第二話「弟子の存在」
翌朝、紬は正庵の前に立った。
閉まっている。当たり前だ。お父さんがいないのだから。でも看板はそのままで、暖簾もそのままで、正庵はただ静かに紬を待っていた。まるで、次の人間が来るのを最初からわかっていたように。
どうするか。
約束はした。でも蕎麦の打ち方がわからない。レシピもない。道具の使い方も知らない。どこから手をつければいいか、何もわからなかった。東京で十年間OLをやってきた自分が、別府で蕎麦屋を継ぐ。そう言葉にすると、現実感がなくて笑えてくる。でも笑っている場合じゃない。
途方に暮れていると、後ろから声がかかった。
「紬ちゃんか」
振り返ると、六十代のおじいさんが立っていた。白髪で、背が低くて、目が細かった。柔らかい人だな、と思った。
「田中です。正庵の常連で。お父さんに長年お世話になってたんだよ」
田中さんだと、母から聞いたことがある。毎日のように来ていた人だと。
「店、どうするんだい」
「継ごうと思って。お父さんと約束したので」
「そうか。……でも、蕎麦打ったことあるかい」
「ないです」
「レシピは?」
「ないです」
「……そうか」
田中さんが少し黙った。困ったような、でも何かを考えているような顔だった。
「弟子がいたんだよ、お父さんに」
紬が顔を上げた。
「弟子?」
「三年前に喧嘩別れしたけど、その子ならお父さんの蕎麦がわかるはずだ。今は別府市内で自分の店をやってるよ。駅の近くだったかな」
弟子。
紬は初めてその言葉を聞いた。お父さんが弟子を取っていたことも、知らなかった。東京にいる間に、知らないことがたくさんあったのだと思った。三年間、どれだけお父さんのことを見ていなかったのか。
耕二の店は、別府駅から少し歩いたところにあった。
古い路地の奥。観光客が来るような通りじゃない。でも、近づくにつれて蕎麦の香りがした。焼けるような、土のような、深い香りだった。思わず足が止まった。
「手打ちそば 耕二」
小さな暖簾が出ていた。墨で書いた文字が、少し滲んでいた。
引き戸を開けると、カウンターが五席と小上がりが二卓。古い造りだが清潔感があった。柱の木目が美しかった。
厨房に、男がいた。
四十がらみ。背が高くて、肩幅が広い。無愛想な顔をしていた。紬を見たが、何も言わなかった。いらっしゃいませも言わなかった。
「いらっしゃいませ」と言ったのは、隣にいた若い女性スタッフだった。
紬はカウンターに座った。
せいろを頼んだ。
出てきた蕎麦を一口食べた。
旨かった。細くて、コシがあって、香りがした。でも、どこか物足りない気がした。何が足りないのかはわからない。でも何かが、惜しかった。
食べ終わって、紬は立ち上がった。
「あの」
男が顔を上げた。無表情だった。
「私、竹内正蔵の娘で」
男の手が止まった。
箸を持ったまま、動かなくなった。
「……知ってる」
低い声だった。
「正庵を継ごうと思っています。お父さんの蕎麦の打ち方を、教えていただけませんか」
男が紬を見た。しばらく黙っていた。何かを測るように見ていた。
「断る」
それだけ言って、また厨房に向かった。
紬は少し立ち尽くした。予想はしていた。でも、実際に断られると、やはり堪えた。それでも、頭を下げた。
「わかりました。また来ます」
男は振り返らなかった。
翌日、紬はまた来た。
昼時を少し外した時間だった。店が落ち着いている頃を狙った。
「昨日の人か」と男が言った。
「はい。竹内紬といいます。もう一度お願いします」
「断ると言った」
「はい。でももう一度お願いします」
男が黙った。カウンターを拭く手を止めた。
「帰れ」
紬は帰った。でも、入り口のところで振り返った。
「明日また来ます」
男は何も言わなかった。布巾でカウンターを拭き続けていた。
三日目、紬はまた来た。
今日は開店前を狙った。暖簾が出る前に来た。
男が準備をしていた。紬を見て、ため息をついた。盛大なため息だった。
「まだ来るのか」
「はい」
「しつこい」
「お父さんと約束したので」
男が手を止めた。
「……何を約束した」
「正庵を続けるって」
「お前に蕎麦が打てるか」
「打てません。でも、やります」
「無理だ」
「やってみないとわかりません」
男がまた黙った。長い沈黙だった。厨房の奥で、出汁の匂いがした。
「お父さんの蕎麦は、あなたにしかわからない」
紬が言った。
「……知ってる」と男は言った。
また黙った。
紬は待った。急かさなかった。ただ、待った。
男がため息をついた。今度は小さかった。諦めに近いため息だった。
「……一回だけだ。一回だけ見てやる。それで無理だと思ったら、諦めろ」
「ありがとうございます」
紬が深々と頭を下げた。
「うるさい」
男が顔を背けた。でも追い払わなかった。
「名前、聞いていいですか」
「……耕二だ」
「耕二さん、よろしくお願いします」
耕二は答えなかった。でも、追い払いはしなかった。
その夜、紬はひかりに電話した。
「弟子、見つかった」
「ほんとに? どんな人?」
「最悪。口悪くて、ぶっきらぼうで、三回断られた」
「三回? それで諦めなかったの?」
「約束したから」
ひかりが笑った。
「紬らしいね」
「そう?」
「そうだよ。で、その人、どんな感じ?」
「四十歳くらいで、背が高くて、無愛想で。蕎麦は旨かった」
「かっこいいの?」
「関係ない」
「顔が浮かんでから答えた?」
「切るよ」
紬は電話を切った。
窓の外に、別府の夜景が広がっていた。温泉の湯気が、いつものように白く浮かんでいた。
明日から、始まる。
「お父さん」と紬は呟いた。「正庵の蕎麦、必ず守るから」
お父さんの声が、どこかで聞こえた気がした。
(第二話 了)




