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つむぎのそば〜正庵からつむぎ庵へ〜  作者: 八雲 海


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第三話「三度目の正直」

耕二が正庵に来たのは、約束の翌日だった。


時間は朝の七時。紬がまだ寝ぼけた顔で玄関を開けると、耕二がエプロンを持って立っていた。昨日と同じ無愛想な顔だった。おはようございますも言わなかった。


「早すぎますよ」


「蕎麦屋は朝が早い」


「七時ですよ」


「遅いくらいだ」


「……七時が遅いってどういう計算ですか」


「蕎麦屋は五時起きだ」


「聞いてません、そんな話」


耕二が中に入った。勝手知ったる、という感じだった。迷わず厨房に向かった。紬が慌てて後を追いながら、寝癖を手で押さえた。


厨房に入った耕二が、道具を一つ一つ確認し始めた。


蕎麦打ち台を触った。表面を指で撫でて、木の感触を確かめるように。麺棒を持ち上げた。重さを確かめるように、何度か手の中で転がした。こね鉢を見た。


そこで、耕二の動きが止まった。


「……全部、そのままだ」


声が少し低くなった。


「お父さんの道具、そのままにしておいたので」


「……そうか」


耕二がこね鉢を両手で持った。しばらく、そのままでいた。指先でゆっくりと縁をなぞった。内側を、外側を、また内側を。


紬は黙って見ていた。


さっきまでの仏頂面と、少し違う顔だった。道具を触るこの人は、別の何かを見ているみたいだった。お父さんの面影を、道具の中に探しているみたいだった。


耕二がこね鉢を置いた。いつもの顔に戻った。


「まず、道具の名前と使い方から教えてやる」


「よろしくお願いします」


「一回しか言わない。聞き逃すな」


「はい」


「返事はいらない。黙って聞け」


「……はい」


「返事するな」


紬は口を閉じた。心の中で「はい」と言った。


道具の説明が始まった。こね鉢、蕎麦打ち台、麺棒、駒板、そば切り包丁。耕二が一つずつ手に取って、用途と扱い方を説明した。説明は簡潔で、余計な言葉がなかった。でも一言一言が具体的で、聞いているうちに道具の役割が頭の中に入ってきた。


