませんか」


「矛盾してない。慣れろ」


慣れろ。感覚だ。この人の辞書には三語しか載っていない。


それでも、紬は手を動かし続けた。素早く、でも丁寧に。粉全体を指先で均す。一回、もう一回。少しずつ、粉の感触が変わってくる気がした。バラバラだったものが、少しだけ均一になってくる気がした。気がするだけかもしれない。でも、手のひらが、何かを感じていた。


「……二回目、入れていいですか」


耕二が黙って見ていた。


「入れろ」


二回目の水を入れた。今度は少し少なく。一回目より細く。指先を動かした。今度は少し、粉の感触が違った。まとまろうとしている気がした。まだバラバラだけれど、さっきよりは均一だった。


「耕二さん、水回しって、どうやって覚えたんですか」


「打ち続けた」


「それだけですか」


「それだけだ。でも」


耕二が腕を組んだ。窓の外を見た。


「親父さんは、水回しが全部だと言ってた。ここで失敗したら、あとは全部失敗だと」


紬は蕎麦粉の袋を見た。


「だから、レシピがなかったんですね。レシピに書けないことだから」


「そうだ。数字じゃない。その日の粉と、その日の自分で、毎回答えが変わる」


紬は生地を見た。まだバラバラだった。でも、耕二の言葉が少しずつ体に入ってきた気がした。数字じゃない。粉と話しながら。その日の答えを、手で見つける。


「……続けろ」


紬は手を動かし始めた。




昼過ぎ、正庵のドアがノックされた。


田中さんだった。後ろに、同じくらいの年齢の男性が二人いた。


「紬ちゃん、まだやってるのか」


「田中さん、来てたんですか」


「様子見にな。どうだい、蕎麦は」


「毎日失敗してます」


田中さんが笑った。目が細くなって、皺が深くなる笑い方だった。


「お父さんもそうだったよ。最初の頃は、毎日失敗してたって言ってた」


「お父さんも失敗してたんですか」


「そりゃそうだよ。水回しだけで半年かかったって言ってたよ。指先に感覚が宿るまで、毎日毎日やり続けたって」


水回しだけで半年。紬は少し安心した。一週間で打てないのは当たり前だと思えた。


田中さんが厨房を覗いた。耕二が片付けをしていた。


「耕二くん、来てくれたのか」


「……田中さん」


耕二の声が、少し硬くなった気がした。


「来てくれてよかった。お父さんも喜んでるよ」


耕二は何も言わなかった。片付けを続けた。でも、手が一瞬止まった気がした。


田中さんたちが帰った後、紬は耕二に訊いた。


「田中さん、知ってるんですね」


「常連だったから」


「耕二さんが修行してた頃から?」


「……そうだ」


耕二がこね鉢を棚に戻した。丁寧に、両手で。


「早く打てるようになれ。俺にもやることがある」


そう言って出ていった。


紬は一人、厨房に残った。やることがある、と耕二は言った。自分の店がある。それでも毎日来ている。最初は一回だけのつもりだったのに。


なんで来てくれているんだろう、と紬は思った。でも、訊けなかった。




その夜、また失敗した生地の後始末をしながら、紬はひかりに電話した。


「今日も失敗した」


「何回目?」


「数えてない」


「耕二さんに怒られた?」


「怒るというか……水回しって知ってる? 蕎麦打ちの最初の工程なんだけど」


「知らない」


「粉に水を三回に分けて入れて、指先で全体に均等に行き渡らせるんだけど、これが全然できなくて。耕二さんに粉と話しながらやれって言われた」


「粉と話す?」


「そう。その日の粉の状態を、手で感じながら、水の量を変えていくらしくて。数字じゃないんだって」


「……難しそうだね」


「でも、今日少しだけわかった気がした。水を入れた後の粉の感触が、昨日と少し違った。うまく言えないけど、手が何かを感じた」


「それって、感覚が育ってきてるってことじゃない?」


紬は洗ったこね鉢を拭きながら、考えた。


「そうかな」


「そうだよ。毎日やってるから、体が覚えてきてるんだよ」


「ひかりのくせに、たまにいいこと言うね」


「たまには、は余計」


電話を切って、紬は厨房の真ん中に立った。


静かだった。


蕎麦粉の匂いがした。失敗した生地の匂いも、まだ残っていた。でもその匂いが、お父さんの匂いと重なった。お父さんも毎日、水回しだけで半年、この匂いの中で立っていた。指先に感覚が宿るまで、毎日やり続けた。


「お父さん」


紬は言った。


「水回しって、難しいね。でも今日、少しだけ手が何かを感じた気がした。粉が、少しだけ話しかけてきた気がした」


返事はない。でも、厨房が少しだけ温かい気がした。


「正庵の蕎麦、まだ諦めてないから」


蕎麦粉の袋が、棚の上から紬を見ていた。明日もまた格闘しろ、と言っているみたいだった。




(第四話 了)

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