紬はメモを取ろうとした。


「何をしてる」


「メモを」


「手で覚えろ。紙に書いても意味がない」


「でも忘れたら」


「忘れるくらいなら、最初から向いてない」


紬はメモ帳をしまった。向いてないとは言わせない、と思いながら。


説明が終わって、耕二が言った。


「やってみろ」


「え、今日からですか」


「当たり前だ。見てるだけで覚えられるなら、誰でも職人になれる」


「せめて一回お手本を見せてもらえませんか」


「見てどうする」


「参考に」


「参考にできるなら苦労しない」


この人、徹底している。紬は諦めて蕎麦粉の袋を持った。ずっしりと重かった。


「どのくらい入れるんですか」


「感覚で覚えろ」


「感覚って、初日から感覚ですか」


「そうだ」


「感覚がないから聞いてるんですが」


「だから手で覚えると言っている」


感覚がないから手で覚えろ、というのは理屈として成立しているのだろうか。紬は考えることをやめて、蕎麦粉をこね鉢に入れた。さらさらと、粉が落ちていく音がした。


水を入れた。少しずつ、回しながら。混ぜた。


生地がまとまらなかった。粉がバラバラのまま、こね鉢の中で転がっていた。砂場の砂みたいだった。


「あの、これは」


「見ればわかる」


「まとまらないんですが」


「なぜだと思う」


「わかりません」


「考えろ」


紬は生地を見た。考えた。粉がバラバラということは、つなぎが足りない。つなぎは水だ。


「水が足りない、ですか」


「やってみろ」


水を少し足した。また混ぜた。今度は少しまとまってきた。でも、まだバラバラな部分がある。


「また足りないですか」


「やりすぎると今度は水が多くなる」


「じゃあどうすれば」


「感覚だ」


感覚、感覚、感覚。この人の辞書には「感覚」しか載っていない。


「耕二さん、感覚以外の言葉を知っていますか」


しまった、と思った瞬間に口から出ていた。


耕二が紬を見た。表情が変わらなかった。


「……知ってる」


「じゃあ教えてもらえると」


「感覚で覚えろ」


紬は黙った。口の中で何かを言いたかったが、こらえた。それでも、手を動かし続けた。


一時間後、紬の生地は完成しなかった。


べたついて、崩れて、どうにもならなかった。粉の匂いが厨房に充満していた。


耕二が生地を見た。


「今日はここまでだ」


「まだやります」


「無理だ。生地がダメになった」


「もう一回やらせてください」


「……粉は有限だ」


耕二が蕎麦粉の袋を指差した。かなり減っていた。これが全部失敗作になったのかと思うと、申し訳なくて、情けなかった。


紬は床に座り込んだ。エプロンが粉だらけだった。膝も粉だらけだった。


「情けない顔をするな」と耕二が言った。


「してません」


「してる」


「……少しだけしてます」


「少しでもするな」


紬は顔を上げた。


「耕二さん、今日は結果が出なくても怒らないんですか」


「怒ってどうなる」


「……そうですね」


耕二が腕を組んだ。


「初日で打てたら、俺は三年もかからなかった」


紬が耕二を見た。三年。三年かけて、お父さんの蕎麦を学んだ人間が言う言葉だった。


「耕二さんも、最初は失敗したんですか」


「当たり前だ」


「何回くらい」


「数えてない」


「数えられないくらい?」


「……うるさい」


耕二が厨房の片付けを始めた。道具を丁寧に拭いて、元の場所に戻していく。その手つきが、丁寧だった。道具を大切にしているのが、見ていてわかった。


「明日も来るのか」と耕二が訊いた。


紬は少し驚いた。来るかどうかを確認している。つまり、来ることを想定している。


「来ます」


「七時だ」


「……今度は起きてます」


「当たり前だ」


耕二が出ていった。


紬は厨房に一人残った。粉まみれのこね鉢を見た。失敗した生地の残骸を見た。床に散らばった粉を見た。


でも、不思議と気持ちは沈んでいなかった。


耕二が来た。道具を教えてくれた。怒らなかった。明日も来ると言った。一回だけのつもりだったはずなのに、明日も来ると言った。それだけで、十分だった。


スマホを取り出した。ひかりに電話した。


「今日、初日だったんだけど」


「どうだった?」


「盛大に失敗した。粉だらけになった」


「ええ、大丈夫?」


「全然大丈夫じゃない。でも」


「でも?」


「なんか、楽しかった気がする」


ひかりが少し黙った。


「紬、それ大事なやつだよ」


「そう?」


「楽しかったって思えてるなら、続けられるよ」


「そうかも。あと耕二さん、感覚しか言わないんだよ」


「感覚?」


「何を聞いても感覚って言う。感覚がないから聞いてるのに」


「それは……大変だね」


「大変。でも、なんか憎めない」


ひかりがまた黙った。今度は少し長かった。


「紬」


「何」


「その人、いい人だと思う」


「関係ない」


「そう言いながら憎めないって言った」


「切るよ」


紬は電話を切った。


厨房を見回した。粉の匂いがした。お父さんの匂いだと思った。


片付けを始めた。こね鉢を洗って、台を拭いて、道具を元の場所に戻した。耕二が説明した通りの場所に。一回しか言わないと言っていたが、ちゃんと覚えていた。


全部片付いた厨房は、またお父さんがいた頃の顔に戻った。


「お父さん」


紬は厨房に向かって言った。


「正庵の蕎麦、まだ諦めてないから」


窓の外で、温泉の湯気が白く立ち上っていた。別府の夜が、静かだった。




(第三話 了)

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